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ラブレターは女神から

作者: 広河陽

 誰でも魔が差すことはある。

 その瞬間、雅喜の心には魔が差していた。そうでなければ、交通量が多い駅前スクランブル交差点に歩行者用信号を無視して足を踏み出したりはしない。

 幸い大事はなかった。足を踏み出した瞬間に、携帯電話のバイブレーションアラームが作動して雅喜は我を取り戻し足を止めていた。鼻先を大型トラックが掠めていく。雅喜の背中に冷たい汗が流れた。

 その時間に携帯電話のアラームを設定していた記憶はない。この1ヶ月間、雅喜は精神的な疲労から常に朦朧としていて、私生活でまともに記憶が残っていることはほとんどなかった。だから、設定した覚えのないアラームもまったく不審には思わなかった。


 雅喜が嫌というほど味わっている心の痛手を失恋という言葉で説明するのは容易い。学生時代から6年付き合ってきた彼女と前触れもなく連絡が取れなくなった――その状態だけを取り出してみれば失恋というに相応しい。

 しかし現実は少々複雑だ。雅喜は毎日彼女の姿を見かけている。テレビが毎日、彼女の姿を映し出すのだ。

 初めはローカル局の情報番組だった。その番組は、放映予定が前もって彼女から知らされていたので雅喜も見た。

 女性起業家として彼女が紹介されていた。彼女が構築した画期的なインターネットシステムの上に成り立つ事業の目新しさと斬新さは言うまでもなく、彼女自身の容姿の美しさと画面を通して伝わる控え目ながら芯の強い楚々とした人柄は、番組司会のタレントがアドリブで名づけた「女神」というキャッチコピーとあいまって視聴者を魅了した。全国から注目を浴びるようになるまで時間はかからなかった。

 マスコミは連日、彼女を女神と呼んで追いかけた。過熱気味と言ってもいい。おきまりのパターンに添えば彼らはそろそろ重箱の隅をつつくような汚点ともつかないちっぽけな染みを見つけ出し、スキャンダルのレッテルを貼って世間に吹聴して回りはじめる。

 そんな予感がした矢先だった。彼女と電話でもメールでも連絡が取れなくなった。

 彼女の人柄を思えば、恋人である雅喜を守るためなのだろう。最初のうちは雅喜もそう思えた。しかし、その状態が1ヶ月を過ぎた頃から心が揺らぎ始めた。

 それからさらに1ヶ月。自然消滅という言葉が日を追うごとに雅喜の心の中で決定的なものになっていった。


 その日も雅喜は彼女を見かけた。遅い昼食を取るために会社を出て車に轢かれかかるという非日常的な体験をした雅喜は、日常にふれたかったのだろう、行き先になじみの定食屋を選んだ。その定食屋のテレビに彼女が映っていた。

「理佳子……」

 思わず彼女の名前をつぶやいてしまう。雅喜の胸は締めつけられた。

 レポーターは「IT女神」がコンピュータの神を祀る神社の儀式で玉串を捧げることになったと報じた。IT絡みで成功した起業家としてはとても名誉なことなのだとワイドショーのレポーターはしたり顔で言う。

 まさかコンピュータの神が存在するとは、八百万の神とはよく言ったものだとぼんやりした頭で雅喜は思う。加えてその神社が、雅喜が勤務する会社の近くにある天神様と聞いてさらに興味をひかれた。周辺にはIT企業が集中している。コンピューターの神を祀る土壌は整っていたのだ。

 やがて目の前に雅喜がこの店でいちばん美味いと思っている「焼きカレー丼」が運ばれてきた。ただのカレー丼ではない。カレーの上にはオーブンの熱でとろけたチーズと、良い具合に半熟になった目玉焼きが載せられている。

 雅喜は、チーズと半熟の目玉焼きとカレーを混ぜてから食べるのを常としていた。スプーンでおもむろに目玉焼きの黄身を割り、チーズもろともカレーと混ぜ合わせ、いよいよ食べ始めようと構えた時、胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。

 着信表示は雅喜の会社だった。

「食事中にすまない、会長が急に支店に寄られて中央公園の近くの神社に参拝するとおっしゃるんだ。あいにく支店長は外出中、私も外せない会議の予定が入っていて……君に会長の随行を頼みたいんだが」

