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二日目

――4


俺は机に突っ伏していた。

「いけね、寝ちまった」

机に突っ伏していた顔を起こす。すると、バスタオル一丁で冷蔵庫をあさる人影を捉えた。

「おい、コラ。そんな格好で何してんだよ」

「おー、起きたか。オハヨー」

 恥ずかしげも無くバスタオルだけの姿で冷蔵庫の中にあったコーラを飲んでいる素子さん。

「だから、何でそんな格好してんだっての」

 プハーっとコーラを飲み干し素子さんは俺の質問に答えた。

「いやー、だってさ昨日お風呂入らないで寝ちゃったじゃん。だからシャワー浴びてたの」

「とにかく服を着ろ」

 はいはいと言いながら脱衣室に入って行く素子さん、すると素子さんと入れ違いにマナが脱衣所から出てきた。

「シャワー貸してもらっちゃった」

 どうやらシャワーを借りていたようだ。幸い、マナは服を着ていた。

「黒野~朝ごはんつくってぇ~」

 脱衣室から素子さんの間の抜けた声が聞こえてきた。しょうがないので適当に三人分のパンを焼き、目玉焼きも用意した。

「いただきまーす」

 三人ハモっていただきますを言い、三人とも朝食にありつく。すると、食べている途中で素子さんが質問してきた。

「そんで、今日はどうすんの?」

「そうっすね、とりあえず研究室に行ってみて先生を待ちます。時間があったら、藤堂先生にもお話を訊いてみようかと」

 ご飯を食べながら「ふ~ん」と返事を返す素子さん。

「じゃあコレ貸すから先に大学行ってて」

 そう言って素子さんから渡されたのはバイクのキーだった。

「バイクはマンションの駐車場に停めてあるから、黒野はわかるでしょ。マナちゃん後ろに乗っけてって」

「素子さんはどうするんですか?」

「ちょっと用事があるから後から行くよ」

 朝食を食べ終えた俺とマナはマンションの地下駐車場に向かった。

バイクや自転車が停めてある駐輪場に、ポツンと一台だけ無駄にスペースを取ってビッグスクーターが停められていた。

「あったこれだ」

俺はそのスクーターに跨ると、渡されたキーを挿しエンジンをかける。

「よし、マナ後ろに乗れ」

「え、うん」

マナはヘルメットを被るとたどたどしくバイクの後ろに跨った。

「そんじゃ行くぞ、しっかりつかまってろよ」

「うん!わかった!」

マナは初めてバイクに乗るみたいだが、別段怖がるどころかすごく嬉しそうな声で返事を返してきた。俺はスロットルを開きバイクを発進させる。

バイクを走らせている途中でマナがヘルメットのシールドを開けて話しかけてきた。

「恭輔はさ! バイクとか運転出来るんだね!」

バイクを走らせていると風をもろに受けるため必然的に大声になる。

「まあな! 一応車の免許も持ってるぞ!」

俺もマナに聴こえるように少し横を向いて大声で答えた。

マンションを出発して約二十分、特に何事もなく大学に着いた。

学校に着いた俺達は駐輪場兼バイク置き場に向かった。学校の駐輪場は生物科学科棟の反対方向の端にある。素子さんは「何でこんな場所に駐輪場を作ったんだ」とよくぼやいている。

駐輪場の一画にバイクが四台密集して停めてある。俺はそこにバイクを停めた。

「どうしてこんなに狭い所にわざわざ停めるの? アッチにもって空いてる場所あるよ」

マナが何故こんな狭苦しい所に停めるのか訊いてきた。最もなご意見だ。

「いいのいいの。素子さんはここに停めてっていつも言ってるから」

「ふ~ん」

マナはあんまり納得のいかないような顔で頷く。俺はたまに素子さんにバイクを借りる事がある。そして、返す時はいつもここに停めろと言われていた。

「じゃあ行こうか」

俺とマナはバイクを降り、生物科学科棟に移動する事にした。

今は午前九時。一時限目の講義が始まった頃なので、人影は少なかった。人のいない渡り廊下を歩き生物科学科棟へと向かう。

 生物科学科棟の中に入り階段をのぼって研究室のある階着いた時だった。研究室前で立ち尽くしている女性がいた。若くスラっとした体型の女性。女性は俺達に気付くとツカツカとこちらに近付いてきた。スーツを身に纏った女性の髪型はショートカットで、鋭い眼つきをしているものの、かなりの美人だった。

「貴方達はここの研究室の研究生?」

女性は俺の前で立ち止まると鋭い声で質問してきた。

「え、あ、はいそうですけど……」

「そう。それじゃあ、少し訊きたい事があるのだけどいいかな?」

女性は続け様に質問をしてくる。疑問なのはこの女性はいったい誰なのか?今の俺には質問の答えよりそのことしか頭になかった。

「いいっすけど……あの~、すいませんどちら様でしょうか?」

俺が知らないと答えたところ女性は軽く溜め息をするとスーツの内ポケットに手を入れ何かを取り出した。それはテレビドラマなどでよく目にする黒い手帳だった。

「失礼しました。私、神ノ宮警察署の内海(うつみ)といいます」

警察かよ。先生警察が来るような事でもやらかしたのか?

「え、どうして警察の人がこんな所に用事があるんですか?」

「聴き込み調査です」

 内海さんは鋭い声で俺の質問に答えてくれた。

「最近、神ノ宮近辺で失踪事件が多発しています。失踪者はいずれも十代後半から二十代前半の若者で、不審な点も多くこうして聴き込み調査をしています」

 知らなかった、最近そんな事が起こっていたのか。

「でもどうしてこの大学で聴き込みを?」

「この大学でも何人か連絡の取れない学生がいるとの事でしたので、関連性を調べてました。ところで、本題に入りたいのですがここ最近、貴方の身の回りでおかしな出来事はありませんでしたか?誰かがいなくなったとか、どんな小さな事でも構いません」

