第13話:狐火来たりなば・序
深夜――丑三つ時を越えた頃。
あやめは、夢に魘されていた。
覚えがあるは、これは夢ぞと自覚があるから。
だが、やけに明晰として気味が悪い。
床に就いていた筈のここは、アパートの一室。
貴之の家を出てより暮らし始めた新たな棲家だ。
その夢の中の我が根城へ、無粋な来客が訪れていた。
ゆぅらり、ゆぅら、ゆらぁり……
あやめの周囲を飛び回る、それは狐火。
蒼白く、時に橙の色を揺らめかせながら、戯れるが如し。
あやめは枕元の愛刀を引っ掴み、即座に抜刀する。
真一文字に斬り捨てども斬り捨てども、狐火は消えては現れ、現れては消える。
さては妖の仕業であろう。あやめはすぐに気が付いた。
よく見知った我が室内に、ユラユラと揺れる狐火とは。
不愉快この上ない状況に、あやめが声を荒らげる。
「其処に或るは何者じゃ、出てこい!」
あやめは気と云う気を読み取れる。それは夢の中でも変わらじ。
糾す大喝に呼応して、一人の女が現れた。
その女、ふわり、ふわりと身は軽く、重力などまるで感じぬ。
その姿、真白き狩衣に市女笠。
笠より垂れ下がる白き薄布は虫の垂衣。
よって女の表情は、あやめから一切窺えぬ。
窺えぬが、紛う事無き妙齢の美女である――と忽ち知れた。
何故そうと知れたかは、げに不思議なことだった。
「夜更けぬ先に、帰らせおはしませ……」
美女が、幽し声であやめにそう告げた。
夜が更けない前に、お帰りあそばせ――
如何にそう問われども、あやめにはとんと心当たりがない。
「夜更けぬ先に、帰らせおはしませ……」
頸を捻っている間に、女は同じ言ノ葉を繰り返す。
繰り返されてあやめは、ムキになって応答す。
「何処へ帰れと云うか、此処こそが儂の棲家ぞ!」
そう怒鳴って一太刀見舞う。
すると周囲は、見る間に薄野原へと姿を変えた。
荒涼と寂しげなこの景色。あやめの知るところではない。
どうやら夢の中を支配されていると見える。
夢の中は敵の掌が上。あやめは圧倒的不利な状況に居た。
「……くそっ!」
まずは距離を取らねばと、あやめは荒野を疾りだす。
ふわり、ふわり……
空気の如く身軽な女は、即ぐさま手前へ回り込む。
あやめは幾度となく踵を反せど、その度に往く手へ阻まれた。
じわり、じわり。
女と同様、狐火も踊るように距離を縮めて取り囲んだ。
自慢の愛刀で狐火を斬り払い、往く手を拓くと再び疾る。
だが疾れども疾れども追いつかれ、抵抗すれども悉く敵わじ。
「くそっ、止めんか……儂を誰だと思っておるか! 儂は千年悪鬼ぞ!!」
「くっくく、くふふぅ……」
それ見た女は、虫の垂衣が向こう側で、うっすらと微笑みを浮かべた。
短気なあやめの癪に障ること、この上ないことこの上ない。
如何なる手を講じようと、抗えども、どうにもこうにも埒が開かぬ。
やがてあやめは疲れ果て、狐火はその身の上へ群がる様に追い縋る。
そうしてあやめを覆い尽くし、鬼気をねっとりと絡め取ろうとす。
「くっ、くそっ、不甲斐ない!」
何しろ男の時とは勝手が違う。力だけでは到底振り払えぬ。
げに恨めしきは、幼き女子に変わりし身の上よ。
体力乏しきこの身では、今までの様にはいかない。
あやめは嫌と云う程に、改めて現実とやらを思い知らされた。
「嗚呼、口惜しや……」
狐火はあやめの小さき身の上を、覆い尽くさんばかりに埋め尽くした。
最早是迄……そう諦めかけたその時である。
「……はっ!」
あやめは不意に解き放たれて目が醒めた。
そうして目醒めるや、思わず布団を蹴っ飛ばして跳ね起きる。
はぁはぁと息荒く、汗は額よりだくだくと流れていた。
窓の外を見やれば白々と、漸う地平線に陽が昇る頃合いであった。
「日の出が時刻に、助けられたか」
あやめはカラカラに渇き切った喉でそう呟いた。
冷や汗に濡れた寝巻は、この上なく居心地悪し。
何より、寝覚めの悪さはとてつもない。
夜更けぬ先に、帰らせおはしませ――
幽玄へと誘うような不吉な声が、未だ脳裏より離れぬ。
それにしても千年悪鬼とした者が、狐火如きに蹂躙されようとは。嘗て金剛力士が如き逞しき我が身を失い、げに頼りなき女の身となりし宿命を、自ら呪う他に手段なし。
永代生きし世の狭間にて、独りぽつんと取り残された、心細さが我が身を襲う。
「ええい、なんと不自由な身体か……夢見の悪い!」
