その二
アリスや真琴の尽力も虚しく、状況は一向に改善しなかった。
そのまま学校も終わり、堀は一人下校する。
取り寄せていた本が届いたそうなので、本屋に向かうべく歩を進めた。
必然的に通る事になる商店街は、黄昏色に染まっている。
夕方の喧騒も、この時の堀には煩わしいだけだった。
その途中、堀は向こうから来た主婦二人の会話が耳に入る。
「放っておいて良かったのかしら?」
「仕方無いわよ。あいつらに口出ししたら、何されるか……」
「あの娘、この辺じゃ見ない顔だけど……可哀相に」
それを聞き、嫌な予感がしたので、堀は足を速める。
程なくして、それは的中してしまった。
商店街の真ん中で、見覚えのある少女が怒気を露にしている。
「だから、私は、そんなつもりは一切有りません!」
「何だよ、つれない事言うなよ」
それを向けている相手は、数人の男性だった。
ある者はオールバックで、ある者はリーゼント。
ほぼ全員が特攻服を着ているという、今時判り易過ぎる不良だ。
「イイじゃん、ちょっと遊んでくれるだけで良いんだからよ」
「私は、取り寄せていた本を買いに来ただけなんです! そんな暇は有りません!」
「出来上がった物語より、俺達で紡ぐ新しい物語の方が面白そうじゃねえ?」
「……まさか、格好良い事言ったって思ってませんよね?」
「良いから行こうって……」
男が、強引に京子の手首を掴む。
京子は驚いてその手を振り解き、鞄で彼の横顔を強打した。
突然の衝撃に、男はその場に座り込む、打たれた箇所を手で押さえる。
「ってぇ……」
「せめて、人を誘う時の礼儀を憶えてからにして下さい」
あくまでも強硬な態度をとる京子に、男の中で何かが切れた様だ。
「このアマ……!」
立ち上がり、飢えた獣の様な目で京子を睨む。
思わず京子は息を呑み、数歩後退った。
だが、男は一気に詰め寄り、彼女の胸座を掴む。
そして、拳を後ろに引き、矢の様に彼女へと放った。
その数秒後、堀は心底驚いていた。
自分の身体が、何かに引き寄せられる様に京子へと走り、男の拳を受け止めていた事に。
もちろん、男やその取り巻き、京子も驚きを隠せない。
「止めて下さい。嫌がっているじゃないですか」
更に、自分でも信じられない言葉が、よりによって自分の口から飛び出してきた。
遠巻きに見ていた人達の拍手も、まともに聞こえない程だ。
二人の間に割って入り、男の前に立ち塞がる様に移動する。
いつもの自分なら、こんな事はまずしないだろう。
なのに、今は無謀にも一人で飛び出している。
藤原や秋原や棗なら、同じ事を躊躇い無くしていたかも知れない。
だが、自分にはそんな能力は無い。
物語の主人公など、夢のまた夢である。
「何だお前? 喧嘩売ってんのか?」
不機嫌そうな顔で、男が堀を睨んだ。
取り巻きの連中の視線も、堀に集中している。
――今から土下座でもすれば、許して貰えるでしょうか……?
そんな思いが、堀の脳内を過ぎる。
自分の器以上の行為を避けるのが、『長生き』の秘訣だ。
実際、現代人はわざわざ他人の面倒事に関わったりしない。
だから、昔と比べてとても長生きだ。
自分だって、なるべくなら長生きをしたい。
だが……。
「…………」
後ろから、縋る様な京子の視線を感じ、思い留まった。
今、自分が逃げれば、京子はどうなるのだ。
この状況をどうにか出来るのは、今のところ自分だけだ。
だから、自分がどうにかしなければ。
器がどうだの、主人公か否かだの、そんな事は問題ではない。
ここで退いては、そもそも人間として失格だ。
「彼女に手を出さないと約束して下されば、僕だってわざわざ売りません」
震えそうになる声を抑えながら、堀は事実上の宣戦布告をした。
自分も、どうやら長生き出来ない部類の様だ。
だが、その事を後悔するつもりは微塵も無い。
元々、現代の流行になんて、付いて行けてはいないのだから。
「へえ……そんな事言うんだ」
男が、機嫌の悪そうな声を出し、堀に一歩歩み寄る。
自分よりも背の高い相手に圧倒されるが、堀は一歩も引かなかった。
「地味な面しやがって……姫を護る騎士でも気取ってんのか?」
「名前も無い使い捨てキャラに言われたくありません」
「んだとぉ!?」
堀の一言で、男は怒りが頂点に達した様だ。
殺気を感じ、堀は京子を突き飛ばして離れさせる。
次の瞬間に飛んできた右拳を、右側へのサイドステップでかわした。
――秋原先輩、僕に力を!