「う~ん」

 唸ってはみたものの特に思い当る点が浮かんでこない。

「すいません、特には……」

「そうですか」

 内海さんは、表情を変えず手帳に何かをメモしていた。

「何か力になれなくてすいません」

「気にしないでください。でももし何か思い出しましたら警察にご連絡ください。それでは」

そう言って内海さんはこの場から離れようとした、その時だった。

「おっはよー」

何とも間の抜けた挨拶が廊下に響きわたる。 素子さんが元気よくこちらに歩いてくる。

「いやぁ、遅くなってごめんね~。ん? あれ、お客さん?」

素子さんが刑事さんに気が付いた。その途端、また素っ頓狂な声を上げる。

「あれ~! もしかしてウッチー? ウッチーじゃん! 久しぶり~!」

そして、素子さんの姿を視認した内海刑事は顔をひきつらせていた。

「も、桃山素子? ……何でアンタがここにいんのよ」

  両者はどうやら顔見知りのようだが何か温度差がありすぎる。

「あの~、素子さん。この刑事さんと知り合いなんすか?」

「え? ウッチー警察になったんだー良かったじゃん夢が叶って。ああ、うん。ウッチーとは高校の時に知り合った親友」

「だ、誰がアンタなんかと親友だ! そうよ、私はアンタを……いや、アンタ達を捕まえるために警察になったのよ!」

さっきのクールだった内海刑事はどこに行ったのか、内海刑事は敵意剥き出しで素子さんを睨みつけていた。

「そうそう、言ってなかったっけ? 私ここの大学院に来たわけ。それはそうと、何でウッチーこそここにいるの?」

「別に、アンタに話すことは無い。知りたきゃそこの人達に訊いて。それでは私はこれで失礼します。さようなら!」

内海さんはツカツカと音を立てながら去って行ってしまった。

「素子さん、あの刑事さんに何かしたんですか? めちゃめちゃ怒ってましたよ?」

素子さんもおっかしいなーっと首を傾げている。

「高校の時は本当に仲良かったんだよ。そういえば、確かアタシの家のことを話した時からかな、ウッチーが急に冷たくなったのは」

ああ、なるほどと俺はなんとなく理解できた。マナだけはよく解ってないような顔をしている。

「ねぇねぇ、それでウッチーは何でここに来たわけ?」

俺は内海刑事が来た理由を簡潔に素子さんに話した。

「ふ~ん、この辺でそんなことがねぇ。まあ、アタシには関係ないし別にいいけど」

何とも無関心な素子さんの態度であった。

「とにかく、それは置いといて、ジイさん探すぞジイさん」

「どうやって?」

「わかんね」

何なんだこの人は……。

「ってのは冗談。そうだね、黒野はみっちゃんのトコに行って情報を貰ってきて。みっちゃんならアタシ達じゃ手に入れられない情報もなんとかなんでしょ」

「素子さんはどうするんです?」

「アタシはウッチー……じゃなかった、さっきの刑事さんから少し話を訊いてくる」

大丈夫かな、さっきの刑事さんは素子さんのこと嫌ってる様にしか見えなかったけど。

「わかりました。そうしてみます。ああ、それとさっきの刑事さん、ええと内海さんでしたっけ、まだ構内にいるはずですよ。他にも聴き取りしてるみたいなこといってましたから」

「そっか、じゃあ帰られる前に行ってこようかな」

「あ、あの私はどうしたらいいですか?」

黙って話を聴いていたマナが口を開いた。

「そーだね、じゃあ黒野について行ってあげて」

「何で俺?っていうか、マナをあそこに連れて行くのはなぁ……」

「何? 文句ある」

「無いです」

めちゃくちゃ睨まれては文句を言うこともできない。渋々ではあるが素子さんの言う通りマナの面倒を見ることになった。

「それじゃあ、行くか」

「あ、ちょっと待ってよ」

俺は情報収集をするためマナを連れ研究室を後にした。




――5


生物科学科棟を出て俺たちが向かった場所は同じ大学の構内にある文化系サークル棟だった。ここの大学は文化系サークル棟と運動系サークル棟の二つに分かれている。

運動系サークルは多いものの、大会等に出るでもなしにほとんどが趣味みたいな感じでやってるサークルばかりである。一方の文化系サークルは、やはりというべきか、オタク系サークルが大半を占めていた。

「そういえば恭輔って実家はドコに在るの?」

並んで歩いていたマナが話しかけてきた。呼び方は「恭輔」なんだな。まあいいけど。

「県内だよ」

「え? でも独り暮らしなんでしょ」

「ああ、県内っつっても物凄い山奥だからな。通うことも出来なくは無いけど、スゲー時間かかるんだよ。だから独り暮らしさせてもらってる」

「へー、そのお家ってどうなってるの?」

やけにいろいろ訊いてくるな。やっぱ都会人は田舎の暮らしとかが気になったりするのかな。

「どうなってるっていわれてもな、なーんも無ぇド田舎だよ。周りは山で囲まれてて、田んぼしかねえ」

「そーゆートコ一回行ってみたいなぁ」

「やめとけ、つまんねえぞ」

ほんとにつまんないからなぁ。最近、ようやく実家の近くにコンビニができたくらいだし。やる事が無いんだよ。

「そういえば、恭輔のお父さんってこの大学の先生みたいな事言ってたけどドコにいるの?」

「親父はもういないよ」

「え? 別の大学に行っちゃったの」

「死んじまった」

「あ……ご、ごめん」

「謝るなよ。気にしてないし」

そう言っても、マナは気まずそうに顔を伏せてしまった。俺の方も気まずくなってしまう。こんな空気のままというのもアレなので話を続けることにした。

「十五年前、この大学で火災があったんだ」

俺が話始めるとマナは伏せていた顔を上げ、視線をこちらに向けてきた。

「正確に言うと火災があったのは俺達がさっきまでいた生物科学科棟だけどな。あそこだけ他の研究棟と比べるとやけに新しかっただろ。四階で火災があって、ワンフロアほとんどが消し炭なっちまったらしい」

「その時に……」

「ああ、幸いにもって言うのかな、その火事の犠牲者は親父一人だけだった」

「そう……なんだ」

また沈黙が始まってしまった。黙ったまま並んで廊下を歩いていると一時限目の終了のチャイムが鳴った。そして、教室から次々と学生が出てくる。教室を移動する学生達で廊下は賑わっていた。

周囲が騒がしくても、俺とマナの間に沈黙という壁があったままではやはり気まずい。この沈黙を打破すべく何か喋らねば……。

「えっと、何か別の話しよっか。例えば、恭輔の趣味とか」

話題を考えていたらマナの方から話を振られてしまった。女子高生に気を遣われるとは情けない。でも、新しい話題が何で俺の趣味なんだ?