 上司である総務部長からの電話だった。形は依頼だがこれは業務命令に等しい。ランチタイムを中断され、普段であれば心の中で舌打ちしながら少々不機嫌に了承するところだ。

 が、中央公園の近くの神社といえば先程までテレビで話題にされていた例の天神様である。奇妙な縁を感じながら雅喜はすんなりと了承していた。


 会社が入っているビルの前で雅喜を待っている者がいた。

 見た目には穏やかな老人だがそれが彼のすべてではない。半年ほど前に会社が敵対的買収を仕掛けられたことがあった。仕掛けた連中に彼が食って掛かった剣幕の激しさを雅喜は知っている。

「枕元に立たれた。ここの天神様に参拝するようにと言われたんだ」

 道すがら会長は神妙な顔で雅喜に語る。

「何が枕元に立ったんですか」

「今にして思えば座敷わらしというんだろうか。おかっぱ頭の、6、7才ぐらいの女の子だ。すがるような目をして頼まれた。来週には大きな入札を控えているし、たまには神にすがらせてもらおうと思ってな」

 会長は豪快に笑い声を立てたが、目は笑っていない。

 神社に着くと会長は雅喜も一緒にどうかと言ってきた。気乗りしない雅喜はやんわりと断った。

 会長を待つ間、雅喜は神社の境内を歩く。木々が織り成す葉の影、小鳥たちが鳴く声、清らかな空気の流れ……都会のオアシスとは手垢がついた表現だが、的確なのだと身をもって知った。

 神社の境内にひときわ大きな木が立っていた。しめ縄が締められている。こういう木を御神木というのだろうか。上を見上げると幹には無数の傷が見えた。長い間、風雪に耐えてきた証なのだろう。

 風にまぎれて、くすくす、という笑い声が雅喜の耳に届いた。視線を戻すと御神木の傍らに女の子が立っている。女の子は雅喜と目が合うとすっと、雅喜を指差した。

 雅喜は胸に振動を感じた。胸ポケットの携帯電話にメールが着信していた。


『件名:test

 本文:届いたら連絡下さい。 090-XXXX-XXXX』


 短いメールだった。090から始まるその番号は雅喜の携帯電話のものだった。迷惑メールだろうか。そう思って送信者のメールアドレスを見た雅喜は息を呑んだ。

 見覚えのあるというには身近すぎるそのアドレスは雅喜自身が学生時代に使っていた大学ドメインのアドレスだ。そして、受信者は理佳子のアドレス。これも大学ドメインのものだ。

 忘れていた。これは、雅喜から彼女へのラブレターなのだ。

 表向きはメールサーバを交換したばかりの時のテストメール。だが、テストメールの役割を果たすだけなら、返信に必要なのはメールアドレスだ。

 そこに携帯電話番号を書き添えたのは、彼女にもっと近づきたかったから。

「それは、わたしが生まれて初めて届けたメールなの。今まで大切に持っていたのよ。だからあなたたちには絶対に幸せになってほしいな」

 女の子の声がした。携帯電話のディスプレイから雅喜が顔を上げるとそこに女の子の姿はなかった。

 また携帯が振動した。雅喜ははやる心を抑え、携帯電話を操作して受信したばかりのメールをディスプレイに表示させた。


『件名:test

 本文:届いたら連絡下さい。 080-XXXX-XXXX』


 送信者のメールアドレスには見覚えなかったが、@の前には「rikako」と入っている。メールはさらに続く。


『追伸 パソコン壊れたり携帯電話を落としたりその他トラブル色々! 今まで連絡できなくてごめんなさい。これからもよろしくお願いします。理佳子』


 雅喜は自分の携帯電話に電話番号を新規登録する手順を思い出そうとして小首をかしげた。いや、それは家に戻ってから、分厚い説明書を見ながらやればいい。彼が今しなければならないことは他にある。

 雅喜は携帯電話のディスプレイの曇りをぬぐうとしばらく凝視する。そして、記憶したばかりの番号をゆっくりと押し始めた。


――Fin.

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