夏休みの図書館
改稿:14,01,25
蛍光灯の点いた室内から見る東の空は、淡い藍色に染まりつつあった。
俺は窓際を歩きながら、戸締りを確認していく。
まさか、図書委員のカウンター業務がこんなに大変だとは思わなかった。せっかくの夏休みだと言うのに、今週はずっと、図書館に缶詰め状態。そして、その一日の最後に義務付けられているこの戸締り、そろそろサボってもいいだろうか。館内は空調がきいていて涼しいんだから、誰も窓なんて開けはしないのに。
「お疲れさん」
館内の戸締りから戻ると、いつの間に入りこんだのか、受付カウンターでくつろぐセーラー服が目に入った。閉館まで、残り二十分。館内の利用者は今、彼女一人だけである。
「あのね、ユウコ」
「なんだい、アキラ」
「ここは関係者以外立入禁止なんだけど」
「へぇ、そうなんだ」
ユウコは俺の言葉を軽く受け流し、システムチェアに深く腰掛けたまま、大きく伸びをした。しかも妙に活舌が悪いと思ったら、白い棒が口から飛び出し、片方の頬がポッコリと膨らんでいる。
「あと、飲食も禁止」
「あら、それは失礼――」
そう言いながらユウコは咥えていたキャンディを俺に差し出した。まるでマイクを向けるように。一体どうしろというのか。
「で、何か手掛かりは見つかった?」
俺はキャンディを無視して話題を変える。
「進展は無し。お手上げ状態」
ユウコは黙ってキャンディを口に戻した。
俺はカウンターにもたれかかり、身を乗り出す。
「実はカバンの中にありました、とか無いよな?」
「窓の外に飛んで行ったのを、この目で見ました」
ユウコが断言した。俺は再度訊く。
「なぁ、その『飛んで行った』って、どういう事なの?」
「だからさ、それは――」
ユウコがのっそりと背もたれから体を起した。そしてダルそうに頭を掻く。
遡ること数分前。館内の戸締りをしようとしていた俺のもとへ、フラッとユウコがやって来た。ちなみにユウコとは同じクラスで席も隣同士という間柄だ。
なぜユウコが図書館に現れたのか、初めは全く見当が付かなかった。というのも、教室ではいつも猫背で眠たそうにボーッとしながらキャンディを咥えている姿しか見た事がなかったし、のんびりを通り越した無気力なテンションのユウコが読書する姿を、俺はどうしても想像する事ができなかったからだ。ところが彼女はれっきとした文芸部員らしい。それについて声を出して驚いたら、みぞおちに一発お見舞いされた。
そんな事はさておき、とりあえず、ユウコの話に耳を傾ける。
「――って感じで、飛んで行っちゃったわけよ」
「要するに、部室で本の取り合いをしていたら揉み合いになって、その拍子に開いていた窓から本を落としてしまった、という事か?」
俺が訊き返すと、ユウコは小刻みに何度も頷いた。
「でも、落とした本はユウコの私物だろ? なんで図書館に?」
「木を隠すなら森の中、でしょ?」
「それは……ちょっと意味が違うんじゃない?」
「いろいろ探しまわって、最後に辿り着いたのが、ここ」
「あぁ、なるほど」
「でもまぁ、見つからないならしょうがない。諦めましょうかね」
立ち上がったユウコは、腰に手を当ててウーンと伸びをした。
「アンタは、まだ帰らないの?」
「帰らないんじゃなくて、帰れないの」
俺は時計を指差す。閉館まで、残り十八分ある。
「閉館までは缶詰状態ってわけね」
ユウコが片足立ちでソックスを引っ張り上げ始めた。どうでもいいけど、この仕草、意外と目のやり場に困る。特に夏服は生地が薄いからスカートが前後に広がると光が透過して簡単に中が透けてしまう。
「他にも、まだやる事があるの?」
「あとは……そうだ、掃除が残ってる」
「今から掃除か。それは大変そうだな」
「そうなんだよ。これが意外に面倒――」
「それじゃ、アタシはこれで」
「ちょっと待った!」