「あ? 俺の趣味? そんなの聴いたって面白くないぞ」

「いいの。何でもいいから言って」

「そうだな、アニメ鑑賞とマンガ読むことくらいかな」

「うわーオタクだー」

まあ、こんな反応されるのは何となくわかっていた。

「おいおい、こんなことでオタク扱いされたら素子さんはどうなっちまうんだよ」

「え? どういうこと?」

「ちなみに素子さんは俺よりアニメとか詳しいぞ。俺が引くくらいにな」

「そうは見えないけど」

「一見すればモデルやっててもおかしくはない容姿だしな。俺も最初は驚いたし。それと、そんなんじゃ今から行く所でやっていけないぜ」

「どーゆーこと?」

首を捻るマナを連れ、文化系サークル棟に入った。昼間にもかかわらず妙に薄暗い廊下を歩き、俺は一番奥に在る部屋の前で立ち止まった。

「着いた。ここだ」

建物一階の一番奥の部屋、入り口のドアに小さな看板が吊り下げられている。

「超常現象研究会?」

マナは部屋の入口に貼られたサークル名を読んで首を傾げていた。

「そう、俺が所属していたサークル」

「えっと、何するサークルなの?」

当然の質問だ。名前だけ見たらオカルト系の臭いしかしないしな。

「日常で起こる超常的現象を科学を用いて調査及び解明をしていくサークル」

説明をしたのはいいが、余計胡散臭そうな目をこちらに向けてくるのをやめてもらえないだろうか。

「日頃行っていた事といえば、超常現象調査二割、戦闘訓練等のトレーニング四割、談笑四割」

「つまり殆ど何もしていないって事でしょ」

「その通りだ」

「それに戦闘訓練って何? 何と戦うの?」

「えーっと、『もしも山の中を調査している時にUMAに襲われても大丈夫なように体を鍛えておくように』って素子さんが言ってた」

「ユーマ? ってゆうか何で素子さんがそこに出てくるの?」

「いや、だって素子さんが作ったサークルだしココ」

少しの沈黙があった。俺の言った言葉を理解するためなのか、マナは少しの間固まっていた。

「ええー! こんな怪しげなサークルを作ったの? 素子さんが?」

「まあまあ、細かい事はいいからとりあえず中に入ろう」

そう言ってまだ完全に理解しきれていないマナを無視して超常現象研究会の部室に入る。

「こんちわー誰か居るー? ってあれ?」

勢い良くドアを開けてみたものの、部室に人の姿は無かった。超常現象研究会と名乗ってはいるが、机がコの字に並べられているだけの殺風景な部屋だ。オカルト成分が有るとすれば部屋の隅に置かれた本棚にオカルト雑誌が有るくらいか、自分が所属していた時と全く変わらない内装だ。

「何だ誰も居ないのか。仕方ない少し待たせてもらおう」

勝手に部室に入ると適当に置いてあった椅子に腰かけ誰かが来るのを待たせてもらうことにした。とは言っても実質一人しか居ないんだけど。

「マナも突っ立ってないで座れよ」

「あ、うん」

マナはキョロキョロと部室を観察しながら俺の対面に有った椅子に腰かけた。

「珍しいか?」

「うん、まあ、何て言うか……」

「今、『大学生にもなって何やってんだ』って思ったろ?」

「……ゴメン、思った」

「安心しろ、俺も素子さんに勧誘された時同じ事思ったから」

その時だった。部室のドアが開き、人が入ってきた。

「お、久しぶりだな、みっちゃん。講義終わったか?」

「……お久しぶりです……黒野さん」

部室に入ってきた人物、もといみっちゃんは見た感じ中学生くらいに見えるが、歴とした男子大学生だ。みっちゃん本人は小柄で童顔な事を気にしていて、「かわいい」等と言われる事が嫌いなようだが。