堀は、祈る様な気持ちでポケットに手を入れ、閉じている扇を取り出す。
真琴関係の事件が一段落した後に、念の為にと秋原から渡された物だ。
もちろん、扇ぐ為の物ではなく、身を守る為の物である。
骨は鉄で出来ていて、紙はエアガン程度では傷一つ付かない特別製。
要にも拘っていて、多少の衝撃で壊れる事は無い。
堀はそれを握り、拳を空振りした男のこめかみを力一杯叩く。
二度目の衝撃に、男は頭を押さえながらその場に崩れた。
予想外の展開に、誰もが驚く。
「ってぇ……」
数秒間呻いた後、男は殺気に充ち満ちた目で取り巻きを睨む。
「ボサッとしてんな! この地味野郎を殺れ!」
男の声で、ようやく取り巻き達は動き出した。
その数、十人以上。
とても逃げ切れない事を悟ると、堀はその場で構える。
まず、突出して突っ込んで来た男の拳を屈んでかわし、鳩尾に鉄扇を突き立てた。
そこを押さえて悶絶する彼の股間を蹴ると、声にならない悲鳴を上げる。
そんな彼の胸倉を掴み、二人同時に来た男の片方に向けて突き飛ばした。
彼が戸惑っている間に、もう片方の側頭を鉄扇で殴る。
続け様に彼にも鉄扇を食らわせ、そのまま流れる様に二人を殴り倒した。
次に拳を振りかぶりながら突進してきた男には、喉への突きをお見舞いする。
身体が大きくない事によるリーチの短さは鉄扇がカバーしているので、相手の拳が届く事無くカウンターが決まった。
拳では勝てないと判断したのか、次に来た男はハイキックを出してくる。
堀は屈んでそれをかわすと、空振りして姿勢を崩したところを狙って、全体重を掛けて肩を当てた。
敢え無く男は吹っ飛び、地面に頭をぶつける。
今度は、前後から男が走ってきた。
先に来た方の拳をサイドステップでかわすと、堀はそのまま背後に回り、両手で背中を押した。
加速させられた男は、もう片方の男と正面衝突する。
続け様に七人が倒され、残りはなかなか手を出せない。
堀は鉄扇を広げ、倒れている男の一人の喉にそれを突き付けた。
「この鉄扇は、秋原先輩から貰った物です。剃刀が仕込んであっても……おかしくないですよね?」
堀の言葉の意味を察し、残っていた男達の顔色が変わる。だが、最初に堀に倒された男は違った。
「くっ……まさか、バックに秋原が居たとは……。
だがな、別行動している舎弟が、もうじきゾロゾロと来る筈だ。流石に、お前一人じゃ勝てないだろうな」
「それって……あれの事ですか?」
「え?」
男が、堀の指した方向を向く。
男の取り巻きは、すぐ近くまで来ていた。
それでも喧嘩に加われないのは、
「おい、邪魔すんなよ!」
道を塞いでいる人が居るからだ。
それは、一人の女性。
白いブラウスにジーンズを纏っていて、腰にまで届く長い髪を、黒いリボンで結っている。
右腕には買物籠を下げていて、買い物帰りである事が窺える。
堀達が居る側からは背中しか見られないので、それ以上は解らなかった。
「暴力を振るいに行く人を、見す見す見逃す訳にはいきません」
その声に、堀は聞き覚えがあった。
だが、今の声は普段の穏やかな声ではない。
大量の不良に迫られているとは思えない程に、気高く、堂々とした声だった。
「正義のヒロインでも気取ってんのかコラ!? これだけの人数相手に何も出来る訳無いだろ!」
先頭の不良が、女性の眼前に迫って睨み付ける。
それでも、彼女は怯みさえしない。
彼女は小さく溜め息を吐き、買い物鞄に手を突っ込んだ。
取り出したのは、一つの果実。
店で買ったばかりであろう、真っ赤なリンゴだ。
彼女はそれを片手で掴み、力を込める。
すると、リンゴは、信じられないくらいに呆気無く、その形を崩した。
幾重にも亀裂が刻まれ、そこから砕片へと変わっていく。
それらが果汁と共に飛び散り、一面に撒き散らされた。
一部の果汁は、さながら返り血の様に飛び散り、女性に付着する。
