領主の耳に届くもの
最初に変化に気づいたのは、農家だった。
次に、それを噂として拾ったのは、役人だ。
そして最後に――領主の耳に入った。
「……息子が、土遊びをしている?」
執務室で、グレイス伯爵は書類から目を上げた。
報告しているのは、農務を担当する下級役人だ。
言いにくそうに、言葉を選んでいる。
「はい。裏手の空き地で、農家と一緒に……」
「一緒に?」
「いえ、正確には、坊ちゃまが作ったものを、農家が使ってみたと」
伯爵の眉が、僅かに動いた。
「作ったもの、とは?」
「……肥料、かと」
一瞬、室内の空気が止まる。
肥料。
それは、知らない言葉ではない。
書庫にも記述はある。
だが、実際に使われることは、ほとんどなかった。
「誰が許可した?」
「命令ではありません。坊ちゃまが、頼んだだけだと」
命令ではない。
その一言で、伯爵の関心は、少しだけ深くなった。
「結果は?」
「野菜の生育が……良い、と」
「良い、とは?」
役人は、慌てて言葉を足す。
「同じ畑で、同じ種を使ったものより、明らかに」
伯爵は、しばらく黙った。
九歳の息子。
土遊び。
農家に頼み込む。
肥料。
どれも、突飛ではあるが、危険ではない。
問題は――結果だ。
「偶然の可能性は?」
「否定はできません」
「当然だ」
伯爵は、椅子に深く座り直した。
「畑の場所は?」
「裏手の、使われていなかった区画です」
「被害は?」
「ありません」
「なら、止める理由もない」
役人は、ほっとしたように息を吐いた。
だが、伯爵は話を終わらせなかった。
「農家は、誰だ」
「三名ほど。いずれも、長くこの地で畑を持つ者です」
「呼べ」
◇
農家たちは、緊張していた。
領主に呼ばれる。
それだけで、身構える理由になる。
「命令ではありませんでした」
最初に、そう告げたのは伯爵だった。
「息子が、頼んだだけだと聞いている」
農家は、顔を見合わせた。
「……はい」
「断ることも、できただろう」
「できました」
「なぜ、受けた?」
年長の農夫が、ゆっくりと口を開く。
「坊ちゃんが……自分で土を作ってました」
「自分で?」
「糞も、鋸屑も、葉も。全部」
伯爵の視線が、僅かに鋭くなる。
「遊びに見えなかった?」
「……正直、最初は」
だが、と農夫は続ける。
「匂いが、違いました」
「匂い?」
「腐った匂いじゃない。土の匂いでした」
沈黙。
「結果は?」
「伸びが、早いです」
「量は?」
「まだ、分かりません」
「正直でいい」
伯爵は、頷いた。
「偶然だと思うか?」
農夫は、少し考えた。
「分かりません。ただ……」
「ただ?」
「今までと、違いました」
それだけで、十分だった。
◇
夜。
伯爵は、書庫に足を運んだ。
久しぶりに、農書を手に取る。
輪作。
休耕。
堆肥。
どれも、知っている言葉だ。
だが――使っていなかった。
理由は簡単だ。
時間がかかる。
即効性がない。
数字に表れにくい。
だが、息子は――。
「……土か」
呟きは、小さい。
書庫番が、気づいて声を掛ける。
「何か、お探しですか?」
「いや」
伯爵は本を戻した。
探しているのは、本ではない。
◇
翌日。
伯爵は、裏手の空き地を訪れた。
誰にも告げずに。
そこには、小さな畑と、積まれた土。
そして――息子がいた。
汚れた手。
真剣な顔。
声を掛けようとして、やめる。
見ているだけで、分かることがある。
息子は、指示していない。
教えてもいない。
ただ、やっている。
農夫が、隣で手を動かしている。
対等だ。
伯爵は、静かにその場を離れた。
◇
夜。
執務室に戻り、帳簿を見る。
収穫。
税。
備蓄。
数字は、変わっていない。
まだだ。
だが、変わる可能性はある。
「……急ぐ必要はない」
誰に言うでもなく、そう呟く。
九歳の息子が作った土。
それが、偶然か、必然か。
判断するのは、まだ先だ。
だが一つだけ、確かなことがある。
息子は、前に出ていない。
押し付けていない。
命令していない。
それでいて、結果だけが、静かに残っている。
――厄介だな。
伯爵は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
処刑台へ向かう道は、
まだ見えない。
だが、確実に、別の道が作られ始めていた。