俺はとっさにユウコを呼び止める。ユウコがゆっくりと振り返った。
「だって、『これが意外に面倒』なんだろ?」
ユウコは俺のセリフを復唱するように言った。
「いや、まぁ確かにそうなんだけどさ――」
余計な事を言い過ぎた。俺の言葉を真に受けたユウコは、いつもの眠たそうな半眼で、本当に心の底から面倒臭そうな顔をしている。あわよくば手伝ってもらおうかと思っていたんだけど、いきなり躓いてしまった。
「こんちわぁ。まだ開いてる?」
不意に、元気な声が入口の方から聞こえて来た。
「……あれ、ケンジ?」
入って来たのはクラスメイトのケンジだった。日焼けした肌に白いポロシャツが眩しい。百八十センチ近い身長と、鍛え上げられた逆三角形の体躯は、相変わらず迫力満点だ。
「めずらしいな。ケンジがこの時間に来るなんて」
「おう、今日は部活が結構早く終わ……って、あれ? ユウコだ。なんで?」
受付カウンターまでやって来たケンジが、ユウコを見るなりそう言った。
「……ねぇ、アタシってそんなに場違い? これでも一応、文芸部員なんだけど?」
「文芸部? ユウコが?」
ケンジが勢いよく火に油を注いだ。ユウコの眠たそうな半眼が鋭く光り始める。
「……で、ケンジ。今日も何か借りて行くか?」
ユウコの視線に耐えきれず、俺はケンジに話を振った。というか、なぜ俺を睨む? やっぱり文芸部に驚いた事、まだ根に持ってるのかな……後でもう一度ちゃんと謝ろう。
「そうそう、この本を借りようと思って――」
ケンジは持っていた一冊の本を俺に差し出した。
「へぇ。アンタ、本とか読めるんだ」
ユウコがささやかな反撃に出た。キャンディの棒が飛び出る口元が、フッと小さく吊りあがっている。
「失礼な奴だな。そりゃオレだって読書くらいするさ」
「アンタだって、ついさっきアタシに失礼な事言ったぞ?」
俺は二人のやり取りを聞き流しながら受け取った本をチェックする。だが、どうも様子がおかしい。
「なぁケンジ。この本、何?」
「あぁ、これ?」
ケンジが嬉しそうに顔を綻ばせながら身を乗り出し来た。しんなりと湿ったケンジの前髪からは、ほんのりとプールの匂いがする。
「それがさ、この本、降って来たんだぜ?」
どうだ、とばかりにケンジが胸を張る。あぁ……なんかその話さっき聞いたぞ、と思いつつ、俺はケンジの後ろでこちらの様子を伺っているユウコに目をやる。
「……それはつまり、これは図書館の本じゃない、って事だよね?」
「あれ……アキラ、驚かないの?」
「いや、というか、そもそも――」
とその時、ユウコの右手が強引に俺の口を塞いだ。
「なぜ、その本を持って、図書館に?」
ユウコがケンジを見据えて言った。俺も、ユウコに口を押さえられたまま何度も頷く。
「実はこの本、前に図書館で読んだ事があるんだ。ほら、国語の授業が自習になって、図書館で読書になった日があったろ? あの時、ここで読んだんだよ」
「あらあら、まぁまぁ――」
スッと俺の口元からユウコの手が外れた。
「アンタ、もう読んじゃったんだ」
「なんだよ。もしかして、ユウコも読んだのか?」
「いやいや、アタシは知らない」
ユウコは逃げるようにケンジから離れると、我関せずといった様子でこちらに背を向けた。そのままふらふらと窓際へ足を進める。
「なんだ、アイツ……」
「さぁ……」
ケンジと二人で首を傾げる。
「あぁ――――ッッ!!」
鋭利なソプラノボイスが俺の鼓膜を貫く。声がした方に目をやると、小柄な女子生徒が目と口を全開にしてこちらを指さしていた。
「ケ、ケンジ君、その本……!」
どうやらその人差し指は、ケンジが持っている謎の本に向けられているらしい。まさか、と思い、俺はユウコの方を振り返る。が、どこにもいない。辺りを見渡すが館内には誰の姿も見えない。
「ちょっと聞いてよ、カナコさん。この本、空から降って来たんだよ?」
「降って来た? へ、へぇ……そうなんだ」
