もう、あなたとは結婚できません! ―一途な騎士様に愛されて幸せな花嫁になるので、あなたは大切な幼馴染さんとどうぞ―
『おかあさま! わたしね、はなかんむりのはなよめさんになるのよ』
花の女神に愛されし王国フィオレンツァ。
この国に生まれた男は、将来を誓った娘に花冠を贈る風習がある。それは、この国では婚約指輪よりも大切な婚約の証だった。
どんなに貧しく不器用な男でも――国王や王子でさえ、愛する女のために花を選び、花冠を編むのだ。
娘たちは皆、贈られた花冠を載せて結婚式を挙げ、式の後は新居に飾る。
王侯貴族ともなれば、贈る前に保護魔法を掛けて枯れないように加工する。
ドライフラワーになった花冠も、枯れない花冠も、死が二人を分かつときには、妻の棺の中に納められる。それほどに、大切に扱われるものだった――
「オルテンシア、もうすぐフラヴィオ様との婚約式ね。楽しみにしているわ」
「ええ、お母様……今日は、ドレスの試着に行きますの」
「フラヴィオ様も一緒なのでしょう?」
「……ええ」
母に嘘をついてしまった。
もうすぐ婚約式をする予定の、フラヴィオ・レヴェル公爵子息。
――けれど、今日もフラヴィオ様は来ない。きっとまた、幼馴染のジュリエッタと出かけているのだろう。
彼女の挑戦的な眼差しを思い出して、私は小さく首を振った。
「オルテンシア? 花冠は、婚約式までにいただけるのよね?」
「ええ、そう仰っていましたわ」
花冠を贈られることを、私は何より楽しみにしていた。
子供の頃に見た、記憶に色褪せない国王陛下と王妃殿下の婚礼のパレード。ピンク色の薔薇の花冠を付けた王妃殿下の幸せそうな花嫁姿が今も目に焼きついている。
家族から夢見がちだと笑われても、子供の頃からの大切な夢だ。
『オルテンシア、好きな花は?』
先週、フラヴィオ様はそう聞いてくれた。
私は、“淡いピンク色のつる薔薇”が好きだと答えた。棘のない、可愛らしい薔薇だ。
きっと彼は、私のためにピンク色の薔薇の花冠を用意してくれるのだろう。――私はそう信じていた。
この瞬間までは――
「フラヴィオ様、どうして、ジュリエッタさんが花冠を……」
街角で目にしたのは、淡いピンク色の花冠を付けたジュリエッタとフラヴィオ様の姿だった。
「ただの練習だよ。ジュリエッタがさ、折角贈るなら、練習してからが良いだろうって……捨てるのも勿体ないだろう?」
フラヴィオ様の腕に抱きつくように絡みつくジュリエッタは、私を見て得意げに微笑んだ。
(練習ですって……?)
ジュリエッタの赤い髪を飾る淡いピンク色のつる薔薇。それを目にした瞬間、大好きだったはずの花がまるで汚されてしまったかのように感じた。
私の幼い頃からの大切な夢は、呆気なく破られてしまったのだ。
「オルテンシア様、お先にごめんなさいね」
ジュリエッタの琥珀色の瞳は、私を見て弧を描いた。
伯爵令嬢である彼女は、いつも私を見下すかのように見つめた。
曲がりなりにも侯爵家の娘である私の方が家格は上だと言うのに、彼女の言動や態度をフラヴィオ様は咎めることもない。
彼女が彼の“特別な幼馴染”だからだ。
「オルテンシア、なんて顔をしてるんだ。それじゃあ、まるで僕やジュリエッタが悪いことをしているみたいじゃないか」
『花冠を贈るのは、一生に一人だけ』――この王国の男ならば、誰であれ幼い頃からそう言われて育つはずだ。
それなのにフラヴィオ様は、婚約式を控える私を差し置いて、幼馴染のジュリエッタに花冠を捧げた。
練習だと言われようと、それは変えられない事実だった。
(いつもそうだわ……フラヴィオ様は、いつだってジュリエッタさんばかり……)
『その日は、ジュリエッタと約束してるんだ。君とは、結婚してからずっと一緒にいられるだろう?』
『もうすぐジュリエッタの誕生日なんだ。一緒にプレゼントを選んでほしい』
そう言いながら、彼は結局ジュリエッタが望んだという宝石のネックレスを選んだ。金の鎖に大きなアメジストの宝石。――それはまるで、彼の紫色の瞳と金の髪を表しているかのようだと思った。