「今日は……どうしたんですか。それと……」

 みっちゃんは言葉を区切ると横目でマナを見て、

「こちらの方は?」

 と一言。

「ああ、えっと……このコはウチの研究室に来たお客さん。訳あって今いっしょに行動してるの」

「はじめまして、不動真菜です」

 そう言ってマナはお辞儀をした。

「……工学部機械工学科三年日向(ひなた)(みつる)です」

 みっちゃんは自己紹介をすると俺の隣の椅子に座り持っていたノートパソコンを開いた。

「それで……今日はどうしたんですか」

「ああ、その事なんだけど、実は明神先生がいなくなっちゃってさ。みっちゃんに調べてもらおうと思って」

「そのうち戻ってくるのでは?」

「まあそうなんだけどさぁ、実は急用があって」

「……わかりました。そういうことなら少し調べてみます。ちょっと時間がかかると思うので待ってください」

「ありがとう。悪いね」

 みっちゃんは了解してくれるとパソコンで何やら調べ始めた。

俺や素子さんは調べてもらいたい事があるとみっちゃんにお願いしているが、どういう方法で調べているのかは俺もよく知らない。まあ、知らない方が良いのかもしれないな。

「ねえ、このサークルは科学で超常現象を解き明かすみたいな事言ってたけど具体的にどんな事するの?」

 マナはキョロキョロと部室を見回しながら質問してきた。確かに、先程の説明ではわからないか。

「ああ、まあ、超常現象なんて言ってるけど、本当とこは未確認生物の調査って理由で海とか山とかに行ってたな」

「未確認生物って本当にいるの?」

 マナは疑いの目を向けてくる。

「けっこういるみたいだぜ。最も俺達は見つけた事なんて無いけどな」

「だろうね。で、体鍛えたりとかもしてたんだ。うーん、でも恭輔って喧嘩とかするイメージ無いなぁ。強そうに見えない」

「ガリ勉に見えるか? まあ、実際強くないし……」

「強いですよ。黒野さんは」

 突然だった。パソコンをいじっていたみっちゃんが話に入ってきた。

「黒野さん強いじゃないですか……ご実家は道場でしたよね」

「え、恭輔のウチって道場とかやってるの?」

「まあ、町の小さな道場だよ。俺のじいちゃんがやってるんだ。でも、親父は死んじまったし、俺は継ぐつもりがないからつぶれるのは決まってるけどな」

 もちろん、俺の親父も継ぐ気なんて更々なかったみたいだし。仮に親父が生きていても研究者の道を進んでいただろう。

「俺もいい大人だし、喧嘩なんてしないよ。それと体鍛えたりしてるのは、そうだな……健康のためだ」

「えー、何かはぐらかしてない?」

「本当の事だよ。ちなみに喧嘩なら俺より素子さんの方が強いよ。素手であの人に勝てる気がしない」

「えっ、そうなの?」

マナは驚きの声を上げた。ここに来てから、マナは驚いてばっかりだな。

「ああ、素子さんは昔格闘技習ってたとかでむちゃくちゃ強いよ」

「へぇー、頭も顔もスタイルも良くて、更に強いってもう完璧じゃん。うらやましい」

 やっぱり同性から見ても美人なんだな。まあ、俺に言わせりゃ、性格も良ければマジで完璧超人なんだけどなぁ。

「……黒野さん」

 あり得ない想像をしているとみっちゃんに声をかけられた。

「ん? どした。何かわかった?」

 俺は隣にいるみっちゃんのパソコン画面を覗こうとしたが、みっちゃんはパソコンの向きを変え見せてはくれなかった。余程見られたくはないようだ。

「ああ、ごめん。んで、何かわかったの?」

「先生の足取りを調べていたのですが、神ノ宮駅から東京方面へ向かう電車に乗ったところまではわかったんですがそれ以上は……」

 いや、それだけわかるのもすごいと思うんだが。でもまあ、ここからは俺達でどうにかするしかないな

「うん。いや助かったよ。いろいろ調べてくれてありがとう」

「僕の方こそあまり役に立てなくてごめんなさい」

「そんなことないよ」

話が終わり俺たちは部室を出た。結局手掛かりは掴めなかった。

「ふう、しょうがない、そろそろ研究室に戻ろうか。みっちゃんもいろいろ手伝ってくれてありがとな」

「別に……いいですよ。また遊びに……来てくださいね」

「ああ、それじゃまたな」

 みっちゃんにもさよならを言って俺とマナは自分の研究室に戻ることにした。




――6


「ウッチー! ちょっと待ってよ」

北関東科学大学の正門に素子の大声が響き渡る。

「何かご用ですか?」

内海刑事は素子の呼び掛けに、まるで赤の他人に話しかけるように…否、まだその方がマシであろう。感情の無い声で、冷たい視線と共に返事を返した。

「そんな怖い顔しないでよ~。ちょっと話したいことがあって来たんだからさぁ」

「何ですか? 私は今勤務中です。まだやる仕事が残っているので、それでは」

内海刑事はあっさりそう答えると、踵を返し大学を出ようとする。

「待って、どうしても話したいことなの」

今度の素子の呼び掛けにはふざけた感じは無く、真剣さがあった。

ピタッと足を止め、内海刑事は立ち止まる。

「何度も言うように今は勤務中です」

内海刑事は振り向かず返答する。その返答と同時に素子の顔も暗くなる。

「だから、勤務の終わった後、午後六時神ノ宮駅前で待ってる。一分でも遅刻したら帰るから」

内海刑事は一度も振り向かずに、そう言うと大学を去って行った。

「うん! わかった!」

素子は学校を去って行く内海刑事の背中に返事を笑顔で返した。




――7


俺とマナはあまり情報を得られぬまま生物科学科棟に戻ってきた。

「あっ」

「おっ」

 生物科学科棟に入ろうとしたところで、素子さんとばったりでくわした。

「何かわかった?」

「いいえ、さっぱり」

「そーかー、ダメか……。仕方ない、大人しく先生を待とう。という訳でゴメンねマナちゃん。もう少し待って」

「あ、いえ、私は大丈夫ですから。気にしないでください」

「あー、それからアタシ今日の夜ちょっと出掛けてくるから」

「どこ行くんすか?」

「さっきの刑事さんと食事にね」

「ああ、何か知り合いとか言ってましたね。で、どこの居酒屋に行くんですか?」

「おいおい、食事だって言ってるじゃん。まあ、駅前の居酒屋に行くんだけど」

俺も素子さんとよくメシを食いに行くが、洒落たレストランなぞ一回も行った事が無い。行くところは決まって駅前の居酒屋だ。

「という訳で黒野はマナちゃんの事頼んだよ。それとマンションとバイクの鍵渡しておくから両方とも自由に使ってちょうだい」

 素子さんから二つの鍵を預かった。確かにマナを俺のボロアパートに連れて行くよりはマシだな。

「という訳だ。黒野、二人きりだからってマナちゃんに手出すなよ」

「うっせぇ」

 素子さんはふざけた事をぬかすと下品な高笑いをしながら生物科学科棟に入っていった。

「あ、あのさ、私達も中に入ろ」

「あ、ああ、そうだな」

 素子さんが余計な事を言ったせいで何か気まずい空気になってしまった。

 入口で突っ立っていても仕方がないので、マナの言う通り生物科学科棟の中に入ろうとした時だった。

「黒野さん」

 後ろから声をかけられた。前にもこんな事あったようなと思いつつ、振り返る。

「あ、竜崎さん」

 振り返った先にいたのは竜崎さんだった。蒸し暑い今日も長袖にロングスカートといういでたちだった。

「こんにちは黒野さん。どうされました? 入口で立ち止まって」

「ああ、いや何でも無いっすよ」

 そういえば、竜崎さんは藤堂先生の研究室に来ているんだった。例の報告書に藤堂先生の名前が載ってたし、ブルードルフィンの事を訊こうと思ってたトコだ。

「あの、藤堂先生って今研究室にいらっしゃいますか」

「え、藤堂先生ですか……」

 俺が藤堂先生の名前を出した途端、竜崎さんの表情が曇った。

「実は、私も今先生を探していたところなんです」

「探していた?じゃあ今藤堂先生がどちらにいるかわからないんですか?」

「ええ、連絡もとれなくて困っていたところなんですよ」

「手伝いましょうか?」

「え?」

「先生を捜すの手伝いますよ」

 俺が藤堂先生を捜す事を手伝うと言うと、竜崎さんは何故かキョトンとした表情をしていた。俺、変な事言ったかな?