名前はカナコさん、というらしい。前髪を綺麗に切り揃えた黒髪のショートヘアが印象的な彼女は、ケンジのボケとも本気とも取れない発言に、頬を引き攣らせながらぎこちない笑顔を作った。
「あ、やっぱりそうなるよね? けど、これが本当に――」
「ねぇケンジ君? その本、ちょっと見せてもらってもいいかな?」
「え? うん、いいけど――」
ケンジが返答するよりも早く、カナコさんは颯爽と俺たちの目の前に滑り込んできた。そして、あたかも虫を叩き落すような勢いでケンジの手から本を掠め取ると、その場でパラララとページをめくっていく。
「ギャー!!」
そして絶叫。カナコさんがケンジの方を振り返る。それはもう首がねじ切れるんじゃないかという凄まじい速さで。
「カナコさんも、その本借りたいの?」
ケンジがのんびりとした口調で訊いた。すると、カナコさんはケンジの顔を覗き込んだまま動かなくなってしまった。受け取った本をギュッと胸元で抱きしめたまま固まっている。
「別にいいよ? オレはもうすでに一回読んでるし」
それを聞いたカナコさんの表情が硬直する。
「いっ、よっ……え!?」
それから、まるで合いの手を入れる様な不思議なテンポで声を放ち、大きく目を見開いたままケンジに詰めよったかと思えば、
「えぇぇぇぇ!?」
今度は大声を上げて身を引くと、ついには本を握ったまま両手で頭を抱えて、その場にうずくまってしまった。
「え……あれ、どうしたの? お腹痛いの?」
ケンジが足元で丸まっているカナコさんに優しく声をかける。が、どう見ても腹痛ではない。というか、頭を抱えている時点で原因は別にある事は一目瞭然なわけで。
「…………あ」
思わず声が出てしまった。すかさず咳払いで誤魔化す。
ユウコだ。やっと見つけた。というか、何をやっとるんだ、アイツは。少し離れた本棚の裏で俺を手招きしている。
「ケンジ、ちょっといい?」
「ん? どうした?」
俺はケンジの耳元で言う。
「もうすぐ閉館だから、俺ちょっと戸締りして来るわ」
「あ、そうなんだ。本はどうすればいい?」
「俺が戻ってくるまでに、どっちが借りるか決めといて」
「そっか、分かった」
「おう、よろしく頼む!」
ケンジの肩を叩き、俺はユウコの元へと急いだ。
「やっと気づいたか」
しゃがみ込んだユウコが俺を見上げる。
「どういう事だよ?」
「見ての通りだよ」
「なんで隠れてんの?」
「張り倒されるかもしれないからね」
ユウコは、コロンと音を立ててアメのポジション変えた。
俺は続けて訊く。
「あれって、探してた本じゃないのか?」
「そう、アタシが落とした本」
「じゃあ、なんで隠れてんの?」
「あの本、あの子が書いたんだよ」
ユウコが顎でカナコさんを指した。
「え……あ、そうなの!?」
「シッ!」
ユウコが口の前で人差し指を立てる。俺はとっさに右手で自分の口を塞いだ。それからユウコと二人で本棚の裏からこっそりケンジ達の様子を伺う。……大丈夫、気づかれていない。
「まさか、カナコさんって小説家?」
ユウコは答えず、その代わりに自分の隣の床をペシペシと叩いた。たぶんココに座れという意味だろう。
「アタシの家、印刷屋だからさ」
俺が腰を下ろすと、ユウコが前を向いたまま言った。
「どういう意味?」
「アタシが勝手に製本した」
「……ちょっと待った」
「待ちましょう」
ユウコが器用に片眉を上げる。
「なんでケンジは、あの本を読んだ事があるんだ?」
すると、ユウコが体ごと俺の方へと向き直った。まるで轆轤の上にでも座っているかのような、ゆっくりとした動きで。
「全て、アタシがやりました」
思いがけない告白に俺は眉をひそめる。
「へぇ…………何を」
としか言いようがない。するとユウコがつまらなさそうにため息を吐いた。
「図書館に置いといたんだよ、あの本を」
なんだそりゃ。本当か?
