硬豆の試験栽培開始
領主は、執務室で一人、書類を閉じた。
硬豆。
セキシャク鳥。
どちらも、どこかで聞いた覚えがある。
だが「領地で使うもの」として意識したことはなかった。
(書庫か……)
息子は、あの書庫に通っている。
自分も若い頃、何度も足を運んだはずだ。
それでも――
(私は、見落としていたのか)
記録はある。
だが、使われていない。
「使われなかった」という事実だけを見て、価値がないと判断していた。
あるいは、忙しさを理由に、深く読み込まなかったのか。
領主は、小さく息を吐く。
(あれほど“今あるもの”を見ろと言ってきたのにな)
自分自身が、過去の記録を十分に見ていなかった可能性。
それを、息子に突きつけられた気がした。
「……皮肉なものだ」
だが、不快ではない。
むしろ――
(良い)
そう思えた。
◇
数日後。
畑の一角に、見慣れない区画が設けられた。
広くはない。
畑全体から見れば、ほんの試しだ。
「ここに、硬豆を蒔く」
エドワルドは、農家たちに説明していた。
「いつも通りの豆より、少し間隔を空けます。根が深く張るので」
農家の一人が、首を傾げる。
「硬い豆って聞いたが……本当に育つのか?」
「分かりません」
エドワルドは、正直に答えた。
「だから、試します」
農家たちは、顔を見合わせたあと、苦笑した。
「坊ちゃまは、正直だな」
「分からない事は、分からないままやる方が、後で困りません」
その言葉に、年嵩の農家が、ゆっくり頷いた。
「……まぁ、いい。これくらいなら、手も取られん」
種が蒔かれ、土が被せられる。
小さな始まりだった。
◇
だが、順調とは言えなかった。
数週間後。
「……坊ちゃま」
呼びに来た農家の声は、やや困った様子だった。
畑に行くと、芽が揃っていない。
「発芽率が、良くないです」
半分ほどしか、芽が出ていない。
土を掘ると、腐っている種もあった。
(……水、か)
エドワルドは、土を指で崩す。
水分が、多い。
「いつも通り、撒いたか?」
「はい。豆は水を好むからな」
そこが、落とし穴だった。
「硬豆は、少し乾き気味の方が良さそうです」
農家は、眉を上げる。
「同じ豆でも、違うもんだな」
「はい」
エドワルドは、素直に認めた。
「私の見込み違いです」
「いや」
農家は、首を振る。
「試して分かった。悪くない」
失敗を、失敗のまま終わらせない。
それが出来ている。
それだけで、十分だった。
◇
数日後、条件を変えた区画では、芽が揃い始めた。
一斉ではない。
だが、確実に育っている。
「……これなら、いけるかもしれんな」
農家の声に、少しだけ期待が混じる。
エドワルドは、頷いた。
「量は、まだ増やしません」
「増やさない?」
「はい。来年の種が取れるか、まず確認します」
欲張らない。
急がない。
前の人生で、何度も破った原則だ。
◇
その様子を、少し離れた場所から見ている人物がいた。
兄だ。
腕を組み、畑を眺める。
「……失敗しても、引かないんだな」
誰に言うでもなく、呟く。
命令しない。
だが、放り出さない。
弟は、少しずつ、だが確実に「続く形」を作っている。
「厄介だな」
そう言いながら、口元はわずかに緩んでいた。
◇
夕方。
エドワルドは、簡単な記録をまとめ、父に提出した。
発芽率。
水量。
土の状態。
成功と、失敗。
領主は、黙って目を通し、最後に一言だけ言った。
「……よく書けている」
「ありがとうございます」
「失敗を隠していないのが、いい」
エドワルドは、小さく頷いた。
「隠すと、次で困りますから」
領主は、一瞬だけ微笑んだ。
◇
硬豆の試験栽培は、まだ始まったばかりだ。
成功とは言えない。
だが、失敗でもない。
小さな躓き。
小さな修正。
その積み重ねが、いずれ――
飢えないための「当たり前」になる。
エドワルドは、沈みゆく夕日を見ながら、静かに思った。
(まだ、間に合う)
急がない。
だが、止まらない。
その歩みは、確かに、未来へ続いていた。




