その三
次の日、堀は安堵した。
何故なら、朝、京子に挨拶をした時に、
「おはようございます、渋谷さん」
「…………ふん」
彼女が、数秒間目を合わせてくれたからだ。
昨日なら、恐らく空気として扱われていただろう。
少しずつだが、彼女の心証は良くなっている様だ。
この調子なら、いずれは仲違いも無くなる筈。
今は一言も会話してくれないが、耐える事にしよう。
そんな事を考えながら、今は昼休みの図書室。
図書委員である堀は、受付で本を読んでいた。
大きな窓から昼の陽光が差し込むので、電灯が要らない程に明るい室内。
今日は特に人も来ず、棗も来ない。
閑散とした図書室で、堀は静かに本を読んでいた。
とは言え、受付の業務をする時以外は、特に誰かと話す訳ではない。
棗と適当に言葉を交わす程度で、後は延々と読書に耽る。
だから、今日も大方いつも通りだった。
次の瞬間までは。
「なっ……何でアンタがここに居るのよ?」
図書室の扉が開いたと同時に聞こえた声で、堀は全てを察した。
案の定、図書室に入って来たのは京子だった。
「僕、図書委員なので」
堀は笑顔で応えるが、京子は完全に無視する。
そして、図書室の奥の方へと向かった。
大体想定の範囲内なので、堀は特に気にせず、本を読み続ける。
だが、京子はす ぐに受付まで戻り、堀に尋ねた。
「……脚立、ある?」
開いた窓から、そよ風と陽光が差し込む図書室。
脚立の上に乗った京子が、高い棚の上に手を伸ばしていた。
それは少々危なっかしく、下手すると落ちてしまいそうだ。
なので、堀は京子の傍に居る事にした。
もちろん、京子はそんな気遣いに気付く気配すら無い。
「か、勘違いしないでよね。私は、本が読みたいだけなの。
アンタに会いたかったとか、そんな事全然考えてないんだからね」
相変わらず言葉は辛辣だが、全盛期と比べれば棘は少ない。
それに、自分から話してくれるのだから、悲観する事はないだろう。
「渋谷さんは、本を読むの好きなんですか?」
今なら、ちゃんとコミュニケーションが出来る。
そう判断した堀は、京子に積極的に話しかける。
京子は、棚の本を選びながら、
「……まあね」
しれっと答えた。
「そうなんですか。僕も好きなんですよ。この辺りの本はもう一通り」
「そんな事訊いてない!」
同じ趣味を見付け、嬉々とした口調で話す堀に、京子は一喝する。
勢いに押されて、堀は思わず黙ってしまった。
少し調子に乗りすぎただろうか。
そんな事を考えながら、堀は次の言葉を探す。
だが、次に口を開いたのは、
「あ、あの……その……」
京子だった。
「何ですか?」
「い、言おうとしてるんだから黙って聞きなさい!」
続きを促す堀に、京子は顔を紅くして叫ぶ。
そして、暫く言葉を濁し、散々躊躇った後で、
「あ……ありがとね……」
やはり躊躇いながらも言葉を発した。
趣旨が掴めず、堀は首を傾げる。
「……何が、ですか?」
「き、昨日……助けて……くれたじゃない。だから……」
堀の問いに、京子は言葉を詰まらせながら答えた。
その言葉は、堀にとって意外なものだった。
何だかんだで、昨日は例の一つも言わなかったのに。
本当に、彼女は京子なのだろうか。
そんな疑問すら浮かんできてしまう程だ。
当の彼女は、更に続ける。どんどん顔を赤らめながら。
「あの時は……何も言えなかったけど……お礼くらいしないと……でしょ?