「置といたって、どこに?」
「その辺の机の上に」
「それ、いつの話?」
「少し前」
「覚えてないのか?」
「アンタが受付担当じゃない日」
「自習の日よりも前だよな?」
「そうじゃないと、ケンジが読むわけ無いもんね」
「期間は? 置いてあった期間」
「さぁ。二週間ぐらい?」
「なんですぐに回収しなかったんだよ?」
「ついうっかり、ってヤツかな」
「ウソつけ、確信犯だろ?」
「それがバレて、本の取り合いになった」
ユウコが真顔で言った。俺は本棚の裏に隠れたままケンジ達の方へと目を向ける。
「それで……読んだんだよね?」
カナコさんがしゃがんだまま、ケンジを見上げて言った。
「うん、読んだよ」
ケンジがハーフパンツで右手を拭い、カナコさんに手を差し出す。最初はまるでハムスターのように丸くなっていたカナコさんだったが、差し出された手をしっかり掴むと、静かに立ち上がった。
「カナコさんは、まだ読んでない?」
「え? あ、いや、これは……」
ケンジの問いに、カナコさんは本の表紙に目を落としたまま言葉を濁す。無理もない。何を隠そう、その本の作者こそ、カナコさんなのだから。
「結構面白いよ、その本」
「ほ……本当に? 面白かった?」
カナコさんの表情がほんのり明るくなる。
「うん。だって競泳を題材にした小説なんて初めて見たからさ。俺も水泳部だし、結構すんなり読めちゃって」
「……読みにくかったりはしなかった?」
「読みにくい? なんで?」
「え? あ……ほら、私文芸部だし、文章の書き方とか気になるというか、なんというか……」
「あぁ、なるほど。さすが、見るところが違うな」
二人の身長差は二十センチ近くあるだろうか。オロオロとうろたえるカナコさんを見下ろしながら、ケンジは口元に爽やかな笑みを浮かべている。
とその時、俺の右肩に何かが触れた。慌てて振り返ると、ユウコの顔がすぐ隣にあった。俺には目もくれず、カナコさんをジッと見つめている。その横顔からは、かすかに日焼け止めの匂いがした。夏の女の子って、なんでこう、いろんな匂いがするんだろう。と、どうでもいい事を考えつつ、俺は肩を寄せて来るユウコに場所を譲った。
「ケンジ君は……今日も、部活?」
「うん。水泳部は夏が勝負だからね」
「そっか、そうだよね」
「カナコさんも今日は部活?」
「うん。夏休みは週に二回だけ」
「小説とか書くの?」
「え……!?」
ケンジの不躾な質問に、カナコさんの肩が大きく震えた。ケンジから取り上げた本を胸に抱えて、床に視線を泳がせる。
「あれ? 文芸部って、小説とか書くんじゃないの?」
「い、いや……私はまぁ、どちらかというと、読むのが専門というか……」
「へぇ、そうなんだ」
「あ、でも、たまに書いたりもする……かな。だけど、いつも書いてるわけじゃないから、ちゃんとした小説を書く、とまではいかないんだけど……」
「スゴイ、やっぱり書くんだ」
「そ、そんな事ないよ。私はただ好きな事を、やってるだけだから……」
「小説、好きなんだね」
「え? あぁ……うん」
カナコさんは恥ずかしそうに俯きながら白い歯をこぼす。
それを見たケンジが、ニッコリと微笑む。
「自分にしか分からない感覚を信じるのは、大事だと思うよ」
ナコさんがハッと顔を上げた。すがるようにケンジを見つめたまま、全く動かない。
「あれ……カナコさん? どうした?」
「いや、その……いかにもスポーツ選手っぽい意見で、スゴイなぁって思って」
それを聞いたケンジの眉が八の字にゆがむ。
「一応、オレもそのスポーツ選手の一人なんだけどね」
「あ、いや、そういう意味じゃなくって……わー、もう、ごめんなさい!」
カナコさんがスススと身を引き、持っていた本で顔を隠した。
「いいよいいよ、気にしないで」
ケンジは楽しそうに目を細めた。
「それより、その本、どうする?」