その様をまざまざと見せつけられた不良達は、一人残らず血の気が引いていった。
そして、女性は呟く様に問う。
「……血の匂いは、好きですか?」
それと同時に、不良達は思い思いの悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らす様に逃げていった。
「……き、今日はこれくらいで勘弁してやる!」
一部始終を見終えた男は、取り巻きと共に逃げ帰っていった。
彼らの背中を見送った後、堀は大きく息を吐き、その場に崩れた。
さっきまでは何ともなかった筈の息が、詰まりそうな程に荒くなる。
掌は冷や汗でグッショリと 濡れており、全身を激しい疲労感が襲った。
未だに、自分のした事が信じられない。
だが、周囲の人々の惜しみ無い拍手は、確かに堀に向けられていた。
離れた所で恐々とした表情で見守っていた京子が、怖ず怖ずと近寄ってくる。
「……な、何で助けたのよ? 恩でも売ったつもり?」
言葉こそ辛辣だが、それ以外は真逆だった。
頬をうっすらと紅く染め、不自然に目を逸らしている。
そんな京子を見て、堀はにっこりと笑った。
「安心しました。そういう表情も出来るんですね」
「な……ッ!? ば、バカじゃないの!? あんな使い捨てキャラ蹴散らしたくらいで好い気にならないで!
こんなのでチャラにする程、私の下着は安くないんだからね!」
堀の言葉に、京子は更に頬を紅く染める。
必死に否定し、そのままツンと背を向けると、走ってその場を去っていった。
――あの様子なら、僕も絶望的ではありませんね。
堀は安堵し、立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。
その時、白い綺麗な手が、堀の前に差し出された。
少し驚いて見上げると、その手が明のものである事が判る。
さっき握り潰したリンゴの果汁が、白いブラウスに染みを作っていた。
「す、すみません……」
堀は明の手を取り、引き上げられる様にして立ち上がる。
「格好良かったですよ、小さな英雄さん」
笑顔で堀を称えると、明は青果店の方向へ去っていった。
恐らく、リンゴを買い直すのだろう。
堀が家に帰ると、郵便受けに封筒が入っていた。
宛て先に書かれていたのは、妹の名前。
今日はもう帰っている筈なので、堀はそれを渡すべく彼女の部屋へ向かった。
「渚、入りますよ」
ドアの前で声を掛け、ドアノブに手を掛ける。
「えっ、ちょっと待っ……」
渚の戸惑う声が聞こえるが、ほんのコンマ数秒遅かった。
堀がドアを開けると、そこには振り向いたままの状態で固まっている渚。
ベッド脇に在る、全身を映せる大きさの鏡の前に立っていて、着替えの途中の様だ。
下半身から腹部にかけて纏っているのは、大胆なカッティングの競泳水着。
ベッドには、脱ぎ捨てたばかりの制服が散らかっている。
上半身はこれから着衣するところだったのか、覆っているのはスポーツブラのみである。
露になっている背中は、美しく鍛えられた背筋を誇示していた。
数秒の間、二人はそのままの姿勢で固まる。
そして、堀は猛スピードで背を向け、ドアを閉めた。
「す、すみません! 悪気が有った訳じゃなくて、その……」
学校だけでなく、家でも敵を作ってしまうなんて。
帰る場所が無くなるのはとても困るので、堀は必死に謝っていた。
見られている訳でも無いのに、土下座までしている。
「ったく……ちゃんと返事するまで待てよな」
やがて聞こえたのは、呆れながらも怒気は感じられない声だった。
堀は、ほっと胸を撫で下ろす。
「もうじき部活でも授業でも水着使うから、サイズが大丈夫か気になったんだよ。
これでもオレは女だし、あんまり小さくなってたら着られないしな。
……にしても、女ってのはメンドいよな。見るのも見られるのもダメなんてよ」
