第2章:夜に咲く月下美人
「うっ、苦い!」
舌を刺すような苦味が、純粋な味覚を激しくかき乱した。赤みがかった髪を無造作に垂らした少年は、薬を口に含んだ瞬間にその凄まじい風味に耐えきれず、顔をしかめて器を置いた。
蘇生 桜花。蘇生家の次男である彼は、感情が昂りやすく、少しばかり反抗的な気質を持っていた。勉強は嫌いで、生薬の研究にも全く興味がない。家族の決めた枠組みに押し込められることを何よりも嫌っていた。桜花が求めていたのは「絵を描くこと」だけだった。彼には確かな才能があった。彼の描く絵は、見る者の魂を未知の世界へと誘い、凡人の目であっても、少年が伝えようとする世界を瞬時に理解させてしまうほどの生命力に満ちていた。
不運なことに、桜花は生まれつき肺が弱く、常に苦い薬を飲み、外出も制限されていた。湊人は、部屋にこもって筆と絵の具に没頭する桜花に対し、すでに期待を捨てているようだった。
コンコン。
「入っていいよ」
ガチャリ。
扉が静かに開き、茶褐色の髪に、優しく見守るような瞳をした温瑰が入ってきた。その手には、古風な紋様が施された深い紫色の風呂敷包みが握られていた。
「桜花、薬は飲んだかい?」
温瑰の声は穏やかだったが、その響きにはどこか痛みと苛立ちが混じっていた。
「うん、ハル兄ちゃん。今朝、お母さんが煎じてくれたのを飲んだよ。わざわざ来てくれてありがとう」
桜花の顔色は優れなかったが、兄を安心させるために太陽のような笑顔を作ってみせた。どれほど身体が拒絶しようとも、自分は強くありたいと願っていた。 少なくとも、冷静で完璧な兄や、無邪気で悩み一つない妹のようにはなれないことを、桜花は痛いほど分かっていた。自分の人生は……生まれた時から、二人とは天と地ほどの差があるのだと。
温瑰はうつむき、まぶたを伏せた。赤黒い瞳から一瞬、光が消える。 彼はそっと唇を噛みしめた。 顔を上げた時、温瑰は目を細めて微笑んでいた。そして紫色の包みを桜花の前に差し出した。
「これは長野のお土産と、僕が家の薬草で作った薬だよ。ちゃんと使ってくれると嬉しいな」
桜花は兄の細くしなやかな手から包みを受け取り、丁寧に広げた。中には貴重な生薬だけでなく、新鮮な果物、水、大好物のお菓子、そして……新しいスケッチブックと絵の具セットが入っていた。
一瞬、思考が止まった。桜花の目になぜか熱いものがこみ上げ、彼は慌てて手で目をこすった。
「ありがとう……ハル兄ちゃん」
温瑰は病弱な弟の背中に手を置き、優しく撫でた。
「僕にできることは何でもするよ。だから桜花、君も諦めないで」
________________________________________
カツ、カツ。
廊下を歩く温瑰の足取りに合わせて、上衣の裾が揺れる。歩きながら考えるのは、彼の癖だった。父から一晩で膨大な調合レシピを暗記するよう命じられて以来、温瑰は食事中も、寝る間際も、常に脳をフル回転させて記憶し続けなければならなかった。 そのせいで、彼は「過剰思考」に陥る性質を抱えていた。
「温瑰」
名を呼ばれ、温瑰が振り返ると、そこには父の厳しい視線があった。
「……父上」
「なぜこんな時間にうろついている。部屋で書を読んでいる時間ではないのか?」
温瑰は理由の分からない汗をかき、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「申し訳ありません。すぐに部屋に戻り、学習を再開します」
「……また、あの『黒い羊(厄介者)』の部屋に行っていたのか。あいつとはあまり関わらない方がいい」
父の口から出た「黒い羊」という言葉に、温瑰の耳の奥がキーンと鳴った。 ああ、そうだ……。僕の胸がこれほど苦しくなる理由は、これだったんだ。
「桜花は……あの子は……父上……」
湊人の眉間の皺が深くなり、老いた顔に怒りと苛立ちが露わになった。
「男のくせになぜそんなに声が小さい! 伝えたいことがあるならはっきり言え! 家督を継ぐ者がそんなに臆病でどうする!」
湊人の声は、鋭い刃のように突き刺さった。 温瑰は奥歯を噛みしめ、汗が止まらなくなった。不安、恐怖、父への失望……そして、自分自身への不甲斐なさ。
「……いえ、何でもありません。申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
温瑰は深く一礼し、廊下の突き当たりにある自分の部屋へと急いだ。
(僕はなんて惨めなんだ)
温瑰は心の中で自問自答した。
(どうすればあの子を守れる? どうすればもっと強くなって、自分の想いを口にできるようになるんだ?)
________________________________________
夜のダナン市は、ホーチミンのような喧騒はないものの、華やかで美しい都市の空気を纏っていた。ハノイほど冷え込むことはなく、行き交うバイクの列と高層ビルの明かりが、街を彩っている。
夜9時過ぎ。食堂の片付けを終えた**夜 Quỳnh**は、荷物をまとめていた。
「マイさん、お先に失礼します。帰りますね」
「クインちゃん、もう暗いよ。一人で大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です! お疲れ様でした!」
クインは店主に満面の笑みで手を振ると、大通りへと駆け出した。 街灯が灯る中、クインが住む地区は、古びた平屋が数軒並ぶだけの少し寂れた場所だった。電気設備も古く、街灯が切れていることも多いが、彼女は夜の一人歩きには慣れっこだった。
かつて、今夜のような帰り道で事件が起きたことがあった。見知らぬ男に後をつけられたのだ。いち早く気づいて逃げたものの、あやうく連れ去られそうになった。その時、クインは機転を利かせて男の手に噛みつき、急所を蹴り上げて、無我夢中で家まで走り抜けた。 クインは恐れなかった。子供であっても、彼女は常に強くあろうとしていた。
しばらく歩き、クインはトタン屋根の古びた家の前で足を止めた。
「ただいま戻りました」
「今日は遅かったわね」
若々しくも落ち着いた、慈愛に満ちた女性の声が響いた。クインの母だ。長い髪を束ね、透き通るような美しさを持つその姿は、まるで仙女のようだった。
「うん、今日はいつもよりお客さんが多かったの。えへへ、お母さん。マイさんがお給料を少し色をつけてくれたんだよ。これでお父さんの薬、もっと買ってあげてね」
母は優しく微笑み、小さな娘の頭を撫でた。
「いいのよ、クイン。これはあなたが後でお菓子でも買うために取っておきなさい。お父さんの薬代はお母さんがなんとかするから」
「でもお母さん……お父さんの結石はどうなの? お医者さんは手術しなきゃいけないって言ってたでしょ? お金、たくさん必要だよ」
母はそれ以上何も言わず、もうその話はやめなさいというように、クインの頭をぽんぽんと叩いた。
「もう遅いわ。ご飯は食べた?」
「うん、食べたよ」
「なら、早く寝なさい。明日も学校でしょ」
クインは芯の強い子だったが、聞き分けのない子ではなかった。母の言葉に頷き、寝室へと向かおうとした。しかし、ふと思い直して母の手を引いた。
「お母さん……今夜は一緒に寝てもいい?」
今夜は、なぜだかとても寒く感じるの。