そして、私の誕生日の贈り物は、ジュリエッタが選んだそうだ。何も知らず喜んだ私に、フラヴィオ様は得意げに語った。
彼は婚約の話が進んでからも、私を後回しにし続けた。
私がやんわりとジュリエッタと距離を空けるように伝えたときには、「彼女はただの幼馴染だ。嫉妬深い女性は嫌いなんだ……うんざりするよ」と、不愉快そうに私を睨みつけた。
それでも、フラヴィオ様から花冠を捧げられて正式に婚約すれば、きっと彼らの関係は変わるはずだと信じていた。
いや、信じようとしていたのかもしれない――
「……私、余計なことしちゃったみたいね。……これ、オルテンシア様に返すわ」
しおらしい顔になったジュリエッタが、頭から外した花冠を差し出してきた。だが、その瞳は試すように私を見ている。
怒りに震える指先を、私は小さく握った。
「もう私が付けてしまったけれど、フラヴィオ様が折角編んだものだから……」
そう言いながら、弧を描いた琥珀色の瞳。彼女が少しも悪く思っていないのだと、容易に理解できた。
「ジュリエッタさん、わたくしは――」
「それはジュリエッタにあげたんだ。オルテンシアに譲る必要はない」
「子供の頃から、僕の花冠を欲しがっていただろう」と、フラヴィオ様はジュリエッタの手から花冠を取り上げ、再び彼女の頭に載せた。
「あれ……フラヴィオ様よね?」
「素敵! 婚約されたのね」
通りがかりの令嬢たちの声に、フラヴィオ様は少し気まずそうに視線を泳がせた。
私たちの婚約の予定について、まだ広くは知られていない。これで、ジュリエッタが彼の婚約者だと広まるだろう。
「フラヴィオ様……」
小さく、彼の名を呼ぶことしかできない私を見て、彼は薄く笑った。
「オルテンシア。文句があるなら、婚約の話は白紙にしても良いんだよ」
「っ……」
勝ち誇ったように笑うジュリエッタに、隣に立つフラヴィオ様は気付いているのだろうか。
以前、彼女が私の家のことを『血筋だけの侯爵家』だと口にしたとき、彼は否定すらしなかった。
そして、彼は言った。『僕以外に、君なんかと結婚するような男はいないだろう』――あの時の私は、胸を刺した小さな痛みに気付かないふりをした。
公爵家との願ってもない縁に喜ぶ両親に、ホッとした顔の兄。
レヴェル公爵家が、私に流れる王家の血筋だけを目当てにしていることには気付いていた。けれど、他に縁のない私が彼との縁談を断ることなど、頭の片隅にも浮かばなかったのだ。
(きっと、これからもわたくしを見下して、ジュリエッタさんを大切にするんでしょうね……)
もう限界だった。こんな男から花冠を捧げられるために、これ以上私が我慢する必要があるのだろうか――
「フラヴィオ様は……ジュリエッタさんと結婚されたいのですか」
微かに震えた声は、思っていたよりも低く冷めていた。ずっと胸の奥に押し込めて、聞けずにいた言葉を、私は初めて口にしたのだ。
僅かに口籠った彼は、傍らに立つジュリエッタを見つめた。
「そうだな……それも良いかもしれない」
そう言って、ジュリエッタの肩を優しく抱き寄せた彼を見た瞬間――私の心に少しだけ残されていた彼への淡い想いは消え去った。
誰が、婚約予定の相手をこんなにも蔑ろにして、他の女を優先する男を愛し続けられるだろうか――
「……婚約を白紙にするお話、承知いたしました」
私はそう小さく返すと、彼に背を向けた。
「今、何と言った……? オルテンシア、待ってくれ――」
「フラヴィオ様、折角だから、このまま街を歩きたいわ……もうすぐ、こうして一緒に歩けなくなるでしょう?」
「……ああ、わかったよ。行こう、ジュリエッタ」
一度だけ振り返ると、去っていく二人の後ろ姿が見えた。
フラヴィオ様は、花冠を載せたジュリエッタの肩を抱いている。まるで、結婚を控えた恋人同士のようだ。
きっと今日も、彼女が欲しがったドレスや宝石を、彼は惜しげもなく買い与えるはずだ。
