呪縛
その秘密を知ったのは正月に親戚の集まりがあった時だった。それは時間が経っても消えるどころか大きくなっていく癌のような呪いで、私が被害を被ったわけでもないのに酷く重たいものを引き摺りながら生きる羽目になった。そういうある種の禁忌だった。
私がいつもお姉さんと呼び慕う人がいた。お淑やかで、ひたむきで、それでいて少しお茶目なところもある、老若男女問わず好感を持たれるような人だった。笑うと眉尻が下がるのが優しい雰囲気の中に哀愁を漂わせていた。私にとってはそれが印象的だった。「ごめんなさい」と言う時と、その表情が同じだったから。
質問をしたのは私の方からだった。お姉さんは集まっても突然電話が掛かってきたかと思えば「ちょっと、今日は私、この辺りで」といつもさっさと帰ってしまう。親戚連中は皆それに惜しいといった様子を見せるでもなく、じゃあ行ってらっしゃい、と事務的に送り出すものだから、何か事情があるのかと思った。
「お母さん、なんでお姉さんはいつも帰るのが早いの? 今日もあんな感じで帰っていっちゃってさ」
「あー......それは、後で話すから」
「ふうん」
夕食の片づけで忙しくしていた母親は少しピリピリしていたのか吐き捨てるようにそう言った。態度は悪かったが言ったからには約束は守るはずだと私は大人しく待つことにした。
結局忙しいままで時間が経ち、ようやく質問の回答を催促できたのは夜遅くに家に帰ってからだった。
「あんたもそういう話が理解できる歳だしね、丁度訊かれたし答えちゃっていいかしらねえ? お父さん」
「まあ、いいんじゃないか。いずれは話すことになっていただろうし」
私は軽い気持ちで質問したのだが、思いがけずなかなか踏み込んだことを訊いてしまったらしかった。珍しく両親揃って腰を据えて話そうとしているのがその証拠だ。
「あの......お姉さんはね、弟がいるのよ。その弟さんはね、実はちょっと生まれつき障碍を持ってるんだけど......ほら......その、分かる? いや、ちょっと......お父さん、なんて言えばいいんだろうこういうの」
お母さんは言葉に詰まっているのか両手を喉から口へ沿わせるように回して何かを吐き出そうとする動作をしながら、眉間に皺を寄せていた。
「なんて言えばいいって、なあ......」
考え込んでしまった両親を見て私はとにかく続きが聴きたいものだから、「何? 弟さんが障碍持ってて、それで?」と訊き返した。
「やっぱり、障碍を持っていない人に比べて、状況を見て行動するってことが難しいみたいでね。自分のしたいと思ったこととか、頭の中に浮かんだ言葉を全部口にしちゃうんだよ。それで......弟さんは特にその傾向が強いみたいで、過去にあった出来事だと、電車内でズボンを脱いで自慰行為を始めようとしちゃったりしたんだよ」
「ええっ、大変だね」
「そうだな。それで、何回注意しても同じようなことを繰り返そうとしちゃうから......その、今では、そういう欲求を発散させるために......」
今度はお父さんが眉間に皺を寄せた。
「お姉さんが、そういうのの相手をしてやってるって......」
私は開いた口が塞がらなかった。お姉さんに電話が来るとすぐに帰って行ってしまうのは、弟の相手をすぐにでもしてやらないと何をするか分からないから。その役目を担っているから。全ての点と点が線で繋がったのに、心は何とも言えない苦しさに苛まれた。それと同時に、両親やお姉さんを含めた親戚に、何か嫌悪を覚えた。仕方がないからと流しているだけのことでお姉さんのことを許した気になって、許すだけでいいと思っていて、お姉さんのことを救おうとしないのも、そんな選択に走って独りぼっちでいるままのお姉さん本人にも。
それ以来、私は以前よりも親戚との関わりは出来るだけ避けるようになった。
