空が見たかった
見えない。見えない。見えない。
空は青いって聞いているけど、私には空は見えない。いったいどれくらい青いのだろうか。青ってそもそもなんなんだろうか。
私にはわからない。
でも、きっと存在している。
「瞳、なにをしているんだい?」
声の主の方向に振り返る。声の反響音からして遠くはない。私に近づく足音。
「別に、風は感じられるから、窓辺にいただけ」
静寂だ。声の主はどうやら困っているようだ。顔は見えないから私の憶測だけど。だから私はその人の元へと歩いていく。空を何度かつかみんで、やっとその人の肩に手をかけ、背中を抱きしめる。
「温もりも感じられるんだよ」
私の背中に手が回され、強く抱きしめられる。それが愛情の印なのだろう。この人にとって。私にとってはなんの慰めにもならないけど。
悪戯心に火が付いた。
「ねえ、幽霊って信じる?」
「なんだい突然に?」
本当にね。でも、私には私の世界があるし、倫理観というのもある。
「だって、目に見えないものからって存在を否定するのは間違いじゃない? 私が目にしていないものはちゃんと存在しているのよ。だから、信じたって不思議ではないでしょ」
「君が見えていないだけで、世界はちゃんとここにあるよ。君だって海は見えていなくても、波のさざなみ、海水の匂い、質感はわかるだろう」
「……そうね。ちょっとずるい世の中ね。私は仲間外れにされてるみたいで」
私は彼から離れて、病室の椅子を探しだして座る。濃度の高いアルコール臭と、汚物の匂いが混じり合う病棟にあるこの部屋は、あまりにも異質だ。
「生まれ変わったら、普通になれるのかな」
「普通でも、世の中生きづらいよ」
「持っているものの理屈ね」
いつか、私が私で無くなったときに感じるなんて皮肉じゃない。たった一つみんなが持っているものを望んでいたのに、その時には幸せを感じられないなんて。
「そうだね。僕には君の苦しみなんかわかってやることなんてできない。だけど、立ち止まってしまっても仕方ないよ。もう十分休んだだろ」
「かもね……ねえ、あなたは私のことを覚えていてくれる? 私が居たってことを」
なにか残していきたいというのは本能なのかしら。
「君が僕のことを忘れても、逆はないようにするよ。君は今まで出会った中で稀有なケースだからね」
優しい嘘。絶対忘れる癖に。でも、なんだか清々しい。そろそろいいのかもしれない。彼とは十分に語り合った。今までの不満も愚痴もこぼしたし。
「じゃあ、私行くね。今度は彼女にしてね」
「考えておく」
また嘘ついた。でも、この人と出会えてよかった。私は暖かな光に包まれ、やがて意識が遠のいていく。
「安心して成仏してくれ」
彼の声が響いた。