それを見かけた誰もが祝福し、「婚約おめでとう」と声をかけるのだろう。
私は、静かに零れ落ちる涙を拭うこともせず、そのまま家へと帰った。
「オルテンシア、いったい何があったの?! 今日は婚約式のドレスの試着だったはずでしょう!」
「お母様……わたくしに、縁談の話があるのでしょう?」
「あなた……どうして、それを知って……」
数日前、兄と両親が話しているのを偶然聞いていたのだ。私が婚約を控えていることを知りながら、私との婚約を望んでいる人がいることを――
それが誰かは知らないけれど、誰であろうと、あのフラヴィオ・レヴェルよりはマシだ。絶対に。
「お母様、縁談をお受けしますわ。今すぐに」
彼に未練など微塵もない。
涙に濡れた私の瞳にも、冷え切った心にも、もう迷いなどなかった。
父と兄が帰ってきてから、私は今日起きた出来事を全て説明した。
「オルテンシア、まさかそんなことがあったなんて……」
母は涙を流し、父と兄は怒りに震えていた。
「すぐにレヴェル公爵家に書状を送る。あんな男に、大切な娘は任せられん」
「それなら、僕は訴状を送り付けようかな」
兄であるレナートの軽口に、私は小さく笑った。
心配そうにしていた両親の顔が和らいだのが、何よりの救いだった。
こうして、私とフラヴィオ・レヴェル公爵子息との婚約は白紙になった――
◇
私が「縁談を受ける」と両親に告げた翌々日の午後に、彼は我が家を訪れた。
「はじめまして。マクシミリアン・ド・ベルフォートと申します」
応接間に響いたのは、低く落ち着いた声。
一見すらりとしながらも、近くで見ればわかる胸板の逞しさに、私は思わず視線を伏せた。
マクシミリアン卿は、凛々しく端正な顔立ちの長身の青年だった。
短めに整えられた艶のある黒髪に、深海のような青い瞳。まるで彫像のように、その表情はどこか硬い。
兄の上司であるという方を前にして、私も少し緊張していた。
「レナート――いえ、お兄さんから、お話はお聞きでしょうか」
「ええ、少しだけ……兄がいつもお世話になっております」
「いえ、お世話になっているのは、私の方です」
私の兄は、王都騎士団の第二師団に勤めている。
第二師団は、二千人を超える騎士で構成された王都や王都近郊の治安を守る緊急実戦部隊だ。マクシミリアン卿は、二十七歳という若さで、その第二師団の師団長を務めているそうだ。
更に、彼の家名であるベルフォート大公家と言えば、この王国では知らぬ者は居ない名家だった。
(どうして、こんなに立派な方がわたくしなんかを……)
我が家は一応は侯爵家だが、はっきり言ってしまえば名ばかりの貧乏貴族家だ。
それというのも、五年前に父が親戚の多額な借金を肩代わりし、侯爵家が財政難に陥った。そのタイミングで、領地が不作に見舞われてしまったのだ。
侯爵家の財政は火の車だと言うのに、父は私財を投げ売って領民たちの命と生活を保障した。そのことについては、私も父を尊敬している。
その後、父の手腕で年々少しずつ持ち直してきてはいるものの、侯爵家が火の車であることに変わりはなかった。
そして、我が家には、七代ほど前にフィオレンツァ王国の王女が降嫁した歴史がある。故に、『血筋だけは良い貧乏侯爵家』――そう密かに呼ばれているのを、私は知っていた。
「オルテンシア嬢、どうか私と婚約していただけないでしょうか」
マクシミリアン卿の真っ直ぐな青い瞳に、私は小さく息を呑んだ。
彼は王家の縁戚である大公家の次男で、将来を嘱望されるどころか若くして師団長まで登り詰めた超が付くエリートだ。おまけにこの容姿とくれば、年頃の令嬢たちが放って置くわけがない。
何故、こんなにも立派で素敵な男性が私を望むのか――全く理解出来なかった。
「……どうして、わたくしとの婚約を……?」
「それは……」
マクシミリアン卿はほんの少しだけはにかんだように淡く微笑むと、視線を落としたままで襟元に指をかけた。
(いったい、何をなさるの……?!)