あやめはそう吐き捨てると、手近の手拭いを引っ掴んで風呂場へと消えた。
◆ ◆ ◆
朝の登校時、あやめはいつも通りに貴之を迎えに行った。
件の悪夢はだんまりと、知らぬ顔を決め込んだ。悪夢に魘され音を上げた。そうと知れるは末期までの恥晒しよと、そんな気持ちが働いたのだ。
普段通りな通学路上、貴之との会話の中で、あやめは素っ頓狂な声を上げる。
「なんじゃと!? アレは災厄のひとつではないじゃと?!」
「そうだ。あれは災厄などではない」
アレとは、ショッピングモールに於ける狐火とのひと悶着の事である。
かの闘いは、老人から貰った力を使うまでもなかった。ということは、三つの災厄がひとつではない――と貴之は考えた。そうと聞かされ納得がいかぬは、あやめである。
「張り切って遣り合った儂が、まるで莫迦みたいではないか!」
「まぁ、そう云うな」
「これでは骨折り損の草臥れ儲けじゃ!」
憤慨して頬をぷぅと膨らまし、臍を曲げて拗ねている。
その姿、まさに駄々をこねた幼子の様で、見るからにいと愛らし。
対して貴之は落ち着き払い、わざとらしく目を細めてこう説いた。
「ほう、そうか……あやめは慎み深いのだな」
「な、なんだ急に、藪から棒に……」
「第一の災厄が、如何なるものであったか思い出せ」
「んんっ?」
あやめは小さな顎を摘んで小頸を捻った。第一の災厄と云えば、貴島あやめこと鬼島嶄九郎による鬼島組一家惨殺事件である。凄惨な悲鳴と真っ赤な血飛沫飛び交う一夜の惨劇に、いったい幾つの命が徒花を散らせたことやら。
「むむっ……」
「昨夜の狐火騒動が、千年悪鬼の千人殺しと同等とでも?」
「おおっ! それはそうだ。うむ、それはそうだな!」
そうと告げると、あやめはあっさりと機嫌を直した。
何しろあやめは貴之のことを、稀代の仙術使いであるとすっかり信じ込んでいる。その導師があやめの前身・嶄九郎であったと云えど高く評価していると知って、機嫌を好くせぬ謂れはない。時折「そうかそうかー」などと口にし、ニヤニヤと相好を崩して居る。何事にもチョロさとは、あらまほしき事なり。
機嫌を好くしたところで、あやめは突然目をすうっと細め、小声で貴之に訊ねた。
「おい、ところで如何にせん」
「なんだ?」
「なに、貴様も気付いているだろう?」
「何をだ?」
「惚けるな。貴様ほどの術士が気付かん訳があるまい」
「だから何をだ?」
平気の平左とした表情で返す貴之に、あやめはカリカリと焦れ始めた。
「尾行じゃ……! 入れ替わり立ち代りで数十人は居るぞ」
今朝方から何者かが尾行をしている――あやめはそう耳打ちした。
周囲の気配をよく読むあやめは、その男らから微かな妖気を感じ取っている。どうやらあのショッピングモールでの事件と同様、操られた者たちの仕業らしい。
当然、貴之はそんなものに気づいてはいない。
妖気を感じて尾行を知るなど、極普通の人間には到底できぬ芸当である。
「彼奴らは大掛かりな組織か、かなりの手練だ」
「そうか」
それが分かったところで、貴之には何もできぬ。
ならばと『三つの掟』を思い出すこととした。
恐怖に呑まれてはならぬ――常に平静を保つべし。
「どうする?」
「どうもこうもない」
尾行の事実を受けて尚、貴之は落ち着き払って応じた。
否、落ち着き払っているように見せた。
「どういう意味じゃ?」
「何も案ずることはない、と云うことだ」
「ああん?」
「隙を見せなければいい」
貴之は、事も無げに言い放つ。
隙を見せぬなどと口では易々と候えど、そう容易いことではない。だがこの男の飄々とした態度。見ていると何故か案ずる事無く覚しけるは、いと奇し。
「ううむ、では彼奴らが襲ってきたらどうする」
「それを逆手に取ればいい」
それを聞いたあやめは一瞬、ぽかんという顔をした。
だがすぐに愛らしい口元を、真一文字に引き締めた。
貴之に何か策がある――そう察したのである。
「ムムム……」
あやめは貴之の豪胆な様に呻った。
だが実際は、貴之に策など何もない。
これぞ『三つの掟』が一つ。
真実を示してはならぬ――全てを偽り騙すべし。
「分かってはいた。分かってはいたが大胆不敵なヤツだ……!」
あやめは悔しげに歯を噛んだ。
「くそっ、食えん。まったく食えん!」
苦々しげに、あやめは愚痴を吐き捨てる。
しかしその表情は、どことなく愉快気である。
少なくとも貴之には、そう見えた。




