九歳の現在地
「おーい! 体調、大丈夫かー?」
庭先から、聞き慣れた声が飛んできた。
「兄さん!」
振り返ると、木剣を肩に担いだ兄が立っていた。まだ若く、無鉄砲で、笑顔の眩しい頃の姿だ。
「ええ。どうにか大丈夫です」
そう答えると、兄は眉をひそめた。
「何だ? いつもと雰囲気が違うような?」
「いえいえ。そんなことはありません」
「そうか? 喋り方も、なんだか固いぞ」
「まあまあ……」
誤魔化すように笑うと、兄は大きく息を吐いた。
「ならいいけどな。折角もう少しで十歳なんだから、体調には気をつけろよ」
「分かりました」
兄は満足そうに頷き、剣の稽古へと戻っていった。
その背中を見送りながら、胸の奥が静かに痛んだ。
――生きている。
この兄は、まだ戦地に立っていない。
まだ、死ぬ運命を背負わされていない。
成る程。
今の俺は、九歳ということか。
この身体の感覚と、兄の言葉が一致する。
一度目の人生で、最初の豊作があったのは十二歳の年だった。
つまり――
最初の分岐点まで、あと三年。
思っていたより、時間はない。
二年後に訪れる豊作は、祝福であると同時に、崩れ始める合図だった。
その翌年の暴落、さらにその次の凶作へと、歯車は確実に噛み合っていく。
理想だけでは、何も変えられない。
それは、処刑台の上で嫌というほど思い知った。
だが、今の俺にできることは限られている。
九歳の子供が、領政に口を出すことはできない。
領内を詳しく見て回りたい。
倉の数、畑の状態、人の流れ。
だが、それも不自然になりかねない。
さて――どうするか。
答えは、急がないことだ。
今は、準備の段階。
直接手を打つのではなく、土台を作る。
学ぶこと。
見ること。
覚えること。
そして、大人たちの判断の癖を知ること。
誰が慎重で、誰が楽観的か。
誰が数字を見て、誰が空気を見るか。
それを知らなければ、いざという時に介入できない。
兄の笑い声が、遠くから聞こえる。
父の声も、執務室の方から微かに届いてきた。
この日常は、いずれ崩れる。
だが――まだだ。
俺は、拳を強く握りしめる。
三年。
たった三年で、どれだけの準備ができるか。
処刑台の低さを思い出す。
あの高さに至るまで、俺は何も積み上げていなかった。
今度は違う。
この九歳という立場から、
誰にも気づかれない形で、
未来への布石を、積み上げていく。
豊作は、まだ先だ。
だが準備は、もう始まっている。