本当に……怖くて……どうなるんだろうって思ってたから……。
……正直、あの時のアンタ……ほんのちょっとだけど……その……」
先細りしていく声は、とうとう聞こえなくなった。
顔はこの上無い程に真っ赤になり、湯気でも出てきそうだ。
「ほんのちょっと……何ですか?」
「な、何でもないわよ」
堀は続きを促そうとしたが、今度ははぐらかされた。
「そんな事言われると、却って気にな」
「五月蝿い五月蝿い五月蝿い! とにかく何でもないの!」
そして、それはすぐに拒否に変わる。
仕方無いので、これ以上の言及は諦めた。
京子は悪態を吐きながら、更に本を探す。
そんな彼女を、堀は小さく笑いながら見ていた。
何はともあれ、お礼をして貰えたのだ。
自分と彼女の距離が、少しずつ縮まっている証拠である。
……否、もう彼女は、あの事を本気で怒ってはいない筈。
恐らく、強気な一面が、彼女の足枷になっているのだろう。
あとは、時間がどうにかしてくれるのを待つだけだ。
そう考えている最中、窓から少し強い風が吹き込んできた。
外の広葉樹がざわざわと揺れる音も、同時に入ってくる。
「……縞……」
思わず呟きかけた言葉を、堀は必死に飲み込んだ。
先日の二の舞いにならない為に。
それは、神風だった。
窓から入ってきたそれは、本棚相手に夢中になっている京子を包み、スカートをカーテンの様にはためかせる。
それによって、絶妙なチラリズムが完成した。
見えそうで見えなくて、でもやはり見えるという、旬のイチゴの様に甘酸っぱいそれだ。
しかも、脚立に乗っているので、丁度堀の目の高さで展開されている。
それは、間違い無く神風だった。
「…………? どうかした?」
何かに勘付いたのか、京子が堀の方を向く。
だが、その時には既に、気紛れな神の恩恵は終わっていた。
「い、いえ! 何でもないです!」
焦った堀は、上擦った声で答える。
その直後、己が小心振りを呪うが、時既に遅し。
「何よ、逆に気になるじゃない。怒らないからはっきり言いなさいよ」
そんな事を言う人が、怒らなかった例はない。
それ以前に、そうやって迫る様から既に怒気を感じる。
「渋谷さんだって言わなかったじゃないですか。僕も言いませんよ」
「五月蠅い五月蠅い五月蠅い! それはそれ、これはこれ! とにかく黙って言いなさいよ!」
「『黙って言う』って明らかに矛盾して」
「判ってるわよ! ニュアンスで察しな……うわぁ!?」
掛け合いに気を取られたのか、京子は脚立の上でふらついた。
不安定な足場なので、間も無く足を踏み外す。
腕に抱えていた本をばら撒き、そのまま倒れていく。
「渋谷さん!?」
堀は、京子を慌てて抱き留めた。
が、京子の体重に耐え切れず、そのまま後ろに倒れてしまう。
受け身も取れないまま、堀は背中から床にぶつかった。
「ひゃん!」
「きゃッ!」
二人分の悲鳴が聞こえ、数秒の静寂。
「だ、大丈夫ですか、渋谷さん?」
「まあ、ね。アンタこそ頭とか……」
堀の問いに答えようとした京子が、急に口を開けたまま固まった。
怪訝な思いを抱いた堀は、今の状況を確認する。
二人しか居ない、閑散とした図書室。
京子の吐息はおろか、心拍の音まで聞こえる程の距離。
重なり合う二人の肌。
押し付けられている二つの膨らみ。
京子が押し倒したとも、自分が抱き寄せたとも受け取れる光景。
それらを確認し終えた時には、京子の顔は真っ赤に染まっていた。
同時に、凄まじい殺気を感じる。
京子は堀の身体から降り、近くに落とした分厚い本を手に取った。
そして、
「こ、このケダモノ――――――――――!!!」
それから保健室のベッドで目覚めるまでの間の事を、堀は良く覚えていない。
その日の夜、アリスにメールで呼び出され、堀は夜の学校に向かった。
校門の前には、
「夜の学校に望月さんと二人っきり……くぁ――! 興奮するっス!」
「あの、マコちゃん……周り見えてる? 勝手に人数減らさないで欲しいんだけど」
相変わらずの二人と、
「…………」
彼女らに呼び出されたのだろう、少し不機嫌そうな京子の三人が立っていた。
堀の姿に気付き、アリスは笑顔で迎える。
「やっほー、堀君。こんな時間にゴメンね」
「いえ、別に良いんですけど……どうしたんですか?」
メールには場所と時間しか書かれていなかったので、堀は面と向かって尋ねる。
待ってましたと言わんばかりに、アリスは何かを企んでいる笑顔を見せた。
「シブシブの歓迎肝試しだよ」
「…………え?」
アリスの言葉に、堀はもちろん、京子までもが呆然とした。
そんな二人にはお構いなしに、アリスは説明を続ける。
「シブシブには早く学校に馴染んで欲しいからね。ボク達からのささやかなプレゼントだよ」
その後に続けて、真琴が説明する。
「校舎内の六つのポイントを回って貰うっス。
それぞれに散らばった、望月さんの嬉し恥ずかし盗撮写真六枚を集めればクリア!