「あ……そっか」
ケンジとカナコさん、二人の視線が一冊の本に注がれる。
「じゃあ……はい!」
カナコさんがケンジに本を差し出した。
「えっと、これはどういう――」
「これ、私が……か、書いた本なの!」
「……あ、そうだったの?」
「そう! だから……はい!」
「あ……ちょっと待って」
ケンジがキョロキョロと辺りを見渡す。俺は慌てて本棚の裏へと身をひっこめた。
「……どうしたの?」
カナコさんが訊く。
「アキラ、どこ行った?」
警戒するようなケンジの声が聞える。
「アキラ……さん?」
「そう、さっきの図書委員」
「あぁ、そういえば……」
二人の会話が途切れた。まさか俺を探しているのだろうか。
隣のユウコも、今は膝を抱えて丸くなっている。
俺は本棚にもたれかかり、次の声を待つ。
「……いないね」
カナコさんの声だ。
「チャンスだな。それ、貸して」
ケンジが声を低くして言う。
「これは二人の秘密という事で」
「……秘密?」
秘密とは何の事だ? 俺はもう一度、本棚の影から二人の様子を伺う。
カナコさんが本を抱えたケンジを見つめている。
「うん。アイツ細かい事にうるさいから」
「アキラ君? そうなの?」
「そう。又貸しとか、絶対見逃してくれないタイプ」
「……又貸し?」
カナコさんがケンジに訊く。
「うん。カナコさんが借りた本を、オレが借りる。又貸し」
ケンジが、自分とカナコさんを指差しながら言った。
「あぁ……あぁ、そういう事」
カナコさんが小さく首を傾げながら頷いた。
聞いていた俺も、思わずガクリと肩を落とす。あぁ、なんという勘違い。確かに「借りた本」と聞えたような気もするが。
館内にチャイムが鳴り響いた。ケンジとカナコさんが同時に天井のスピーカーを見上げる。
「これ、もしかして、閉館?」
ケンジがスピーカーを指差してカナコさんに訊く。
「あ、うん。確か図書館は七時までだから」
「へぇ、そうなんだ」
ケンジが時計に目をやる。午後七時を示している。
「カナコさん、家どっち?」
「……え?」
「送ってくよ」
ケンジがカナコさんの方を振り返った。絶妙なタイミングでカナコさんは目を反らす。
「私、電車通学だから……」
「そっか。じゃあ駅まで送るよ」
最寄駅までは歩いて一分。坂道を下ってすぐの所にある。だがケンジの家は、確かその反対方向に自転車で約十五分のはずだ。
「さぁ、早く行こう。アキラに見つかったら、又貸しだの戸締りだの、またヤイヤイ言われそうだからさ」
ケンジがカナコさんの背中に優しく手を添えた。それに驚いたカナコさんがケンジの顔を見上げる。ほんの一瞬、静かに見つめ合った二人は、声を出さずに微笑み合うと、そのまま足早に図書館を出て行ってしまった。
しばらくして、ガチャリと乾いた音が図書館内に響く。それに合わせて、さっきまで聞こえなかった空調の音が穏やかに加速し始める。
「……とりあえず、一件落着?」
俺は、よいしょと立ちあがる。
「うーん……」
ユウコが俺の足元で室外機のように低く唸った。口から出る細い棒の先端を指先で持ち、捩じるようにクルクルと回している。何か腑に落ちない事でもあるのか、それとも考え事をしているのか。どちらにせよ、ガニ股でしゃがみ込むのはやめててもらいたい。スカート、短いんだからさ。
俺はユウコをその場に残し、さっきまでケンジとカナコさんが立っていたカウンターの前へと足を進める。あの二人は同じ中学とかだったのだろうか。さっきのやり取り、あまりに自然過ぎて、なんだか羨ましかった。何より、さりげなく女の子に触れるケンジを、素直に凄いと思ってしまった。
「ねぇ、アキラ」
振り返ると、本棚にもたれかかるユウコがいた。
「アンタ、明後日、暇?」
「……はい?」
「それと、浴衣持ってる?」
「いや……は?」
何の話をしているんだ?