彼の長い指で騎士の正装のボタンがゆっくりと外されていく様子に、私は慌てて目を覆った。
「オルテンシア嬢、これをご覧ください」
恐る恐る目を開けると、彼の大きな掌の上には、見覚えのある布製の魔石入れがあった。
この国の貴族の――特に男性は、有事のために魔石を持ち歩く者が多い。騎士であれば、戦闘に備えて肌身離さず持つのが常だった。
「それは……もしかして、わたくしが作った……」
「はい。以前レナートに無理を言って、貴女に作っていただいたものです」
彼の手にある紺地の魔石入れには、銀色の刺繍が煌めいている。それは、大切に使われている証だった。
私ははっきりと思い出した。二年ほど前に、兄に頼まれて魔石入れをひとつ作ったことを――
◇
二年前、オルテンシアが十六歳になったばかりの頃――
オルテンシアの兄のレナートは新人の騎士として、第二師団に配属されたばかりだった。
そして、当時第二師団の副師団長だったマクシミリアンは、新人騎士の入団後に行われる実技試験の担当官を担っていた。その成績によって、第二師団での配置が決まる大切な試験だ。
「レナート、お前は踏み込みが甘いようだ。遠慮せず打ち込め」
「はい! ありがとうございます!」
素直で真面目なレナートを、マクシミリアンは好ましく思っていた。
「その魔石入れは……?」
「ああ、これは妹が作ってくれたんです」
汗を拭うレナートの胸元から覗く、ネックレスのように紐に繋がれた魔石入れに、マクシミリアンは釘付けだった。
(刺繍か……見事なものだな)
ローディア侯爵家の家紋の刺繍が施された翡翠色の魔石入れが、マクシミリアンには何故かひどく眩しく見えた。
大公家で育った彼には、赤子の頃から王家御用達の職人が作った最高級のものが与えられた。故に、家族が作ったという手作りの品の温かみに、無性に惹かれたのかもしれない。
「良いな……その魔石入れ」
「ありがとうございます」
レナートは社交辞令だと思って、笑って受け流した。誰にも羨ましがられたことなどなかったからだ。
けれど――
――「レナート、おはよう。やはり、いつ見ても良い魔石入れだな」
――「今日も励んでいるか? 実は、似たような魔石入れを探してみたが、見つけられなくてな」
――「なぁ、レナート。刺繍入りの魔石入れは、何処に行けば手に入るのだろうか」
(その辺にうじゃうじゃいるご令嬢に頼んでくださいよ……!!)
第二師団の隊舎の近くには、容姿端麗で将来を嘱望された大公家の次男目当てに令嬢たちがよくうろついていた。
だが、マクシミリアンは彼女たちの熱い視線に気付くこともなく、「令嬢方が来られるような場所ではありません。何かあってはいけませんから、どうかお帰りを」と硬い表情で語りかけた。
令嬢たちから恋文を渡されることもよくあったが、彼はその度に淡々と断っていた。
「返事を書くことが出来ないので、受け取れません」
一度断ってからは、今後も平等に接するべきだと、彼は同じ文句でひたすら断り続けた。
それは、仕事が忙しいことが理由だったが、令嬢たちは皆「相手にもされなかった」と落胆し涙に濡れた。
そうして、団員たちに付けられた二つ名は『鉄壁のマクシミリアン』だった。
「オルテンシア、頼みがあるんだけど……」
「お兄様、改まってどうしたの?」
「……上司が、お前が作ってくれた魔石入れを気に入ったみたいでさ……贈り物にしたいんだ」
「まあ! 本当に? お好きな色は何かしら? 刺繍は何が良い?」
「今度聞いてくるよ」
(嬉しいわ……張り切って作らないと!)
