研究という名の借り物
うちの領内でも、ワインは作っている。
――と言っても、それは産業と呼べるほどのものではない。
貴族としての嗜み。
領主が客をもてなすための、体裁。
年に数樽、出来が良ければ十分。
(趣味、だな)
グレイスは、ワイン用の小さな醸造小屋を眺めながら、そう思った。
葡萄畑も小規模。
味を求めるなら、商人から買った方が安い。
極端な話、今年まったく作れなくなっても
(誰も困らない)
それが、この領内のワインだった。
だからこそ。
(……使える)
設備は、最低限だが揃っている。
桶。
樽。
搾り台。
そして何より――
(酵母)
長年使われてきた場所だ。
空気にも、木にも、微生物は住み着いているはず。
新しく何かを始めるより、既にあるものを借りる方が、失敗は少ない。
「……理屈は、通る」
前の人生で学んだのは、“完璧な準備”より、“動かせる環境”の方が重要だということだ。
擦り下ろしたじゃじゃ芋を入れた桶を、静かに運ぶ。
葡萄ではない。
香りも違う。
糖の質も違う。
(だからこそ、実験)
上手くいけば、酒になる。
上手くいかなければ、酸っぱい何かが出来るだけ。
「……研究、だな」
父が言っていた言葉を、思い出す。
“研究なら構わん”
期待も、成果も、今は求められていない。
(気が楽だ)
エドワルドは、芋の塊に水を加え、慎重にかき混ぜた。
泡は、まだ出ない。
「……さて」
ここからは、時間任せだ。
外に出ると、夕暮れだった。
畑では、農家たちが作業を終え、小屋では、セキシャク鳥が騒がしく鳴いている。
豆も、鳥も、芋も。
全部、小さい。
全部、地味だ。
だが――
(積み重ねれば、意味になる)
グレイスは、空を見上げた。
豊作も、不作も、まだ先の話だ。
今はただ、既にあるものを使い、出来ることを試す。
それだけでいい。
じゃじゃ芋の酒が、本当に酒になるかどうかは――
数週間後の、自分が知ることになる。
畑に出ると、朝露に濡れた葉が光っていた。
「……育ってるな」
エドワルドは、腰を落として畝を見渡す。
硬豆の試験栽培。
正直に言えば、不安はあった。
(半分は……駄目だったが)
発芽しなかった種は、確かに多い。
土が合わなかったもの。
水が多すぎたもの。
深く埋めすぎたもの。
原因は、一つではない。
だが――
「残った方は、文句なしだな」
青々とした葉。
茎は太く、無理に伸びた感じもない。
風に揺れても、簡単には折れそうにない。
(根が、ちゃんと張ってる)
これは、経験で分かる。
畑の端で、農家の男が腕を組んで見ていた。
「若様、豆……意外と強いですね」
「ええ。思っていた以上です」
「半分失敗したって聞いた時は、正直、駄目かと」
エドワルドは、少しだけ笑った。
「全部上手くいく方が、変ですよ」
農家は、驚いたような顔をした。
「……そう言われると、そうですが」
「今回は、試験です。失敗しても、次に活かせれば十分です」
その言葉に、男は頷いた。
「なるほどな……」
エドワルドは、畝の間を歩きながら考える。
(発芽率は、改善できる)
種を選ぶ。
蒔く深さを揃える。
土を、もう少し軽くする。
(次は、七割……いや、八割は狙える)
欲張りすぎない。
だが、妥協もしない。
硬豆は、派手な作物ではない。
味も、見栄えも、主役にはならない。
だが――
(残る)
保存できる。
餓えを防ぐ。
家畜にも回せる。
この青い葉の下に、その可能性が眠っている。
畑を離れる前、もう一度振り返る。
「……よし」
小さく、だが確かな手応え。
派手な成功ではない。
だが、確実な前進だ。
硬豆は、今日も静かに育っている。
それは、この領地が――
少しずつ、根を張り始めている証でもあった。