「暇だけど、なんで?」
俺は一応、正直に応えた。
「花火大会に行こう」
ユウコが言い放つ。真面目な顔で。
俺はすぐに返答できなかった。確かに、明後日は花火大会である。ただ、何の脈絡も無くそんな事を言われたって、どうしたらいいか分からない。
「それで、アンタにはケンジを連れてきてもらう」
黙りこむ俺に、ユウコが一言付け加えた。あ、二人じゃないんだ、と俺はほんの少しだけしょげた。だが、ちょっと待てよと考えを巡らす。このまま三人で花火大会という事もあり得ないだろう。ここはユウコも誰かを誘って四人、それがベストである。
となると、もう一人は――
「……そういえば、あの本、ユウコも読んだのか?」
「印刷したアタシが、読まないとでも?」
「さっきのケンジの話だと、題材は『競泳』だったよな?」
「正確には、男子水泳部員と女子マネージャーの話」
「じゃあ、その水泳部員ってのは……」
ユウコが大きく頷く。そして、キャンディを口から出し、俺を指す。
「アタシは何とかしてキョウコと仲直りする。だからアンタも、何とかしてケンジを花火大会に連れてくる事。いいね?」
「まぁそういう事なら……分かった、何とかしよう」
予想通りだった。ユウコは、花火大会というシチュエーションを利用して、今日の続きをやろうと考えているのだ。
「ん……ユウコ?」
ユウコが俺の前を横切ると、カウンター奥にある掃除箱に手をかけた。立てつけの悪い扉が銅鑼のように豪快な音を響かせて開いた。
「アンタ、忘れてたでしょ?」
モップとホウキを一本ずつ両手に持ったユウコが、皮肉っぽく言った。
どういう心変わりだろう。さっきまであんなに面倒くさそうな顔をしてのに。
俺は何も言わず、ユウコからホウキを受け取る。
それからユウコは、手にしたモップを自分の肩に立てかけ、肩まで伸びる自分の髪の毛を黙々と束ね始めた。そして制服の胸ポケットから鳥のくちばしのようなクリップを取り出し、束ねた髪の毛を頭の後ろで固定する。瞬く間にユウコの髪の毛がアップになった。
「掃除、やるんだろ?」
「お……おう」
思わず見とれてしまっていた。文芸部がインドア派だというのは俺の勝手な思い込みだが、その白い肌と黒い髪のコントラストは、いつにも増してユウコを大人っぽく見せている。
「ユウコは……浴衣、持ってるの?」
「薄い紫で朝顔柄、だったかな?」
「へえ、そうなんだ」
ユウコの浴衣姿、ぜひ見て見たい。
「見たけりゃ、明後日の花火大会、ケンジを連れて来な」
トンと心臓が跳ねた。コイツはエスパーか? なんだか心の中を読まれた気分だ。しかし、一つだけはっきりした。明後日の花火大会、ユウコは浴衣で来る。
「分かった。何としてもケンジを連れて来る」
俺が言うと、ユウコはモップの細い柄を両手で握ったまま顔を伏せた。フッと息吐きながら。口元に白い歯を光らせて。
「別にアンタのためじゃないよ」
ユウコはそう言い残し、カウンターを出て行った。前傾姿勢のままスイーッとモップを走らせていく。俺はホウキを片手に、揺れるプリーツスカートを眺め続けた。あれはポニーテールも似合いそうだな、なんて思いながら。
時刻は七時三分。静かに一日が終わろうとしている。
不思議だ。つい十五分前まで、あんなに退屈だったのに。
ふと窓の外に目をやると、東の空はさらに藍色を深めていた。
明後日の花火大会、必ずユウコの隣にいようと、俺は強く思った。
~つづく~