オルテンシアは、兄と兄の上司のために生地と刺繍糸を買いに行き、一針一針丹精込めて魔石入れを作ったのだった。
そうして、出来上がった魔石入れと託されたメッセージカードを、レナートはマクシミリアンに渡した。
「……ありがとう。ずっと大切にするよ」
マクシミリアンは魔石入れを手にし、それは嬉しそうに笑った。
滅多に見ることのない彼の笑顔に、レナートや団員たちは見惚れた。
「レナート、妹さんにお礼がしたいんだが、何が好きだろうか。年齢も教えて欲しい」
「妹は十六歳ですよ。……確か――小さい頃から薔薇が好きだって言ってましたね」
「成る程。教えてくれて感謝する」
その日、マクシミリアンはいつも以上に仕事に励んだ。
「皆お疲れ様。私は少し出てくる」
昼食を抜いて出て行った彼に、団員たちは首を傾げた。
(薔薇……花束が良いだろうか……令嬢が、何を好むのか全くわからないな……)
街へ向かおうとした彼の瞳に、一人の令嬢の姿が映った。
「失礼、そこのご令嬢! 少し聞きたいことがあって――」
それから、街へ急いだマクシミリアンは、リボンが結ばれた白薔薇の花束と、可愛らしい包装の小箱を手に隊舎へと戻ってきた。
『ついに、鉄壁のマクシミリアンを射止めた乙女が現れた!』という噂が、第二師団を駆け巡った。
「レナート! これを妹さんに渡してほしい。これは、お礼の手紙だ」
「手紙まで……恐縮です」
「丁度、隊舎の近くにいたご令嬢に聞いて選んだんだ。妹さんに喜んでもらえると良いのだが……」
少し恥ずかしそうに笑みを零すマクシミリアンに、レナートは彼目当てだったであろう令嬢に同情した。
(花束に、小箱か……何が入ってるんだ?)
「まあ! これを私に?」
レナートが持ち帰った白薔薇の花束を見て、オルテンシアは嬉しそうに笑った。
(お手紙まで……)
『素敵な魔石入れを作っていただき、本当にありがとうございます。ずっと大切にします。ささやかですが、お礼の品を贈ります。気に入ってもらえると嬉しいです』
(喜んでもらえて良かったわ……)
女性に手紙を書いたことなどなかったマクシミリアンは、急いでいたこともあって宛名も自分の名も書き忘れていた。
だが、オルテンシアはそんなことが気にならないほどに嬉しかった。
「まあ! 素敵な髪飾り!」
小箱の中で煌めいた白薔薇の髪飾りに、オルテンシアは目を輝かせた。白い宝石に金細工が施された髪飾りは、見るからに高価そうな品だった。
(副師団長……これ、恋人や婚約者に贈るやつですよ……)
レナートはその言葉を呑み込んで、オルテンシアが喜んでいたことだけをマクシミリアンに伝えた。
そうして、一年が過ぎ、オルテンシアは十七歳になり、マクシミリアンは師団長に就任した。
(何度見ても、素晴らしい魔石入れだ……こうして持っているだけで、力が湧いてくる気さえする)
マクシミリアンはオルテンシアが作った魔石入れを、大切に使っていた。
レナートは首から下げていたが、マクシミリアンは魔石入れが傷まないように懐のポケットにいつも仕舞っていた。
『どうか、気に入っていただけると嬉しいです オルテンシア・ローディア』
繊細な文字でそう書かれたメッセージカードを、マクシミリアンは大切に持っていた。オルテンシアが考えに考えて、そのひと言だけを記したものだった。
(オルテンシア……可憐な名だ)
マクシミリアンは、魔石入れとメッセージを眺めては、オルテンシアに想いを馳せた。
「レナート、妹さんは息災だろうか」
「はい。元気にしていますよ」
「そうか……」
(私は九つも年上だ……それに、手紙に名前を書くことすら忘れて――)
あれ以来、後悔に苛まれ続けているマクシミリアンは、小さくため息を吐いた。
あの日、魔石入れへのお礼の手紙をレナートに渡した後で、彼は宛名と差出人を書くことをすっかり忘れていたことを思い出し、悔やみ続けていたのだ。
