書庫という逃げ道
肥料のことは、知っている。
前の人生で、俺は学んだ。
家畜の糞尿、落ち葉、藁。
土に有機物を戻さなければ、地力は持たない。
――だが。
それを、今の俺が言い出したらどうなる?
九歳の子供が、畑を見て、肥料が足りないなどと言い始める。
大人たちは笑うだろうか。
それとも、不気味がるだろうか。
どちらにせよ、まともには受け取られない。
前の人生でも、同じだった。
正しいことを言えば、理解される。
そう思っていた。
結果は――処刑台だ。
「……駄目だな」
一人、部屋で呟く。
今回は、同じ轍を踏まない。
正しいかどうかより、
どう通すかを考えなければならない。
◇
父を説得する?
無理だ。
父――グレイス伯爵は、理不尽な人間ではない。
だが、忙しい。
領地。王都。軍備。周辺貴族との関係。
九歳の息子の「思いつき」に、時間を割く余裕はない。
それに、父は数字で判断する。
収穫量。税収。兵糧。
目に見えない土の疲弊など、優先度は低い。
では、どうする?
答えは、意外なほど近くにあった。
――書庫だ。
◇
グレイス家の書庫は、領館の奥にある。
石造りの部屋。
湿気を防ぐため、常に焚かれる小さな炭火。
並ぶのは、帳簿、地誌、農書、戦記。
子供が近づく場所ではない。
だからこそ、都合がいい。
「エドワルド様? どうなさいました?」
書庫番の老爺が、驚いた顔をする。
「本、読みたい」
「は……?」
「畑の本」
老爺は一瞬、困ったように眉を寄せた。
だが、すぐに苦笑する。
「農書は難しいですよ。数字も多い」
「いい」
子供の我儘に見える。
だが、拒む理由はない。
「……では、こちらを」
渡されたのは、かなり古い農書だった。
ページを開く。
見覚えのある内容が、並んでいる。
輪作。
休耕。
堆肥。
前世で学んだことと、ほとんど同じだ。
――あったじゃないか。
この世界にも、知識はある。
ただ、使われていなかっただけだ。
俺は、ゆっくりと読み進めた。
全部を理解する必要はない。
重要なのは――覚えておくことだ。
◇
数日後。
俺は、また畑に出ていた。
今度は、農夫に質問する。
「ねえ。昔は、どうしてたの?」
「昔、とは?」
「おじいさんの頃とか」
農夫は、懐かしそうに空を見る。
「そうですなぁ……昔は、畑を休ませたり、落ち葉を鋤き込んだりしてました」
「今は?」
「忙しくてなぁ。そんな余裕はありません」
――余裕がないのではない。
余裕を作る発想が、消えただけだ。
夜、書庫に戻る。
別の本を読む。
今度は、地誌。
土地ごとの土質。
水の流れ。
すべてが、繋がっていく。
数字だけを追っていた頃には、見えなかったものが。
◇
ある日、父とすれ違った。
「最近、書庫に通っているそうだな」
「うん」
「難しくはないか?」
「難しい」
正直に答える。
父は、少し笑った。
「なら、無理はするな」
「でも、面白い」
それだけ言う。
説得はしない。
提案もしない。
ただ、学んでいる姿を見せる。
それでいい。
父が何かを変えるのは、
誰かに言われた時ではなく、
必要だと感じた時だけだ。
◇
部屋に戻り、今日読んだ農書を思い返す。
肥料の章。
そこに書かれていたのは、奇抜な方法ではない。
ただの、積み重ね。
――これなら、いける。
俺が言い出さなくてもいい。
書庫にある「昔からの知識」を、
父や役人が再発見すればいい。
そのきっかけを、
俺が作ればいい。
前の人生では、俺は前に出すぎた。
今回は、裏に回る。
書庫は、逃げ道であり、武器だ。
九歳の子供が、ただ本を読んでいるだけ。
それだけで、世界は少しずつ、変えられる。
俺は、静かに次の本を手に取った。
処刑台へ向かう道から、確実に外れるために。