お姉さんと会うこともすっかり少なくなっていたが、ある時にちょっとした届け物をしなければならず親の代わりに私はそれを頼まれていた。久しぶりに会いに行くので緊張していたのだが、それと同時に忘れかけていた彼女の事情もまた頭の中で連想された。自分でも分かるほど厭な顔をしながらも家に向かった。
「はあい、今出ます」
インターホン越しにお姉さんの声を聞いた。いよいよ会うんだと思った。
「久しぶりじゃない? よく来たね、元気にしてた?」
「ああ、うん......これ、言ってた届け物」
「ああ、ありがとうね。ねえ、折角だしちょっと上がっていってよ、久しぶりに会えたことだしさ。時間あれば、どう?」
ちょっと押され気味に承諾してしまった私は仕方なく家に上がることになった。茶を出されて、それから色々と話をしている間に何やら上の階からドタドタとうるさい足音が聞こえてきた。何事かと思ったら息を荒くした中肉中背の男がこちらに降りてきた。
「ねえちゃん! ねえちゃん!」
その男はこちらに一瞥もくれずお姉さんに後ろから覆いかぶさるように抱き着いた。どうやら落ち着きがないようでお姉さんの顔をべたべた触ったりTシャツの襟をぐいぐい引っ張ったりしていた。まさかこれがかの弟だろうか。彼は肉体は一人前である故、お姉さんは抵抗虚しく振り回され、その拍子に服が崩れて胸元が若干さらされてしまった。男の節くれ立った手に覆われた彼女の顔の隙間から、刹那に覗かせた瞳孔の開いた眼は、悪魔に魂を売った愚者のような恐怖を感じさせるもので、私は今になってもそれが忘れられない。
「ちょっと、待って! 今は待って! あとで!」
お姉さんは今まで聞いたこともないような大声で弟を抑え、その場を鎮めた。
「ごめんなさい、お見苦しいところを......」
服を直しながらまたあの顔になった。謝る程度であまり気にしていない様子なのは、私が同性だからか、あるいは既に魂を売った傀儡だからなのか。とても居た堪れなくなって、ついに私は提案した。
「あの、施設とかに入れられないんですか? あんなの、お姉さん一人じゃ......」
「......でも......でも、それは、可哀想かなって。だって、弟だから......家族だから......」
その瞬間に私はお姉さんに対しての失望を嫌悪を完全に思い出した。私はもう彼女を見捨てる心持で、「今日はもう帰ります。早く弟さんの相手でもしてやったらどうですか」と吐き捨てた。その時の彼女の顔は見ていない。
時が経って、もはや親戚の存在など忘れかけていた。親から連絡が入って、私はなんとも後悔と言おうか、どこにもやりようのない憎悪と言おうか、そういうものが心の中でぐつぐつと煮えたのを憶えている。内容は、かの弟の葬式を執り行うから出席しろとのことだった。彼はお姉さんに殺された。ついに精神の限界が来た彼女は、その原因を絶とうと、皮肉なことに自らの手で大切なはずの家族を殺してしまった。あるいは、彼女にとってそれは皮肉な話にはならないのかもしれないが、本人が無期懲役となった今では、それを確かめる必要もあるまい。葬式中、彼女の話を出す者はいなかった。誰も彼女を責めようともしていなかった。実際、これは誰が悪いという話でもなかった。強いて言うならば、家族という名の呪縛と、所詮傍観しかできなかった私たちの責任だろう。彼女も被害者の一人だった。そして優しくて、故に中途半端であった。外界との交流と絶ち弟と共に堕ちていく覚悟もなければ、弟を切り捨ててでも自分を優先しようと決断することもしなかった。彼女は正気のまま禁忌を冒していた。常に自分のしていることが如何に尋常でないことかを認識させられながらそれを続けるのだから、ずっと独りでいる感覚だっただろう。ああ、なんと可哀想なことだろう。




