聖女は嗤う
中高一貫校である私立静帝学園には、『聖女』と呼ばれる女子生徒がいる。
春風美桜、高校三年生。
偏差値70の進学校にも関わらず、成績は常にトップ3内。スポーツ推薦の生徒にも匹敵する運動神経で文武両道。
さらに格式高い生徒会の副会長と、全国屈指の実力を有するダンス部の部長を務めている。どちらも十二分に役目を果たし、周囲の生徒を引っ張っている。
父親は日本有数の美容品会社の社長、母親は人気ナンバーワンの有名雑誌の元看板モデルだという。紛れもない良いところのお嬢様だ。
静帝学園は、スポーツも勉強もかなりレベルが高い、有名な金持ち学校。親が資産家や政治家……という生徒も少なくない。
そんな静帝学園でこれだけの好成績と肩書きを誇っている事実は、かなりのステータスだ。
その上、美桜はかなりの美人だ。色素の薄い髪はふわふわと柔らかく、長い睫毛に縁取られた同色の瞳は透き通るよう。白い肌に映える蜜桃色の唇は可愛らしく、スッと通った鼻筋は美しい。
華奢だが女性的発育に富んだ身体つきで、そこらの女子高生とは一線を画したスタイル。くびれた腰と細くて長い手脚は、一流のモデルに勝るとも劣らないだろう。
ステータスがものを言う静帝学園において、美桜は全校でトップクラスと言えるだろう。
しかし本人はそれを鼻にかけることもなく、誰にでも平等で優しい。
困っている人を見ればすぐさま手を貸し、成績に悩んでいる後輩には真剣に考えてアドバイスする。クラスメイトが怪我をすれば、優しく声をかけて保健室まで送り届ける。
家柄、成績、容姿、性格。その全てが完璧な美桜は、生徒たちから信頼と尊敬を込めて『聖女』と呼ばれて慕われているのだ。
廊下を歩けば歓声を上げられ、表彰されれば無数の賛辞をかけられる。
美桜はそれに照れたように笑いながら、謙遜するのだ。そうすると周囲はますます熱を上げ、彼女を褒め称える。
全て、彼女の計算通りに。
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自分の人生は常にイージーモードだと、彼女は完璧に作られた微笑みの裏で思う。
窓から差し込む春の暖かな日差しが、心地の良い眠気を誘うような昼休み。
クラスメイトたちの賑やかな笑い声の奥で、カトラリーが皿に触れる小さく硬質な音が響く。
教室なのにカトラリー、という突っ込みは決して生まれない。なぜなら金持ちの子供が多いこの静帝学園では、ありふれた光景だから。
誰かの持ってきたデパ地下の高級なパンのバターの匂いがほのかに漂って、直後に「美味しい」という声が生まれる。最近人気だという高級クッキーの香ばしい香りに釣られて、誰かの腹の虫が鳴った。
そんな中で自作の可愛らしい弁当箱を持参してきた美桜は、仲のいいメンバーでにこにこと昼食を摂っていた。甘い味付けの卵焼きを口に入れて、美味しそうに目を細めて味わう。
一緒に昼食を摂っていたクラスメイトの女子が、自慢気に笑いながら新商品のリップを見せびらかす。それに周囲の女子たちは、わざとらしく声を上げた。
「ねぇ、見てよ! これ、昨日から発売された【AIRA】の新色! パパが特別に取り寄せてくれたんだ〜!」
「え、『キラ・ラブ』シリーズの!? 超カワイイ!」
「あたしこれ欲しかったんだけど、放課後行ったらもう売り切れてたよ。わざわざ取り寄せてもらえるなんて、樹里亜ってば愛されてるね〜!」
「やだぁ、そんなことないってぇ!」
そう謙遜しつつも、表情には自尊心に溢れている。自分がクラスの女子の中心だと信じて疑わない顔だ。
すると女子の一人が「これ、美桜が付けたら絶対可愛いと思う!」と美桜に話を振る。
すぐに女子たちの目が微笑んでいる彼女に集まって、本人は急いで卵焼きを飲み込んだ。
「確かに可愛い色だね。パッケージも綺麗」
「でしょう? みんな売り切れてて諦めたっていうし、やっぱりこういうのは発売日にゲットしないとね〜!」
明らかな自慢に、何人かの表情が少し歪む。そんな彼女たちに勝ち誇った顔で鼻を明かす様は、あまり気持ちのいいものではない。
樹里亜の自慢話に嫌気がさしたのか、「美桜ちゃんはどんなメイクが好き?」と話を遮るように質問された。
細い指を顎に当てて少し考えて、美桜はにっこりと答えた。
「わたしはあんまり華やかなメイクは得意じゃないから、清楚系メイクかな。派手すぎない感じが好きなんだ」
穏やかに発せられるその声は春の小川のように澄んでおり、聞く者の耳に心地よく響く。慈愛さえ感じる優しげな笑みは、一切の穢れもない。
「やっぱり美桜ちゃんはそっち系かぁ!」
「ウチの学校で一番美人だもんね。清楚系メイクとか絶対見たーい!」
