領主(父)が「気づき始める」
帳簿を閉じた伯爵は、しばし指を止めた。
数値は、悪くない。
いや――正確に言えば、乱れていない。
突出した増収があるわけではない。
税率も変えていない。
新しい法令も出していない。
それなのに、倉の回転が妙に安定している。
「……妙だな」
独り言が、執務室に落ちた。
不作でもなく、豊作でもない。
それでいて、食糧の出入りが極端に偏らない。
例年なら、どこかに歪みが出る。
農家が慌てるか、倉が先に悲鳴を上げるか、そのどちらかだ。
だが今年は、どちらも静かだ。
「誰か、余計なことをしたか?」
そう呟いてから、伯爵は自分で首を振った。
余計なことをすれば、必ず帳簿に出る。
これは、そういう類の変化ではない。
静かすぎる。
伯爵は立ち上がった。
「外を見る」
執事が一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
◇
畑は、いつも通りだった。
少なくとも、遠目には。
農具は古い。
畝の形も、劇的には変わっていない。
だが――
伯爵は、歩きながら気づく。
農家の動きが、落ち着いている。
怒鳴り声が少ない。
無駄に急ぐ様子もない。
「……静かだな」
執事が、小声で応じる。
「はい。最近は、あまり揉め事もなく」
伯爵は、何も言わずに頷いた。
畑の端で、数人の農家が集まっている。
新しい作物の話をしているようだが、押し付ける調子ではない。
「これ、どう思う?」
「前より、土が軽い気がするな」
「去年より、持つかもしれん」
“もし”と“かもしれん”。
断言しない。
だが、否定もしない。
伯爵の眉が、僅かに動いた。
◇
鍛冶場にも足を運ぶ。
新しい農具が並んでいるわけではない。
だが、修理の数が増えている。
「壊れる前に直すようになっただけですよ」
鍛冶師は、そう言って肩をすくめた。
「誰の指示だ?」
「指示、ってほどでも……」
鍛冶師は少し考え、答える。
「使い方を変えた方がいい、って話が出ただけです」
「誰から?」
「……坊ちゃま、ですかね」
伯爵は、何も言わなかった。
◇
執務室に戻り、報告を整理する。
新しい制度はない。
新しい命令もない。
あるのは――
試して、確かめて、納得した結果だけだ。
肥料の件。
保存食の件。
作物の件。
どれも、完成していない。
どれも、強制していない。
それでも、現場が動いている。
「命令していないのに、か……」
伯爵は、指で机を叩いた。
前なら、見逃していただろう。
数字が動かない限り、評価もしなかった。
だが今は、違う。
数字が動かない“理由”が、見えてきた。
急がない。
だが、止まらない。
押し付けない。
だが、消えない。
「……厄介なやり方を覚えたものだ」
そう呟きながらも、口調に苛立ちはなかった。
むしろ――
「領主向きだ」
その言葉は、誰にも聞かせなかった。
◇
伯爵は執事に言った。
「しばらく、様子を見ておけ」
「坊ちゃまを、ですか?」
「いや」
伯爵は、帳簿を閉じる。
「領地を、だ」
動き始めたのは、人だ。
息子は、前に立っていない。
だが、確かに道は敷かれ始めている。
まだ名を呼ぶには早い。
まだ、褒める段階でもない。
だが――
「見ていなかったものを、見せられたな」
伯爵は、静かに息を吐いた。
その時すでに、
領地は、以前とは違う呼吸を始めていた。
それに気づいた者は、まだ少ない。
だが、確かに。
確実に。
変化は、始まっていた。




