数字が語り始める
最初に違和感として現れたのは、帳簿だった。
農務役人が、いつものように収穫見込みを書き付けていた時のことだ。
「……あれ?」
小さな呟き。
それだけで、誰も気に留めなかった。
同じ畑。
同じ作物。
同じ時期。
だが、数が合わない。
「測り直せ」
命じられ、再確認する。
結果は、変わらなかった。
「……増えている?」
言葉にした瞬間、役人は首を振った。
まだ早い。
誤差だ。
偶然だ。
そう片付けようとした。
◇
数日後。
別の畑でも、同じことが起きた。
大きな差ではない。
劇的な変化でもない。
だが、確実に――増えている。
「水量は?」
「変えていません」
「種は?」
「同じです」
「人手は?」
「普段通りです」
原因が、見当たらない。
役人は、帳簿を睨みつけた。
「……土か?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その言葉に、空気が変わる。
◇
報告は、伯爵のもとにも届いた。
「収量が、僅かに上がっている?」
「はい。特定の畑で」
伯爵は、帳簿に目を落とす。
数字は、正直だ。
だが、まだ判断材料としては弱い。
「天候は?」
「平年並みです」
「水害は?」
「ありません」
「害虫は?」
「例年通りです」
伯爵は、指を組んだ。
「共通点は?」
農務役人は、言いづらそうに答えた。
「……裏手の畑と、同じ処理をした区画です」
処理。
その言葉に、伯爵の記憶が動く。
土。
息子。
農夫。
「肥料か」
断定ではない。
確認だ。
「はい。あの時、試しに混ぜたものと、同じです」
伯爵は、ゆっくりと息を吐いた。
◇
畑を視察する。
派手な変化はない。
見た目は、ほとんど同じだ。
だが、近づくと分かる。
茎が太い。
葉の色が、わずかに濃い。
「……確かに、違うな」
農夫が頷く。
「収穫量が、増えてます」
「どの程度だ」
「一割、二割……場所によっては、それ以上」
伯爵は、数字を頭に置き換える。
一割。
それだけで、領全体なら大きい。
二割なら――なおさらだ。
「再現性は?」
「まだ、分かりません」
正直な答えだ。
伯爵は、それを評価した。
◇
夜。
伯爵は、執務室で一人、計算していた。
収量。
備蓄。
人口。
紙の上で、未来が少しだけ変わる。
「……間に合うかもしれん」
誰に言うでもなく、呟く。
不作の年。
凶作。
そこに、一割の余裕があるだけで、救える命は変わる。
◇
同じ頃。
俺は、畑の隅で、その様子を眺めていた。
誰も、俺を呼ばない。
誰も、俺に聞かない。
それでいい。
数字が出始めた時点で、
もう俺の出番ではない。
前の人生では、ここで俺が前に出た。
説明し、誇り、主張した。
結果、反発を生んだ。
今回は、違う。
帳簿が語る。
土が証明する。
人は、それを拾うだけだ。
◇
農務役人が、伯爵に言った。
「来年、区画を増やしても?」
「増やせ」
短い答え。
「だが、段階的にだ」
「承知しました」
慎重だ。
だが、否定はしない。
それで十分だ。
◇
夜、部屋に戻り、俺は布団に横になる。
胸の奥に、微かな安堵が広がる。
まだ、成功ではない。
ただの兆しだ。
だが――確かに、道は続いている。
時間は、相変わらず足りない。
だが、ゼロではない。
処刑台の高さを、俺は覚えている。
あそこに立たないために、
俺は今日も、前に出ない。
静かに、確実に。
数字が、俺の代わりに、語ってくれるのだから。




