土に触れる
数字だけを追っていた。
前の人生での俺は、そうだった。
帳簿を読み、税収を見て、収支を計算し、効率を求めた。
だが――その数字が、どこから生まれているのかを、深く考えたことはなかった。
だから、今回は違う。
「エドワルド様? 今日はお勉強では……?」
朝食後、乳母が少し困ったような顔で尋ねてきた。
「うん。でも、その前に外に出たい」
「外、ですか?」
「畑を見たいんだ」
理由を聞かれれば、どう答えるかは考えてある。
「剣術ばっかりだと、つまらないし。外で遊びたい」
九歳の子供としては、十分すぎる理由だろう。
乳母は一瞬迷ったが、すぐに頷いた。
「では、近くの畑までにしてくださいね。必ず護衛を――」
「うん」
こうして俺は、護衛二名を連れて、領館の裏手に広がる畑へと向かった。
◇
畑は、思っていたよりも広かった。
小麦畑。豆。根菜。
季節は春の初めで、芽吹き始めたばかりの若い緑が、まだ心許なさそうに並んでいる。
土の匂いが、鼻をついた。
――この匂いだ。
前の人生では、ほとんど嗅いだことがなかった。
「エドワルド様?」
護衛が声をかけてくる。
「ちょっと、触ってみたい」
そう言って、俺は畑の縁にしゃがみ込んだ。
土を掴む。
湿り気。粒の大きさ。指の間から零れる感触。
……軽い。
悪くはないが、良くもない。
水はけはそこそこ。だが、有機物が少ない。
連作が続いているのだろう。地力が落ちている。
九歳の子供が、そんなことを考えているとは、誰も思わない。
俺はただ、土遊びをしているだけに見えたはずだ。
「ねえ」
近くで作業していた農夫に声をかける。
彼は驚いたように振り向き、慌てて頭を下げた。
「は、はっ! これはこれは、坊っ――いえ、エドワルド様!」
「いいから。畑のこと、教えて」
「は?」
「これ、いつから使ってる畑?」
農夫は戸惑いながらも答えた。
「もう、十年以上になりますな。父の代からです」
「休ませたりは?」
「いえ……あまり。収穫が減ると困りますから」
やはり。
「去年は、どうだった?」
「去年ですか? まあ、並でしたな。悪くもなく、良くもなく」
――並。
その言葉の裏に、危うさがある。
地力が落ちている状態での「並」は、次に来るのは悪化だ。
だが、この年の次は、豊作が来る。
問題は、その後だ。
「肥やしは?」
「家畜の糞を少々。ですが、足りません」
「どうして?」
「家畜も多くはありませんし……」
俺は頷いた。
数字では見えなかったものが、ここにはある。
◇
別の畑も見た。
こちらは水はけが悪い。
雨が続けば、すぐ根腐れを起こすだろう。
「ここ、雨の日はどうなるの?」
「溜まりますなぁ。どうにもならんです」
溝を掘るだけで、だいぶ違う。
だが、それを指示する立場に、今の俺はいない。
いや――正確には、表立ってはいない。
だから、急がない。
前の人生では、急ぎすぎた。
「楽しい?」
護衛の一人が、少し不思議そうに聞いてきた。
「うん。土って、面白い」
嘘ではない。
数字は結果だ。
土は、原因だ。
ここを知らずに、どうして領主が務まる。
◇
帰り道、俺は倉の前で足を止めた。
木造の倉庫。
鍵は掛かっているが、管理は甘い。
「中、見たことある?」
「いえ。基本的に、役人しか入れません」
――それも、問題だ。
だが今は、踏み込まない。
今日は「遊びに来た」だけだ。
九歳の子供が、畑で泥だらけになって帰った。
それだけの話でいい。
部屋に戻ると、乳母が慌てて布を持ってきた。
「まあ……こんなに汚して……!」
「ごめん。でも、楽しかった」
それだけ言う。
夜、寝台に横になりながら、今日見た畑を思い出す。
十二歳の豊作。
十三歳の小麦暴落。
十四歳の凶作。
同じ畑が、それを生む。
数字をいじる前に、土を変えなければならない。
だが、今はまだ――
俺は、九歳だ。
急がない。
目立たない。
ただ、知る。
畑で遊ぶ子供のまま、領地の根を、一本ずつ確かめていく。
前回は、数字だけを見て失敗した。
今回は、土から始める。
それが、処刑台へ至らないための、最初の一歩だと――
この時の俺は、はっきりと理解していた。




