第1話 パン屋の朝は日の出前
「薪、くべるか」
吹きすさぶ風が、粉雪をまきあげる深夜零時。
かまどには、灰に埋もれるように少しだけ残った炭が、弱々しく赤い熱を放っている。
杉の葉を一つかみ入れ、息を静かに吹きかけると、ボッと勢いよく火の手が上がった。その隣に薪から剥いだ木の皮を置き、そして薪を積み重ねる。
「冬は薪代が馬鹿にならねえ。だけどなぁ。寒いままだと酵母が眠ったままになるし。あ~やだやだ。とっととお前達のもとに行きたいよ、エルザ」
水を入れた鍋を火にかけ、祭壇を丁寧に拝むと、その隣の棚から酵母の入った瓶を取り出した。
「まずはこいつを起こしてやんねえとな」
かまどの火が強くなるたび、部屋の中は明るさが増す。冷え冷えとした青白い月明かりを邪魔するようなオレンジの明かりが窓から漏れる。
水が人肌よりやや温かくなったところで鍋を下ろすと、酵母の入った瓶をそこに入れた。
バタバタバタと、風の音に駆けているような足音が混ざる。
ドンドンドンと扉が叩かれた。
「助けてください」
ドンドンドンと打ち鳴らされ続けながら「お願いします、ここを開けて!」と女性の声が続く。
こんな夜更けに明かりが漏れているのはこの店だけ。痴情のもつれか、逃げ出した娼館の女か。年に数度はある厄介ごとが来たか、と思いながらもパン屋の亭主ベッカーは、放っておくのも面倒だしと扉の鍵を外した。
冷え切った風と共に、ドレスを着た銀髪の少女と、ふくよかな女性がなだれ込んできた。
「扉閉めろ! せっかく部屋が温まって来たのに」
二人の心配より、部屋の温度を気にするベッカー。だが、扉は開いたまま、女性が叫び声をあげて倒れた。
部屋の内と外を分ける境界に、サーベルを振り下ろした男がいる。
女性は背中から袈裟懸けに切られ、赤い血を噴き出していた。
「お嬢様、お逃げくだ、さい。お願いです、お嬢様を……」
女性はベッカーの顔を見ながら事切れた。
「あ、あ、あああ!」
少女はあまりの惨劇に叫び声を上げながら気を失ってしまった。
「そこのガキを渡しな。まあ、お前には死んでもらうがよ」
扉をあけ放ったまま、ガタイのいい若い男が二人、にやにやと笑いながら靴に着いた雪も落とさず入ってきた。
中にいるのは冴えないおっさんが一人と、まだ思春期になりかかったばかりの少女だけ。男は騒ぎが広がる前に片を付けられると安心しきっていた。
「そうか。ここが俺の死に場所か」
「そうだなおっさん。扉を開けなければ死ぬこともなかっただろうが。運の悪さを呪いな」
「いままで頑張って生きてきた甲斐があった。神よ、最高の死に場所をお与えくださったことを感謝します」
「なにいってんだこいつ」
「気がふれたんじゃないか?」
この状況で満面の笑顔で神に感謝する姿は、若い二人の理解を超えていた。
「安らかにお眠りください。お嬢さんは命に代えて守りましょう」と、女性の亡骸に向かって祈りを捧げている姿は、神聖な殉教者の姿に見え、祈りが終わるまで手を出すことができなかった。
「これで胸を張ってお前の所に行けるぞ、その前に、この嬢ちゃんは俺が守る。さあ、こい、相打ちにしてやる」
「はぁぁ?」
「なに舐めた口をきいてやがる」
訳の分からない態度のおっさんに、一瞬ひるみながらも「死にたいんだったら死ねや」と剣を振り下ろす男。腰を地面すれすれまで落とし刃物を躱すと、業務用の長い麺棒で男の膝を水平にうち砕いた。
「ぎゃああああー」と悲鳴を上げ続け、膝を抱えのたうち回ることしかできない。
「こ、この野郎!」
剣を振り上げ一気に詰めてきた男の柔らかい喉に、固い麺棒の先が当る。
走り込んだ勢いがあだとなり、男は「ゴフッ、ゲフッ」とおかしな音を上げながらやはりのたうち回っていた。
「やれやれ、また生き残ってしまったな」
外には、戦っている声がうるさかったのか、野次馬に来る数人いた。
警備が来るまで時間がかかる。今はのたうち回っているだけだが、反撃されると面倒だと、男たちに向かって麺棒を振り上げた。
「ゴホッ、な、何をする気だ」
「殺しはしない。反撃できないように肩と膝を潰すだけだ」
骨が砕かれる音と、男の悲鳴が三度起こった。
「嬢ちゃんは守れたが……また死ねなかったか。全くよう、弱いくせにいきがりやがって。ちくしょう、部屋の中血だらけじゃねえか」
痛がり転げまわる男二人を、ぞんざいに蹴り転がし外へ放り出す。凍てつく地面に転がされた二人の男に、見物人が蹴りを加えている。
「何やってんだい、ベッカー」
「ああ、婆さん。また死に損なった。まったく、死ななくていいヤツが死んで、死にたい俺は死ぬことができない。世の中不条理だな」
もう一度、女性の亡骸に祈りを捧げた。
「婆さん、そこの倒れてるガキを頼む。どうやらお迎えが来たみたいだ」
遠くから駆け込んでくる足音と、「ベッカー、今度は何をしたんだ!」と叫びをあげる警備兵の声が響いている。
現場を見た警備団はあまりの状況に絶句した。
「この二人が女性を殺して、そこの嬢ちゃんをさらおうとした。俺は殺されるはずだった。嬢ちゃんを守るために戦った。殺しちゃいない。以上だ」
「以上だ、じゃない、ベッカー! 詰所まで来い!」
深夜明かりがついている家はパン屋くらいだ。だから夜のもめごとはベッカーが関わることが多い。
「悪いなみんな、明日の営業はできねえ」
「仕方ないさ。店の掃除はみんなで手伝うよ」
「おお、行ってこいベッカー」
人を助けてやりすぎだと怒られる。まったく、死んだ方がましだな、と星空を見つめた。
――――今度こそ、お前たちのもとに行けると思ったんだがな。
「ベッカー来い!」
「ちょっと待ってくれよ。商売道具だけしまわせてくれ」
温かかった湯は、外気にさらされすっかり冷めていた。
せっかく起こした酵母だが、また眠ってもらおう。
祭壇の隣の棚に瓶についた水気を拭き取ってから収め、妻と息子の遺髪に祈りを捧げた。