(今更、何を言えば良いんだ……それに、いい歳をして若い部下の妹に懸想しているなど――みっともないよな……)
それでも、マクシミリアンは、顔も知らぬオルテンシアを密かに想い続けていた。
そうして更に半年が過ぎた頃、レナートの忘れ物を届けに、オルテンシアが第二師団の執務室を訪れた。
(可憐な令嬢だな……いや、何を考えているんだ……私には――)
澄んだ翡翠色の瞳に、淡い金色の長い髪。マクシミリアンは、楚々としたオルテンシアの姿を見て、幼い頃に読んだおとぎ話の姫君のようだと思った。
彼女の姿に暫し見惚れ、小さく首を振ったマクシミリアン。
そのとき、彼の瞳にオルテンシアの髪を飾る白薔薇が映し出された。
(あの、髪飾りは……)
見開かれた青い瞳。
ガタリと立ち上がったマクシミリアンに、団員たちは「どうされましたか」と声を掛けた。
「いや……今しがたのご令嬢は……」
「ああ、レナート卿の妹さんですよ」
「そう、だったか……」
そう低く呟いたマクシミリアンは、胸の内で盛大にガッツポーズをしていた。叫び出したい衝動を必死に抑えながら、彼はすました顔で席へと着く。
何せ、不毛な片想いだと信じていた相手が目の前に現れ、自分が贈った髪飾りを着けてくれていたのだ。
(私は世界一幸運な男だ……!)
笑みを隠しきれないマクシミリアンに、団員たちは視線を交わした。
「なぁ、師団長、どうしたんだ?」
「さぁ……何か、余程良いことでもあったんだろう」
(しかし……オルテンシア嬢が、あんなにも可憐な令嬢だったとは……)
マクシミリアンは引き出しの奥からメッセージカードを出すと、切れ長の目元を緩ませた。
だが、ひと月が経った頃。上機嫌に執務に励んでいたマクシミリアンを絶望が襲うことになる。
「……婚約?」
「はい、実はレヴェル公爵子息と妹の婚約の話が出ていて……」
マクシミリアンの顔は、一瞬で絶望の色に染まった。
『妹さんを紹介してほしい』
魔石入れを受け取った日に、そうひと言告げていれば――
「師団長?」
「いや、婚約とは……めでたいことだな」
(私は、一年半も何をしていたんだ……)
モタモタせずに、動くべきだった。
あの日、執務室に来た彼女に声を掛けていれば――そんな後悔が、彼の内側を駆け巡っていた。
(……彼女が幸せなら――それで良いじゃないか)
押し寄せる後悔の中で、マクシミリアンは、何度も自分に言い聞かせた。
だが――
「おい、レナートは知ってるのか? あいつの妹、確かレヴェル公爵子息と婚約するって言ってたよな?」
「家同士の問題になるし、俺たちが口を挟んで良いものか……だけど、このままじゃ妹さんがあまりに気の毒だ」
「このまま結婚したら、絶対に苦労するよな……」
その話を偶然耳にしたマクシミリアンは、我慢することなど出来なかった。
「……何の話だ。聞かせてみろ」
そして、彼は知ってしまった。
オルテンシアと婚約するはずの、フラヴィオ・レヴェルの所業を――
(冗談じゃない……そんな男に、渡せるものか……)
「レナート、大切な話があるんだ」
この日、マクシミリアンはローディア侯爵家にオルテンシアとの婚約を申し込んだ。
◇
「オルテンシア嬢。……信じていただけないかもしれないが、私は二年前から、貴女を想ってきたんです」
「マクシミリアン卿……」
「こんな……年上の男は嫌でしょうか」
僅かに視線を落としたマクシミリアン卿に、私は慌てて首を振った。
「そんなまさか……ただ、驚いてしまっただけですの」
そう告げると、彼は心底安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。
「オルテンシア嬢、私には貴女だけだ。どうか私の花嫁になってください」
『花嫁』――その言葉に、私の頬は少しだけ熱くなった。
「……ですが、大公家とうちとでは、釣り合いませんわ」
