低い処刑台
処刑台は、思っていたよりも低かった。
足元の板越しに、石畳がはっきりと見える。この高さなら、落ちても即死はしないだろう。いや、そんなことを考えている時点で、随分と冷静だ。
若き領主、エドワルド・フォン・グレイス。
反乱を招いた責任を問われ、本日処刑。
読み上げられる罪状は、すでに何度も聞いた。
重税、専横、民意の無視。
どれも、半分は事実で、半分は歪められたものだ。
俺は重税を課した。だが、それは領地の再建に必要だった。
専横と呼ばれた決断の多くは、評議が停滞した末のものだ。
民意を無視した覚えはない。ただ――聞くべき声を、選び間違えただけだ。
群衆の中に、知った顔がいくつもあった。
かつて改革に賛同した者。
何も言わず、目を伏せる者。
そして――最後まで、味方だと信じていた者。
彼は、俺と目を合わせなかった。
それだけで、十分だった。
縄が首に掛けられる。
思ったよりも、重い。
ああ、そうか。
俺は、ここで終わるのか。
恐怖はない。
怒りも、今さら湧いてこない。
あるのは、後悔だけだ。
もっと、やりようはあった。
急ぎすぎた。
信じすぎた。
正しいことをすれば、理解されると、本気で思っていた。
領主である前に、人を見なければならなかった。
制度を整える前に、関係を整えるべきだった。
床板が外れる。
視界が暗転する、その直前。
胸の奥に残ったのは、憎しみでも呪いでもなく、
「次は、間違えない」
という、静かな後悔だった。
――目を開ける。
見慣れた天井が、視界いっぱいに広がっていた。
……冗談だろう。
喉に手を当てる。
縄の感触はない。
呼吸は、普通にできる。
起き上がろうとして、違和感に気づいた。
身体が軽い。
関節が、痛まない。
鏡台へと向かい、震える手で鏡を見る。
そこに映っていたのは、処刑台に立っていた男ではなかった。
幼い。
疲労の刻まれていない顔。
エドワルド・フォン・グレイス。
グレイス伯爵家嫡男。
まだ、次代の領主と呼ばれる前。
夢だ、と言い聞かせようとして、やめた。
あの感触は、あまりにも現実だった。
首を締める縄の重さ。
床板が外れた瞬間の、内臓が浮くような感覚。
忘れられるはずがない。
だが――
耳に届いた音は、処刑場のざわめきではなかった。
風が木々を揺らす音。
どこかで、小鳥が鳴いている。
ゆっくりと、周囲を見回す。
木目の粗い梁。
簡素な漆喰壁。
記憶の奥底に沈んでいた、幼少期の部屋。
身体を起こそうとして、動きが止まる。
小さい。
手も、腕も、驚くほど細い。
布団を握る指先に、力が入らない。
……まさか。
跳ね起き、部屋の隅に置かれた水差しへ駆け寄る。
縁の欠けた金属の表面に、自分の顔が映った。
まだ、領主の重圧を知らない顔。
剣も、政治も、血の匂いすら知らなかった頃の――俺だ。
喉が、ひくりと鳴る。
年齢を、数える。
この部屋を使っていたのは、確か――十歳前後。
反乱まで、十年以上ある。
処刑台から、ここまで戻されたのか。
理解が追いついた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
やり直せる。
だが同時に、すべてを知っている。
父が、いつ倒れるか。
兄が、いつ戦地に送られ、帰らぬ人となるか。
不作が起こる年。
その後、各地で内乱が連鎖することも。
扉が、控えめに叩かれる。
「エドワルド様。朝でございます」
懐かしい声だった。
まだ若い、乳母の声。
「本日は、剣術の稽古と、午後からは家庭教師の授業がございます」
剣術。
胸の奥が、僅かに軋んだ。
剣を握ること自体は、嫌いではなかった。
だが――剣だけでは、何も守れなかった。
「……分かった」
声は、幼い。
だが、その内側で、確かに俺は生きていた。
処刑された領主としての記憶を抱えたまま。
布団を降り、床に足をつける。
冷たい感触が、現実を強く主張する。
これは夢ではない。
急ぐ必要はない。
いや――急いではいけない。
幼少期に戻った意味は、明白だった。
正しさを振りかざす前に、
信頼を積み重ねる時間が、与えられた。
誰を遠ざけ、誰を近くに置き、どこで線を引くか。
そのすべてを、今度は選び直せる。
処刑台の低さを、俺は忘れない。
あの高さが、俺の限界だった。
だから今度は、その台に立つ未来そのものを、作らない。
この二度目の人生で、
俺は、領主になる前からやり直す。
反乱が起きる前に。
血が流れる前に。
静かに、確実に。