「いえいえ、そんな、私一人で大丈夫ですから」

「そうですか、でも何かあったら言ってください。お手伝いしたす」

「ありがとうございます。私はもう少し構内を捜してみます。では」

 そう言うと、竜崎さんは大学の本館の方へと行ってしまった。

「恭輔は優しいね」

 竜崎さんとのやり取りを俺の後ろで見ていたマナが話し掛けてきた。

「そうか?」

「だって、私の事助けてくれたし、今だって」

「まあ、困ってるみたいだったしな」

「それとも今の人が美人さんだったから?」

「それもあるな」

「うわーなにそれサイテー」

 そう言ってマナは笑いながら走って生物科学科棟に入って行ってしまった。どうやらからかわれていたみたいだ。




――8


 駅前は激しい人通りとなっている。それもそのはず、現在午後六時一分前。帰宅ラッシュの時間帯だ。

 そんな人通りの中、内海刑事は一人、腕時計とにらめっこをしていた。と、そこへ。

「ウッチー!」

大声で手を振り内海刑事に近付いてくる人物が一人、桃山素子であった。

「ウッチーいつも早いね。待った?」

内海刑事はかなり不機嫌そうな顔をしている。

「あれ? どうしたの?気分悪いの? それともアレの日?」

「違う! いつも貴女は来るのが遅いんですよ」

余計に内海刑事の機嫌を損ねてしまった素子は、いつも通りあっけらかんとしていた。

「え~、言われた通り六時ぴったりに来たじゃん。怒んないでよ」

「五分前には来ていて下さい。もう行きますよ」

そういうと内海刑事はさっさと歩き始めた。

「あ、ちょっと待ってよ~ウッチー!」

その後を素子が忙しく着いていく。



「店員さん! アタシ生ビールとこの焼き鳥セットってヤツ、タレじゃなくて塩ね。ウッチーは何にする?」

「私はカシスオレンジで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

二人は駅前にある居酒屋に来ていた。殺人事件が多発していても流石に六時を過ぎた居酒屋は活気でガヤガヤと賑わいをみせていた。

「ウッチーよくカシスオレンジなんてジュースみたいなヤツ飲めるね」

「五月蝿い。好きなんだからいいでしょ。それよりも何か話があったんじゃないの? 話って何?」

「え? 何の事?」

「ちょっと! 貴女が話があるって誘ったんじゃない!」

「ああ、アレね。いやぁ、こうして久し振りに会ったからさ、何か話がしたいと思ってね。特に理由は無いよ」

 怒声をあげる内海に対してあっけらかんと答える素子。

「はぁ、ちょっと勘弁してよ。こっちは無理言って早めに上がらせてもらったのに。ただ飲みに行っただけなんててバレたらどんな嫌味言われるか……」

 素子の態度に内海は怒りを通り越して呆れていた。

「まあまあ、いいじゃん」

「よくない」

「お待ちどう様で~す。生ビールとカシスオレンジになります」

店員が素子の前にビールを置き、カシスオレンジを内海刑事の前に置こうとしたときだった。内海刑事は店員の手からグラスを奪い取るとカシスオレンジをイッキ飲みし、空になったグラスを店員に突きつけた。

「カシスオレンジおかわり。それと生ビールも大ジョッキで」

「か、かしこまりました」

店員は目を丸くして内海刑事のオーダーを聞くと頼まれた物を取りに行った。

「いやぁ、警察かぁ。さっきも言ったけど、夢が叶って良かったね」

「それはどーも。でも、やっとスタートラインに立つことが出来ただけ、まだまだこれからよ。貴女こそ何でこんな田舎にある地方私立大なんかに来たの? 確か高校生の時に科学者になりたいとか言ってたけど、何もこんな所に来なくても。貴女の成績なら東大だって受かったでしょうに」

 内海の質問に「うーん」と唸りながら少し考え込む素子。

「いやぁ、何て言うか今居る研究室の先生がさ、すっごい面白い人でね、この人に教わりたいって思ってね。そんで今の大学に居るって訳」

「お待ちどう様で~す。焼き鳥セットとカシスオレンジ、生ビールの大ジョッキになりま~す」

二人の間に店員が焼き鳥セットとカシスオレンジ、生ビールを置いていく。注文の品を置くと店員は忙しそうに他の客の所へ行った。

「まあ、貴女らしいわね」

 内海は注文したカシスオレンジを口に運ぶ。

「それにね、面白い後輩も出来たしね」

 そう言って素子も注文したビールを一気に流し込み、「プハァ」とオヤジの様な仕草をする。

「後輩? もしかして昼間研究室にいた男の人?」

「そう、黒野っていうの。クソ真面目で何かとうるさい奴だけど面白い奴だよ」

 内海は素子が注文した焼き鳥を食べながら話を聴いていた。

「へえ、貴女に年下の趣味があったとは知らなかったわ」

 内海の言葉にきょとんとした表情になる素子だが、すぐに「フフッ」と笑いだした。

「何よ」

「いや、別に。確かに黒野の事は好きだよ。ただ向こうはどう思ってるかね」

「じゃあ告白でもすれば?」

「冗談。気持ち悪がられるだけだよ」

 その後も酒が入り、二人の会話は盛り上がって行った。

「さっきアタシが笑った理由だけど」

「ん?」

「こうしてガールズトーク? みたいな話をしたこと無かったなって思ってね。つい笑っちゃった。それにお酒も飲めなかったしね」

「当時は貴女がベラベラ喋って私がただ話を聴いていただけだったから。私はそんな自分があんまり好きじゃなかったなぁ」

 内海は遠くを見るような目をしながらグラスを口に運ぶ。

「この数年で自分は変わったと思ったんだけど、久しぶりに貴女と会って話してみたら根本は変わらないわね。貴女も私も」

「いいんじゃないのそれで。無理に変わる必要なんて無いよ」

「そうかなぁ」

 この後も二人は会えなかった時間を埋めるかのように話続け、酒を酌み交わした。



 午後九時を回ったところで、アーケードを二人並んで歩く素子と内海。それ程遅い時間帯ではないが道を行く人は(まばら)だった。

 長い時間居酒屋にいた二人であったが、内海が「明日も仕事」という事でさほど酒は飲まずに店を出てきた。

「いやー久しぶりに楽しかった。黒野連れてくると飲み過ぎだのなんだのうるさいからさー」

「お惚気(のろけ)話はいいから。そんな事言ってるならとっとと付き合いなさいよ」

 二人は昔の仲に戻ったようだった。いつでもマイペースな桃山素子とその素子にあきれながらも常にそばにいる内海美咲。この二人はいつも、こんな風になんだかんだでいっしょだった。

 そんな二人が帰路についていると、素子が急に立ち止まった。

「悪いウッチー、何か面倒な事になりそう」

「え?」

 急に何を言い出すのかと、内海は素子の顔を見る。と、素子はいきなり鋭い目つきで振り返った。

「アンタ何の用? 居酒屋からアタシ達のことつけてない?」

 誰もいないように思える暗い道に話しかける素子だったが、話しかけた次の瞬間、物陰から真っ黒いローブを纏った人間が現れた。フードを目深に被っておりその人物の顔を確認することが出来ない。