「既に許しは得ています」
一族の間で、『立派な朴念仁』『万年独身』と呼ばれていたという彼の突然の申し出に、大公家は沸き立っているそうだ。
「貴女がこの手を取ってくだされば、すぐにでも婚約式を行いましょう」
「マクシミリアン卿……これから、どうぞよろしくお願いいたします」
そっと伸ばした手を、彼の大きな手が包んだ。
力強く、温かな手だった。
このとき、硬い表情だった彼が見せた笑顔に、私は一瞬で虜になってしまった――
「どうなることかと思っていたけれど、あの子が幸せそうで本当に良かったわ」
「大公家のマクシミリアン卿ならば、安心して娘を委ねられるな」
新たに結ばれた縁に、両親はとても喜んだ。
兄のレナートは、「仕事増えないといいけど……」とボヤきながらも祝福してくれた。
そして――
「オルテンシア嬢、婚約式のドレスを見に行きましょう」
「……一緒に行ってくださるのですか?」
「当然です」
婚約式の日取りはすぐに決まり、私たちはドレスを見に行くことになった。
「可憐なオルテンシア嬢は、どれもよく似合う……選べませんね」
何を着ても「可憐だ」「よく似合う」としか言わない彼に、私は店内にあるドレスを片っ端から試着することになってしまった。
「オルテンシア嬢、それは……」
ひとつだけ、彼が微かに頬を染めたドレスがあった。
「これに決めましたわ」
あまり飾り気のない、裾がふわりと広がった上品なドレス。その色は、彼の瞳の色によく似ていた。
「オルテンシア嬢……少しだけ、歩いて帰りませんか?」
「ええ」
私の家まで送ってもらう帰り道。
立ち寄ったのは、甘く澄んだ香りが漂う白薔薇の園だった。
(こんな場所があったなんて……)
「なんて、綺麗なの……」
白薔薇に見惚れていた私の傍らで、彼は突然跪いた。
「マクシミリアン様……?」
「オルテンシア嬢。これを、愛する貴女に……」
私の左手の薬指に嵌められたのは、青い宝石が輝く白銀の指輪だった。
そして――
「オルテンシア嬢。生涯、貴女だけを愛し、守ると誓います」
彼の手で差し出されたのは、瑞々しい白薔薇の花冠だった。
「どうか、この花冠を受け取ってほしい――」
真っ直ぐな青い瞳――
けれど、どこかほんの少しだけ不安気な色を滲ませるその瞳を見つめ、私は微笑んだ。
「ありがとうございます。……わたくしも、一生大切にしますわ」
嬉しそうに立ち上がった彼は、私の頭にそっと花冠を乗せてくれた。
「思った通り……オルテンシア嬢には、白い薔薇がよく似合う」
そのとき、彼の人差し指が傷付いているのに気が付いた。
「どうして……まさか、薔薇の棘で……?」
私は、彼の大きな手を取った。その指先や手のひらには、幾つも小さな傷が付いていた。
「……少し不器用で、編むのに少し手こずってしまって……」
恥ずかしそうに笑った彼に、私の胸に熱いものが込み上げた。それは、知らない感情だった。
「マクシミリアン様……わたくしのために……」
彼が捧げてくれた花冠には、棘のひとつも見当たらなかった。
いつの間にか零れた涙を、彼の長い指が拭う。
「この程度、何ということはありませんから……それに、愛する貴女のためなら、いくら傷付いても構いません」
「大切なマクシミリアン様が傷付くのは嫌ですわ。どうか、お怪我などなさらないでくださいね」
傷だらけの両手をそっと握って見上げると、彼の顔は一瞬で赤く染まった。
「これは、違うんだ……少し――暑くなっただけで……」
恥ずかしそうに瞼を伏せた彼を、私はとても愛おしく思った。
これから彼と婚約式をして、結婚式を挙げるのだ。この白薔薇の花冠を載せて――
この――胸を甘く締め付けるような幸せを、何と呼ぶのだろうか。
「マクシミリアン様」
彼の胸元に触れ背伸びをすると、彼の赤くなった頬にそっと口づけをした。
「オルテンシア嬢……」
「わたくしも、マクシミリアン様だけを愛しておりますわ。これからも、ずっと……」