ドア越しに聞こえるのは、食事の時にも聞かされる世間話や愚痴。
どういう訳か男勝りな渚にとって、女性というのは何かと面倒らしい。
そんな彼女だからこそ許して貰えた訳で、他の女性ならば殺されていただろう。
「その点、男は見るのも見られるのも大歓迎……不条理もいいトコだよ」
「流石に『見られる』のが好きな方はマイノリティだと思いますけど……」
妬む様に言う渚に、堀は苦笑混じりに言った。
「う〜ん……ちょっと苦しいかな、これ……」
少し経って、渚の呟きが聞こえる。
どうやら、少しサイズが合わないらしい。
水泳部に在籍し、水着を着る回数が多い彼女にとっては、大きな問題なのだろう。
布の面積が少ない方が速く泳げると聞いた事があるが、その為に見苦しい姿になる訳にもいかない。
堀がそんな事を考えている最中、廊下と部屋を隔てるドアが、内側から開かれる。
出てきたのは、少し小さくなったらしい競泳水着を身に纏った渚だった。
少なからず戸惑いながら、堀は数歩後退る。
「なあ、兄貴はどう思う?」
当の渚は、至って自然に尋ねた。
例え水着でも、着てさえいれば、見せる事に抵抗は無いらしい。
水泳でバランス良く鍛えられた美しい肉体。
健康的に焼けた小麦色の肌。
本人の意思とは関係無く成長した、二つの膨らみ。
そんな肉体美を、競泳水着は惜しみ無く露出させている。
尋ねられた堀には、
「な、渚がそう思うなら、それで良いじゃないですか」
少し刺激が強かったらしい。
頬を火照らせ、思わず視線を逸らしてしまう。
妹とは言え、渚は年頃の女性なのだ。
こんな姿で出て来られて、全く意識しない訳にはいかない。
そんな堀に渚は苦笑し、再び彼の視界に入る。
「そんな素っ気無い事言うなよ。潔癖キャラ演じようったって、着替えを覗いた後じゃ無駄に決まってんじゃん」
「そういう問題じゃありませんし、キャラ作りを狙った訳ではありません」
フレンドリーに接しようとする渚を、堀はバッサリと言い捨てる。
「貴女は、事実、女性なんですから。もう少し弁えて下さい。兄とは言え、僕は男性なんですよ」
少し説教臭くなってしまっただろうか、と堀は思う。
だが、これくらいは言わなければ解って貰えないだろう。
ジェンダーを肯定する訳ではないが、流石に限度かある。
「…………」
その発言の 後、渚は堀の身体を観察していた。
徐に二の腕を掴み、
「……筋力ゼロ」
全身とジロジロと見つめ、
「……透き通る様な肌色」
反応に困る堀を気にも留めず、
「あの……渚?」
「……ソプラノでまだまだいけるな」
出した結論は、
「そう言われても、兄貴は男じゃないし……」
堀にとって心外なものだった。
堀は更に顔を火照らせ、
「な……何て事言うんですか! 身体的特徴を論うなんて、人間として大問題です!
僕は、貴女をそんな風に育てた覚えは有りませんよ!」
渚の前でのみ見せるお説教モードに突入した。
学校での立場的な問題で、他にこんな事が出来る相手が居ないだけだが。
だから、『見せる』よりも『見せる事が出来る』と言う方が正しい。
「解った解った。オレが悪かったって。つーか、兄貴に育てられた覚えも無いけどな」
渚はばつの悪い表情を浮かべ、堀を宥める。
そして、元凶である服を着替える為に、自室へ引っ込んでいった。
自分が男性でないのなら、渚も女性ではないじゃないかと堀は思ったが、胸の内に仕舞う事にする。
「……ま、女ってのも悪くないかもな」
ドア越しに聞こえてきた言葉に、堀は怪訝な表情を浮かべた。
「……どういう意味です?」
少しの間の後、答えが返って来る。
「……巷で言う『乙女の秘密』ってヤツかな」
まさかまさかの更新です。
多分、次の更新は空くと思います(汗
正直、堀よりも明さんの方が目立ったんじゃね? と思わずにはいられません。
……まあ、多分誰もが判っている通り、所詮夢オチですから(ぁ