その姿を確認した内海刑事は身構える。

「アンタ何? 何か用なの?」

 素子が声を掛けてみるがローブを纏った人物に反応は無い。

「突っ立ってないでなーんか言ったらど……」

「ブルードルフィン」

「え?」

 素子が話しかけた瞬間だった。消えてしまいそうな程小さな声だったが、確かに、確実に、素子達の目の前に立つ人物の口からある言葉が放たれた。

(女の声? いや、今はそんなことどうでもいい。問題は……)

「アンタ、ブルードルフィンについて何か知って……」

話しかける素子の言葉が止まる。突然、ローブを纏った人物が刃渡り二十センチメートル程のナイフを取り出したからだ。そして、それに真っ先に反応したのは内海だった。

「バカなマネはやめなさい。何が目的か知りませんが、あなたのしている事は犯罪ですよ」

 しかし、内海の警告を無視しローブを纏った人物はナイフ片手に一歩ずつ近寄って行く。

「それ以上近づけば……」

「待った、アイツはヤバい逃げよう」

 素子はローブを纏った人物から目を離さず、警告を続けようとする内海を片手で制し、逃げることを提案した。だが、

「逃げるわけにはいかない。ここで私達が逃げたら他の誰かが被害に遭う危険性がある」

「それでも逃げてウッチー! コイツは普通じゃ無……」

 素子が内海に警告しようとローブを纏った人物から目を離した瞬間だった。素子の身体が後方に数メートル吹っ飛んだ。素子が目を離した一瞬、ローブを纏った人物は一歩で素子との距離を詰め、素子の腹部に前蹴りを直撃させた。

 すぐ隣に居た内海も全く反応できず、体を動かすことすらできなかった。

「う、うわあぁ」

 ようやく自分の横にいる狂人を認識した内海が叫び声を上げる。しかし、次の瞬間だった。

「がっ」

 ローブを纏った人物は振り向く勢いを利用し、内海を蹴り飛ばした。

「う、っく、つうぅ」

 内海は蹴り飛ばされた痛みでうずくまり、悶えている。お腹をおさえうずくまる内海のもとへ、ナイフを手にした襲撃者が一歩一歩近づいて行く。そして、手の届く距離にまで近づき襲撃者は手に持ったナイフを振り上げた、その時だった。

「待ちな」

 襲撃者の背後から、低く鋭い、殺気を伴った声がした。その声に反応した襲撃者が振り向こうとした瞬間、襲撃者の顔面に素子の左フックが直撃した。

 襲撃者の蹴りで吹っ飛ばされていた素子だったが、襲撃者が素子から目を離した瞬間にすぐさま立ち上がり、一瞬で襲撃者の背後を取って攻撃した。

素子は左フックを打った時の勢いを殺さずにそのまま回転し、今度は右の後ろ廻し蹴りを襲撃者の顔面へ放った。

素子の蹴りが襲撃者の顔面を捉えると一気に地面へと叩きつける。

バギっと何かが折れる音、グシャっと何かが潰れる音が響く。常人ならばすでに死んでいてもおかしくない状況だったが、素子はさらに右足を真上に振り上げ、地面に伏せている襲撃者の頭めがけて振り下ろそうとした時だった。

地面に伏せていた襲撃者は、素子の地面についている方の左足を掴むと力任せに強引にぶん投げた。

普通の人間では考えられない程の力で投げられた素子だったが、空中で姿勢を立て直すと猫の様に両手両足で地面に着地する。一方、襲撃者はゆっくりと立ち上がると素子を直視した。

 そして、襲撃者はナイフを構え素子に向かって疾駆する。

続けて閃光にも似たナイフの斬撃を繰り出していく襲撃者だが、素子はそれらの攻撃をいなし、紙一重でかわしていった。

しかし、防戦一方となった素子は攻撃の糸口が掴めず、後退を余儀なくされる。

「くっ」

ついに、素子の右肩を襲撃者のナイフが掠める。

完全に押され、堪らず後ろに飛び退いた素子に襲撃者は横一閃の追撃を加えた。

「っう!」

無表情だった素子の顔が苦痛に歪む。襲撃者の横薙ぎの斬撃は決して浅くない傷痕を素子の腹部に刻み付けた。

その攻撃でバランスを崩した素子の隙を襲撃者は見逃さず、左手で素子の首を鷲掴みにし、壁に押さえつけた。

襲撃者の左手に力が込められ、素子の首をより強く締め付けていく。

「が、はっ、ああぁっ」

素子の悶絶する声が響く。そして、素子の眉間にナイフの切っ先が突きつけられる。

「やめてっ!」

 ナイフが素子を貫こうとした時だった。内海の絶叫が暗い路地に響き渡る。その声に反応し、一瞬内海に意識を向けた襲撃者の隙を素子は見逃さなかった。

両手で襲撃者の左手首を掴むと一瞬で関節をはずし、襲撃者の手から逃れた。しかし、切られた腹部からは血が溢れてくる。意識を保っていられるのが精一杯といったところだった。

 一方、襲撃者はゴキッという音と共にはずされた手首の関節を無理やり元に戻すと、取り逃がした素子を睨みつける。襲撃者は再びナイフを構え直し今にも襲い掛からんとしていた、その時だった。

「ウー! ウー!」

 そんな張り裂けそうな空気の中、パトカーのサイレンが響き渡る。内海と素子が襲撃されているところをたまたま通りかかった通行人が目撃し通報したのだろう。すぐさま警察が駆けつけた。

