祈りの糸
静寂が闇を包むある夜。
伊津女は針を手に取り、わずかな明かりを手元に引き寄せ、いつものように刺繍に勤しんでいた。
ただの刺繍ではない。
それは伊津女にとって特別な――祈りのようなものだった。
伊津女はそのひと針ひと針に念を込める。
どうかあの方がご無事でありますよう。
たった一人の大事な人のために、伊津女はひたすら針を刻む。
数ヶ月前、いつものように穏やかな笑みを浮かべて旅立って行った愛しい人。
往く先は戦場。
その結果次第では豪族の勢力図が大きく変わるだろうと言われる大戦だという。
だが、伊津女にとってそのようなことはどうでもよかった。
手柄などいらない。
ただただ無事で、あの方が自分の元へ戻って来てくれたなら――。
布地に美しい文様が施されていく。
疲れた様子も見せず、一定の調子で伊津女は針を動かしていた。
ふと、手元の灯台が揺れる。
同時に何かの気配を感じたような気がして、伊津女は手を止めて室内を見回した。
――――……。
気のせいか。
伊津女は針を持ち直す。
ふたたび作業に没頭しようとする。
だが。
かた、と扉が揺れる音がした。
伊津女は戸口を振り返る。
扉は閉じられたままだ。
誰かが向こう側に立っている様子もない。
風だろうか。
だが伊津女は立ち上がった。
妙に胸が騒いだ。
どうしてと思う前に扉の前に立っていた。
おそるおそる扉に手を掛ける。
それをゆっくりと引き開ける。
その先には秋の夜空がただ静かに広がっていた。
目に映る先に人の姿はなく、伊津女は安堵とも寂しさともつかぬ吐息をつく。
物言わぬ暗闇を束の間仰いだ後、扉を閉めようとし。
伊津女は違和感に気付く。
夜気の中に微かに混ざる香り。
梅の香りだった。
梅の季節はまだはるか先。
それが何故香るのか。
一体どこから漂ってくるのか。
どこを見ても周囲に梅の木などなく、当然花も咲いてはいない。
どこからともなく流れてくる馥郁たる花の芳香に、伊津女はある真実に行き当たる。
信じたくはなかった。
だがそれが真実なのだと、伊津女にはわかった。
梅花の香り。
それはあの方が好んで燻らせた香の匂いだった。
――ああ。
あの方は確かに戻ってきて下さった。
自分の元へ。
でも。
風が微かな梅の残り香を攫っていく。
風が通り過ぎた後、そこにはただ秋の匂いしか残っていなかった。
そこには頬を濡らす涙を拭いもせず佇む、伊津女の姿があるだけだった。
伊津女は針を取る。
糸を布地に刻む。
ただの糸だったものが、美しい菩薩の姿となって浮かび上がる。
菩薩の周りを囲む白い蓮華が、伊津女の手によって鮮やかに咲き誇る。
そのひとつひとつが、伊津女の祈りだった。
ただ、それはこの世で一番愛しい人の無事を願うものではなく。
永久の別離の。
餞。