その日の夜
夜だった。
南町の建設現場から戻った俺は、灯りの落ちた執務室で一人、椅子に深く腰を下ろしていた。
机の上には未処理の書類。だが文字を追う気力は、もう残っていない。
……静かだ。
昼間あれほど人が溢れていた場所が、嘘のように。
鼻の奥に、まだじゃじゃ芋のスープの匂いが残っている気がした。
いや、残っているのは匂いじゃない。
あの、鍋を前にした時の視線だ。
——食べ物を見て、安心より先に涙が出る目。
「……」
拳を軽く握る。
正しい判断はしている。
間違った事はしていない。
父上も、グレゴールも、誰も否定はしない。
それでも——
「……遅かったのか?」
思わず、声に出ていた。
もし、もっと早く。
もっと広く。
もっと疑っていれば。
そう考え始めると、きりが無いと分かっている。
分かっているのに、頭が止まらない。
——前世では、もっと単純だった。
敵がいて、剣があって、勝てば生き残る。
負ければ死ぬ。
今は違う。
誰かを救う判断が、
別の誰かを見捨てる判断と紙一重だ。
「……戦だな、これは」
剣は要らない。
血も流れない。
だが一歩誤れば、確実に人が死ぬ。
俺はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
夜風が、少し冷たい。
南の方角。
建設中の町には、まだ灯りが点々と見える。
あそこには、今日も眠れない人間がいる。
——なら、止まっている暇は無い。
「集中しろ、エドワルド」
今はただ、保護民の対応だ。
考えるのは、その後でいい。
俺は机に戻り、新しい書類を一枚、引き寄せた。
同じ夜。
領主館の執務室では、蝋燭が静かに揺れていた。
私は王政から届いた文を、もう一度読み返していた。
「現在、王都および各領地において、大きな混乱は確認されていない」
……相変わらずだな。紙を机に置き、指で軽く叩く。
「混乱は無い、か」
言葉としては間違ってはいない。だが、事実を見ていない。
彼らの言う「混乱」とは、城門が破られ、暴徒が溢れ、火が上がる事だ。
だが実際は違う。
人は、飢えてもすぐに暴れはしない。
まず、黙る。
次に、耐える。
そして、限界を超えた時だけ——壊れる。
「……遅れて届く頃には、もう終わっているな」
商人経由で入ってくる話は、文面とは正反対だった。
村が痩せ、人が消え、嘘が嘘を守る為に重ねられている。
王政の目には、まだ“数字”しか映っていない。税。報告。帳簿。そこに人の顔は無い。
「エドワルド……」
ふと、息子の名が漏れる。
あれは、私よりも早く“気付いた”。
いや、正確には——
信じてしまったのだ。
自分の違和感を。私は椅子に深く座り直す。
「……若いが、間違ってはいない」
領主としては、危うい判断も多い。
だが今は、慎重さより速度が要る。
王政が正式に動く頃には、
こちらの対応は「既成事実」になっていなければならない。
「……ならば」
私は新しい紙を取り、筆を走らせた。
——王政宛てではない。
隣領でもない。
さらに外側へ向けた文だ。
「備えよ、という文は届かぬ。
ならば、こちらから“状況”を作るしかない」
噂も、物資も、人も。
全ては流れだ。
そして流れは、
作った者の意図とは別の場所へ辿り着く。
「……覚悟は出来ているか、王都よ」
私は静かに筆を置いた。
夜は、まだ深い。
だが——夜明けは、必ず混乱を連れて来る。