「おい! 何をやっている!」

 警官はパトカーから降りると走って内海と素子のもとへとやってきた。

「おいそこのお前! 動くな止まれ!」

 襲撃者は警察の姿を見るやいなや、向きを変え逃げ出した。警官も逃がすまいと後を追おうとするがとてつもない速さで逃げられ姿を見失ってしまった。

「お、おい君! 大丈夫か?」

 一人の警官が腹から血を流している素子に駆け寄ってくる。

「早く救急車を呼んで下さい」

そう言って内海も素子のもとへと駆け寄ってきた。素子は襲撃者の姿が見えなくなった瞬間緊張の糸が切れたのかその場に倒れこんでしまった。

その場は駆けつけた他の警官達や野次馬で騒がしくなっていたが、意識の薄れていく素子の頭の中では警官達の声が徐々に遠のいていった。




――9


 俺は今助手席にマナを乗せ素子さんから借りた車を運転し、夜の神ノ宮を疾走していた。向かう先は神ノ宮中央大学病院。

 俺に連絡が来たのはつい三十分前のことだ。素子さんの家の人から直接俺に電話がかかってきた。

『素子が刺された』

 信じがたい話の内容に一瞬思考が停止した。

俺は素子さんが搬送された病院を訊き、マナを連れ急いで病院へと向かった。

「ねえ、恭輔、何で、どうして……素子さん大丈夫だよね?平気だよね?」

 マナの顔は青ざめ、心配そうな声で俺に訊いてくる。

「心配すんな。あの人は拳銃で撃たれたって死にはしない」

 少しでもマナの心配を紛らわせようと冗談を言ったつもりだが、どうやら逆効果だったようだ。マナの顔はますます青ざめていく。

 俺だって素子さんが刺されたなんて信じられない、命に別状は無いと電話では聴かされているが内心俺もテンパッていた。

 病院まではもう後二、三分で着く距離まで来た。たったそれだけの時間が、ハンドルを握り運転する俺にとってとてつもなく長く感じ、物凄くもどかしかった。

 病院に到着し、駐車場に車を停めると急いで病院の中に駆け込んだ。病室の場所は先程の電話で聞いている。マナを連れ、素子さんの居る病室へ直行した。

「素子さん!」

 迷惑なのは重々承知で勢い良く病室の引き戸を開け、素子さんの名前を呼んだ。

「お~、遅かったなぁ。待ってたよ~」

 俺もマナもただただ呆然とした。俺たちは胃が痛くなるほど心配していたというのに当の本人は手をヒラヒラさせてベッドから上半身を起こしてニコニコしているではないか。

「はあああぁぁぁ~~」

 俺は今までした事のないような溜め息を吐きその場に膝を着いた。

 一方マナはというと、安心して今にも素子さんの所へ駆け寄りたいのだろうが、それが出来ないでいた。その理由は簡単だ。

 素子さんの病室は個室で、とても病室とは思えないホテルの客室のように豪華だった。ただ、おかしなところがあるとすれば素子さんのベッドの周りには全身を真っ黒いスーツで覆った強面の男達が三人と紋付袴を着た他の男達とはまた別の空気を醸し出している男性が立っている。その異様な光景のせいでマナは素子さんに近付きたくても近付けなかった。

「おお! 黒野君来てくれたか!」

「お久しぶりです。桃山さん」

 紋付袴を着た男性が俺に話しかけてくる。

「ね、ねえ、誰? この人達?」

 マナは小声で俺にこの人達が何者なのかを訊いてくる。

「ああ、この人達ね。え~と……」

 俺が答えようとした時だった。

「お父さん五月蝿いよ。ここ病院。そんで黒野ももう少し静かに入ってきなよ」

「ええ! お父さん!」

「マナちゃんも」

 紋付袴の男性が素子さんの父親だとわかるやいなや、マナは大声で叫んだ。

 素子さんの父桃山源十郎さんは、主に金融関係や不動産の仕事していらっしゃる社長さん……らしい。俺はこれ以上桃山家の事は知らないし、知りたくもない。

「ほらお父さん、そんなとこにいたらマナちゃんがこっちに来れないでしょ。アンタ達も邪魔。さっさとどきな」

「おお、これはすまんかった。お嬢さん、素子の見舞いに来てくれたんだろ? さあ」

「あ、ありがとうございます」

 桃山組長が道を開けると、マナは少し警戒しながらも素子さんのベッドまで歩み寄って行った。

「素子さん、大丈夫なんですか?」

 泣きそうな顔をしながら素子さんの無事を確認するマナ。

「そんな顔しないでよマナちゃん。ほらこの通り全然大丈夫だから」

 口では無事と言っているが、痛みを堪えているのがバレバレだった。

「そうゆう強がりは額の汗を拭いてから言って下さいよ。傷そんなに深いんすか?」

「別に今日は少し暑いだけだよ」

「この部屋、空調効いててめちゃくちゃ涼しいですよ」

「ううぅ」

 素子さんは言葉を詰まらせてしまった。

「マナちゃんに心配かけないようにしたのに、空気読めバカ」

 素子さんはムスーっとした顔になってしまった。しかし、バカはないだろう。

「ちょっと腹を切られただけだよ。大した傷じゃない。これは本当」

「そうですか、それはなによりで」

 俺はまるで台詞を棒読みするような言い方で言った。

「アンタ全然心配して無いでしょ?」

「そうでもないですよ」

 素子さんが無事で良かった。それは本当に思った事だ。俺達が病室に訪れてから場の雰囲気も少しずつ和んできている。

 だが、訊きたい事……いや、訊かなければならない事がある。この質問を口にすれば確実にこの雰囲気をぶち壊すだろう。それでも俺は意を決し、素子さんに問いかけた。

「素子さん」

「なに?」

「空気が読めないついでに一つ、素子さんを刺した奴ってどんな相手なんですか?」

 案の定、俺がこの質問をした途端、病室の温度が一気に下がったような感じがした。どうやら、素子さんの親父さんも組の人もこのことに関してはかなり敏感になっているようだ。そりゃそうだ、自分の娘が刺されたんだ。殺気立たない訳が無い。

「本当に空気が読めないなぁ黒野は。でもまあ、話さなくちゃならなかった事だしね。そんで、そいつのことなんだけど……」

 素子さんが自分を刺した犯人のことを言おうとした時だった。『ガラガラーバン!』といきなり、勢い良く病室のドアが開けられた。そして、病室の入り口にはドアを開けた本人であろう内海刑事が立っていた。