更に真っ赤に頬を染めた彼は、手で顔を隠しながら顔を逸らした。
「もう、夕暮れですね。……遅くなるといけません、そろそろ帰りましょう」
「……もう少しだけ、いけませんの?」
「オルテンシア嬢……」
少しだけ思案した彼は、切なげに眉を寄せた。
「……もう暗くなってしまいますから、お送りします」
差し出された手を取って、白薔薇の園を振り返る。
とても、名残惜しく感じたのだ。
「綺麗な夕焼け……まるで違う街のようですわ」
夕陽に染まる美しい街並みを、手を繋いで歩く。
ただそれだけで、私の胸は温かな幸せとときめきに満たされた。
今までは何とも思わなかった夕暮れの街が、彼と歩いているだけで、まるで違う世界に見えるのだから不思議だ。
「オルテンシア嬢、次の休みに――」
「オルテンシア……?」
その声に、背筋が凍り付いた。
夕日を背に立っていたのは、フラヴィオだった。
「オルテンシア、嘘だろう? 僕たちの婚約が白紙だなんて……家に何度行っても、君に会わせてもらえなくて……」
ふらりと近付いてきたフラヴィオから守るように、マクシミリアン様が立ち塞がった。
「私の婚約者の名を、気安く呼ばないでもらえるか」
「何を――オルテンシアは僕の花嫁になるんだぞ!」
「花冠は私が贈った。オルテンシア嬢は私の花嫁となる大切な女性だ。二度と彼女に近付くな」
「嘘だ! オルテンシア、僕を妬かせるためにこんなことまでして、恥ずかしくないのか?」
回り込んできたフラヴィオの目が見開かれた。
「……白薔薇? ははっ! オルテンシアの好きな花はこれだよ」
「ほら、約束のピンク色の花冠だ。受け取ってくれ」と得意気な顔で差し出された花冠を、私は払い除けた。
小さな音を立てて、フラヴィオの花冠が石畳に落ちた。散った花びらが、風に吹かれて飛んでいく。
「ひどいじゃないか! 折角君のために編んだのに!」
(わたくしのため……?)
落ちた花冠に、あの日のフラヴィオとジュリエッタの笑った顔が浮かんだ。
ピンク色のつる薔薇なんて、もう見たくもない。
「わたくし、愛する方から白薔薇の花冠をいただいて、最高に幸せな気分でしたのよ」
マクシミリアン様の腕に抱きつくと、私は彼に告げる。
「その花冠は、どうぞ大切なジュリエッタさんに差し上げて」
「ジュリエッタは、ただの幼馴染で――」
「マクシミリアン様、行きましょう」
応えるように、彼の腕が私の肩を抱き寄せる。
私たちは、立ち尽くすフラヴィオの横を通り過ぎた。
「待ってくれ、オルテンシア! ――ああっ! 僕の花冠が!!」
誰かが踏んだのだろう。振り返ると、ピンク色の花冠が石畳の上で無残に潰れていた。
「マクシミリアン様。わたくしが一番好きなお花は、白薔薇ですのよ」
「オルテンシア嬢……」
柔らかに目を細めた彼に、微笑み返す。
私の手をそっと包む、傷だらけの大きな手。
私はその温かな手を、しっかりと握り返した。
―― Fin ――
【プロポーズ前日】
マクシミリアン(痛っ……! 花冠を編むのが、こんなに難しいとは……だが、オルテンシア嬢に喜んでもらうためだ)
数時間後――
騎士A「おい、何だよこの血まみれの報告書」
騎士B「師団長だよ。朝からずっと花冠編んでる」
騎士C「はぁ……残業確定だな。師団長のために一肌脱ぐか」
レナート(やっぱり仕事増えた)
◆◇連載版のお知らせ◇◆
本作に続きのストーリーを加え、再構成した【連載版】を始めました。
よろしければ、こちらもお楽しみいただけましたら嬉しいです。
【連載版】もう、あなたとは結婚できません! 〜『貧乏臭い針仕事』が王家のスキルに!? 一途な騎士様に愛されて幸せな花嫁になるので、あなたは大切な幼馴染さんとどうぞ〜
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