その写真を記念品としてお持ち帰り出来るっス!」
真琴の言葉を聞いて、今度はアリスの表情が変わった。
ぎこちない笑みで、真琴と顔を合わせる。
アリスのアイコンタクトに真琴が返した返事は、満面の笑顔とVサインだった。
「で、どうして僕が?」
「渋谷さんが道に迷ったりしないようにっス。私達は主催者っスし」
すっかり生気を失ったアリスに代わって、真琴が質問に答える。
もちろん、この二人が裏で考えている事は、堀には容易に想像出来た。
大方、自分と京子の仲を取り持つつもりなのだろう。
だが、自分はともかく、問題は……。
「私、帰る」
面倒臭そうな声で言い、京子は言葉通り校門から離れていく。
――やっぱり、そうですよね……。
予想通りの展開に、堀は溜息を吐いた。
そもそも、京子が自分と一緒に肝試しなんてする訳が無い。
真琴は慌てて、隅の方でうずくまっているアリスに声を掛ける。
「望月さん、非常事態っス!」
「……どうでも良い」
「渋谷さんを止めないと! 何とか説得して欲しいっス!」
「……もう、中止で良いんじゃない?」
「煮ちゃんと幼津部、どっちに晒されたいっスか?」
「よーし、ガンバるよー!」
真琴の『励まし』で復活したアリスは、京子を追い掛け、前に立ちふさがった。「」
「もう、ノリが悪いよ、シブシブ」
「何で、私があんな奴と肝試ししないといけないのよ?」
人懐こく言うアリスに、京子はもっともな反論をした。
どうやら、『シブシブ』に関しては容認したらしい。
正攻法では落とせないと判断したのか、アリスは今度は目を潤ませる。
「ヒドいよシブシブ……。ボクやマコちゃんが、シブシブの為に企画したのに」
「う…………」
今にも泣き出しそうなアリスに、京子はたじろいだ。
やはり、幼女の涙は強力らしい。
だが、京子はそれを振り切った。
「な、泣き落とそうったって、そうはいかないわ」
「うぅ……判ったよ。じゃあ、せめて一人で良いから行ってきて。
準備に手間が掛かってるんだから、それくらいしてくれても良いよね?」
万策尽きたらしく、アリスは溜息混じりに言った。
京子は、まだ堀を受け入れられないようである。
これも、仕方のない事であろう。
何せ、今日の昼に、また新たなトラブルが生じたのだから。
逆恨みもいいところだが、理屈で割り切れないのが人の心だ。
また暫くは、京子に無視され続ける生活を甘受しよう。
そんな事を考えていた時、堀は京子の異変に気付いた。
アリスの言葉を最後に、何も答えないのである。
それは、何かに戸惑っている様な仕草だった。
「だ、だから、そういうのはいいってば。
私一人にそんな大層な事されても、重いと言うか苦しいと言うか……その……」
先程までとは明らかに違う、躊躇いがちな弱々しい声。
まるで、何かを隠しているかの様だ。
「もしかしてシブシブ……こういうの苦手?」
そして、アリスの一言が、見事に京子を貫いた。
いよいよ京子は赤面し、全力で否定する。
「な……ッ!? ち、違うわよ! 私は、ここまで厚遇しなくていいって言ってるの!
夜道を歩くだけで怖いとか、友達に無理矢理見せられたホラー映画のオープニングで気絶したとかじゃないんだからね!」
「ふーん、そんなに苦手なんだ。その方が怖がらせ甲斐があって良いけどね」
「な、何で判ったの!?」
「今言ったでしょ……」
どこぞの新喜劇の様な会話の最中、真琴はいつの間にか京子の背後に移動していた。
京子を挟んで、アリスと交わすアイコンタクト。
抜群のタイミングを見計らい、真琴は人差し指で京子の背中を突いた。
「いやあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあッ!!!!!」
夜空に轟く、京子の悲鳴。
京子はアリスを押し退けると、全速力で駆けていった。
数分後――どこかを一周してきたらしく――堀の居る校門前に現れる。
突撃の様な勢いで堀に抱き付くと、荒れた息を整え始めた。
一連の流れに、堀は只々呆然としていた。
少し落ち着いた時、アリスが京子に歩み寄る。
その笑顔は、幼子の無邪気さと残酷さを、この上無い程孕んでいた。
「一人でいく? それとも二人?」
「あは……あははは……」
京子の答えは、最早一つしか無い。
私のバイト先には、よく怒る事で知られている副店長と、割と穏和な副店長が居ます。
先日、穏和な方の副店長に、とあるミスで思いっきり怒られました。
よく怒る方の副店長には好い加減慣れていたのですが、穏和な方には始めて怒られたので、かなりビビりました。
正直、記憶に焼き付いて離れません。
普段怒らない人の方が怒ると怖いとよく言いますが、まさにその通りだと思いました。