弟
今日弟からメールが届いた。何年ぶりのメールだろう。会話もしばらくしていない。
私の六歳下にあたる弟は大学に通うため四年前に家を出て1人暮らしをしている。家族との会話もないせいでそれさえもはっきりとは分からないがそのはずだ。家で暮らしているのは母、父、三歳下の妹、そして私。そういえば弟が実家に帰ってきた時、煙草をもらうのに会話をしたっけ。ただの一言ずつの対話で会話とも呼べるのかどうかあやふやな所だが。
いつからだろうか弟はしっかりしていると感じてきていた。そう、弟が高校二年生になった頃だっただろう。母もそう父に話しているのが何度か聞こえてきた。
小さい頃あんな泣き虫で少し意地悪をするとすぐに母に泣きついていた弟がしっかりしている?最初は疑問を抱いていた。センスもないし、私に比べたらなんの取り柄もないと。だがそれは私の弟に対する偏見と嫉妬によるものだったのだろう。私の最も苦手であった早起き。まぁ学生、社会人にとっては普通なのだろうが。それを弟は毎日寝坊せずに学校へ行き、学校では禁止されていたものの、家計を苦しめないためかアルバイトをしてお小遣いはもらわず、そして帰ってから勉強しと、改めて冷静に考えるとわたしには出来なかったことを当たり前のようにこなす弟になっていた。そして母の願いであった国立大学に推薦で合格し、その時は母から喜びのメールが届いたのを今でも覚えている。その時家族は皆大喜びだっただろう。
私以外は。
まるで弟だけでなく家族の未来までも安泰かのような喜び方を皆していた。だがそれは私への罵倒のように感じた。私は、中学の頃は全校集会で何度か表彰されるほど、スポーツも、美術も、習っていた書道も周りと比べて輝かしい成績を残していたと思う。そして勉強もそこそこし、高校は県内で名の知られた、俗に言う頭の良い高校に入った。しかし、高校に入れば学校にもあまり行かず、勉強もろくにしないままいつのまにか大学入試が近づいていた。はっきり言ってしまえば私はプライドが高い。中学まではそのプライドに見合う結果がついてきたのだから。いや、その中学生の頃の、自分はどんな分野でも良い結果が残せると思い込んできた事こそが高校になってのプライドを作り上げたのだろうか。その結果国立に入れるだろうと最後の最後まで思い込んだ私は大学入試でなんの成果も残せず、浪人を決めた。そして来年こそはと決めたにも関わらずだらだらと過ごし、受験シーズンが到来。もちろん奇跡などは起こらず、到底周りには自慢できないような私立大学に二浪で入学し、1人暮らしを始めた。だが、あろうことかそこも学校は続かず一年で自主退学。その後、一年間アルバイトだけをしながら実家にいたが、親に我が家にとっては莫大なお金を出してもらい、意を決してアメリカ入学をした。そこは四年で卒業できる学校であった。しかしまたまた続かず三年目、弟が大学に入学して一年目の夏だ。私は家族に何の報告もせず大学を辞め、実家に帰ってきた。
それから何もせずに家にひきこもり、あっという間に時間は過ぎ、もう二年が過ぎた。
就職をしなければならない。その考えは毎日頭をめぐった。親にあれだけのお金を費やしてもらったのだから。何をしていても五分、いやそれよりも短い感覚でその考えが頭の中を埋め尽くす。だがそうしようと思っても行動に移せない。もし、面接で落とされたらどうしよう。私はアメリカ留学にも行ったのだ。だが卒業できなかった。そうなれば履歴書に書くこともできない。話してもなぜ辞めたのかと絶対に聞かれるはずだ。その聞かれることだけでさえ恥だ。学校に行くのが苦になってやめただなんて言えるはずがない。私はやはりプライドが高いのだ。
家では、怒りを感じれば訳も分からない言葉を並べ母を威圧する。テレビの影響は悪でしかない。そんなことまで母に言い、リモコンをテレビに投げつけ、画面にヒビを入れた。母との口喧嘩はアメリカから戻ってから耐えなかったがここ最近では母も飽きれたのか、返しもしなくなっていた。そもそも家で何もせず、養ってもらいながら何をそんな怒っているのか。もう私にも訳がわからなくなっていた。
私にとって、弟の成功は屈辱でしかなかった。
そんな弟から一昨日メールが届いた。
『急にメールなんてごめん。お兄ちゃんどうしてアメリカ留学しようって決めた?今考えるとそんな勇気ある決断どうやってしたんだろうって気になった。最近学校うまくいかなくて。学校から逃げることになるかもしれないけど、今ようやく本当に自分がやりたいことやってみようって思った。それでお兄ちゃんの話聞いてみたいなって。できたら返信下さい。』
このメールを残して弟は死んだ。遺書も何も残さず、二年以上連絡どころか、会話もなかった弟が。このメールだけを残して。