「何だてめえ! コラァ!」

 桃山さんのとこの社員さんの一人がいきなり入ってきた内海刑事に突っ掛かる。

「やめな、その人はアタシの知り合いだよ」

 素子さんは感情の無い声で社員さんを制した。

 内海刑事は強面の社員達に臆することもせず、ずかずかと歩いて行き、素子さんのベッドの隣に立った。

「やあ、ウッチー。ケガはもう大丈夫なの?」

素子さんは能天気に挨拶をするが、内海刑事は全くの無反応だった。

 すると、急に内海刑事が口を開く。

「……うして……」

「え?」

内海刑事は何か喋ったようだが、声が小さくよく聞き取れなかった。そして、素子さんが聞き返す。

「どうしたの? ウッチーまだケガが痛むの?」

「どうして逃げなかったの?」

その低く暗い声は怒気を孕んでいた。素子さんからも笑みが消え、真剣な眼差しで内海刑事を見ていた。

「貴女なら、私がやられている隙にいくらでも逃げられたでしょう! どうしてあんなことしたのよ!」

 感情を爆発させ怒鳴る内海刑事。

「ごめん」

「謝って済むことじゃない! 今回はこの程度だったけど、死んだっておかしくないのよ!」

ハァハァと内海刑事は息を切らしながらも自分の気持ちをそのままぶつける。素子さんはただただ、内海刑事を見つめているだけだった。

「でもね、やっぱり逃げられないよ」

「え?」

 そんな素子さんが今度は俯き、喋りだした。

「だって、アタシの唯一の親友を置いて自分だけ逃げるなんてできない」

俯いていた顔を上げると素子さんはとても和かな笑顔で内海刑事を見た。

「な、何言ってるのよ貴女」

狼狽える内海刑事。一方、素子さんは表情を変えずに内海刑事を直視していた。

「親友だから置いていけない?じゃあ何、貴女は自分の命はいらないっていうわけ?そ、そんな……」

それでも表情を変えない素子さんが口を開く。

「ウッチー、アタシ達友達でしょ」

素子さんのその言葉が引き金になった。内海刑事の眼からは大粒の涙がポロポロと零れだした。

「な、なん……で、うっぅく、貴女は……いつ……も、うぅ、そうなの。貴女……が死んじゃったら……、うぐ、私だって、悲しい……んだよ。だから、もう……危ないことするのやめてよ……モモちゃん」

もう止められなくなった涙を流し、膝を着いた内海刑事は顔を素子さんの布団に埋めて泣いていた。

「やっとそのアダ名で呼んでくれたね」

素子さんはとても嬉しそうな顔をしながら、自分のお腹の上で泣いている内海刑事の頭を撫でていた。

 そして、暫し時間が経った。その間、この部屋にいる全員が二人の姿を何も言わずに見ていた。

「どう? 少しは落ち着いた?」

そう問われ、内海刑事は顔を起こす。眼は真っ赤になり、頬には幾重にも涙の跡が残っていた。

「あー、人前でこんなに泣いてバカみたい」

「そんなこと無いよ。泣きたい時は泣いたっていいじゃん」

横を見てみるとマナが二人のやり取りを見て涙ぐんでいた。

「何でお前が泣くんだよ」

「な、泣いてなんかないよ」

眼をゴシゴシと擦ってそっぽを向いてしまった。

そんなことをしていると、内海刑事が大きく深呼吸をして、素子さんに話し掛けた。

「全く、私がここに来たのはみっともない姿を見せに来たわけじゃないの。実は貴女に訊きたいことがあって」

「訊きたいこと?」

 内海刑事は頷くと胸ポケットから手帳を取り出した。

「一応、貴女は通り魔事件の被害者なんだから、事情聴取しないと」

 内海刑事の話を聴き、納得したのか「あぁ~」と声を漏らす素子さん。

「だけど、今の貴女はそんな状態だし、また後日って事にするわ」

そう言うと内海刑事は今取り出したばかりの手帳をまた胸ポケットに戻してしまった。何で手帳を出したんだ?

「では、私は失礼します。傷はそんなに浅くないんだからあんまり無理をしないように」

そう言い残し、内海刑事は病室から出ていった。

「本当に良い人ですね」

俺が素子さんに話かけると、素子さんは少し微笑んだ後、すぐに暗い表情になった。

「本当、すごくいい友達だよ。また、悲しませるのが怖いなぁ」

「やる気なんですね」

その問いに、素子さんは頷く。

「な、何言ってるんですか?」

「また心配かけてごめんねマナちゃん。でもね、アタシもウッチーと同じで、親友がやられて黙ってる訳にはいかないの。これはアタシがやらなきゃいけないことだから」

 そう言うと素子さんの顔から表情が消えた。

「それと、これはアタシ達の問題だからお父さん達は首を突っ込まないでね」

 目だけを親父さんに向ける素子さん。親父さんはというと、目を背け不満そうな顔をしていた。

「しかし、お嬢」

それでも食い下がる親父さんの部下達だったが、素子さんは視線だけを部下の人たちに向け言った。

「言ったでしょ? ヤるのはアタシ達。もしも、アタシの獲物に手ぇ出したら、ぶっ殺しちゃうぞ」

 その言葉を素子さんが放った瞬間、病室の空気が凍りついた。素子さんはいつもの通り、何か抜けたような声で喋り、笑っていたが、素子さんの眼は笑っていなかった。感情そのものがその眼には無かった。その眼で見つめられた部下達は息を飲み、もう何も言うことが出来なかったようだ。

「いいだろう。俺達ぁ手を出さねえ。だが、無茶はするんじゃねえぞ」

 口を開いた親父さんが素子さんに話しかけた。

「はいはい」

 素子さんの生返事に親父さんは頭を抱えていた。

「すまんなぁ黒野君。いつもいつも迷惑かけちまって」

「気にしないでくださいもう慣れました」

「そうそう、さっきアンタが訊いてきたアタシの事を刺してきた奴だけど、何か知らんがブルードルフィンの事知ってたっぽいのよねー」

「え、どういう事っすか」

「さぁね、理由はわからないけど、どうやら相手は『ブルードルフィン』って単語を出して、その単語に反応したアタシを刺してきた。こりゃ何かあるねぇ」

 どういうことだ、ブルードルフィンってのは開発中止になった薬じゃなかったのか?

 俺はマナの方をチラッと見てみた。マナは顔面蒼白になり、震えていた。

「マナちゃん、もう少し詳しく聞かせてくれないかなブルードルフィンの事」

 素子さんの問いに震えていたマナが口を開いた。

「ご、ごめんなさい……私、その……」

 素子さんが刺され、その上このタイミングでブルードルフィンという単語が出てきた事に、マナは混乱しているようだった。

「ああ、ごめんごめん。いろんな事があったからテンパっちゃってるよね。じゃあ、この話はまた後でね」

 素子さんはマナに気を遣いブルードルフィンの話を一旦やめた。一方、マナはというと、さっきから俯いたまま暗い表情をしている。

 時計を見ると午後九時を回っていた。一応、素子さんの事が心配なので無理を言って、俺とマナは病院に泊まることにした。


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