「今度一緒にショッピングしようよ〜!」
他の女子たちが便乗して、あっという間に話題は美桜に移った。穏やかに微笑む美桜に、みんなきゃあきゃあと話を膨らませる。
「てか言い忘れてたけど、ダンス部って関東大会優勝したんでしょ? おめでとー!」
「次は全国だよね? あたしらみんなで応援行くから!」
「ありがとう。期待を裏切らないように頑張るね」
嬉しそうにはにかんで礼を言った美桜に、可愛い可愛いと声が上がる。それに「もー、やめてよー!」と楽しそうに返すと、どっと笑いが起こり、和やかな空気が流れる。
「なあ春風ー。お前あの山村振ったってマジ?」
不意に近くにたむろっていた男子のグループの一人が美桜に声を掛けてきて、ぱちりと目を瞬かせる。男子が口にしたのは、美桜と最近仲のいい高等部一年生の名前だ。
「え、一年のイケメンくんじゃん! なんで振ったの?」
「だって……山村くんは仲のいい後輩だったから、そういう目で見れないっていうか……。それに山村くんなら、わたしより可愛い彼女を作れるかなって」
「ちょ、それ本気で言ってる?」
「春風より美人な子とか見たことねぇよ!」
「ふふっ、ありがとう。でも、わたしより可愛い子なんて星の数ほどいるよ、絶対」
「いや、これマジだって!」
最近美桜に気があると噂の中谷が真剣な顔で言うと、流石の美桜も照れて顔を赤くした。もじもじと膝を擦り合わせて、熱くなった頬を冷ますようにパタパタと扇ぐ。
(((可愛い……)))とその初心な姿にクラス中がほっこりしていた時、ボソリと悪意ある声が響く。
「どうせ内心では男に点数付けてんでしょ。猫被り女ってホンットやだ」
クラスの中心という目立つポジションを奪われた樹里亜が、嫉妬に満ちた声色で苛立たし気に吐き捨てる。常に自分が優位に立っていないと気が済まない彼女は、憎々し気に美桜を睨む。
いきなりのことに息を呑んだ彼女を、仲のいいクラスメイトが守るように背に回す。
人気者の美桜の悪口を言って敵に回すのは、彼らだけではない。クラスだけでなく、場合によっては学校全体を敵に回すということを、樹里亜はわかっていなかった。
「……は? 樹里亜、美桜に僻んでんの?」
「さすがにヤバいわ、榎本。やめろよな」
「事実だよ。みんなも騙されてるんだって! ほらぁ、こんな状況なのに笑ってるしぃ。現実見なって」
「そんな……わたし、そんなんじゃ……点数なんて、そんなの付けてないよ……!」
「どーだか」
ハッと鼻で笑うようにあしらわれて、美桜は傷ついたように身を縮める。容赦なく叩きつけられる悪意に目を伏せて、震える唇で必死に罵倒を否定する。俯いた拍子に髪がかかって、顔に憂げな陰を作った。
普段の穏やかな様子とは違う庇護欲を掻き立てる姿に、クラスメイトたちの怒りがさらに煽られる。
一層鋭い視線が樹里亜に突き刺さるが、彼女はわざとらしく興味をなくしたように爪を弄ってそれを無視する。それに悲しそうにきゅっと唇を噛む美桜に、女子の一人が背を優しく撫でてくる。
本格的に空気が険悪になりかけたところで、ちょうどピンポンパンポーンと放送が入った。
一瞬の間を挟んで、耳心地の良いテノールがクラス中に響く。
『あー、あー……ヨシ。春風美桜、春風美桜。今すぐ生徒会室まで来るように』
それだけ言ってプツッと切れた放送。呼び出された美桜は目を瞬かせて、これ幸いとほっと息を吐く。
急いで弁当箱を片付けて、申し訳なさそうに眉を下げて笑いながら席を立った。
「みんな、ごめんね。呼ばれちゃったから……」
「いいよいいよ、謝らないで!」
「はやく行っておいで〜!」
暖かな送り出しに「ありがとう」とお礼を言って、突き刺さる視線を振り切るように勢いよく教室を飛び出した。
廊下に出た瞬間、有名アイドルにでも遭遇したような歓声が上がる。それは、美桜がそれだけの人気を博しているという証明に他ならない。
飛び出しは勢いが良かったが、途中で我に返って歩調を緩めた。急いだことを恥じるように頬を桜色に染めて、ゆっくりと歩む。
そんな彼女すれ違った生徒たちから、嬉しさと尊敬が混じった歓声が上がる。
「きゃーっ、美桜先輩! 今日もめちゃくちゃ美人ですぅ〜!」
「この間のテスト、また学年一位だったって聞きました! 今度勉強教えてくださーい!」
「春風先輩、今日もお美しいっす! また差し入れ、楽しみしてるっす!」
「春風さん、マジ聖女だわ。あー、一度でいいから付き合ってみてぇなぁ」
男女問わず掛けられる声に、美桜は恥ずかしいような嬉しいような顔ではにかむ。向けられる親愛に小さく手を振ると、一際大きな歓声が廊下中に轟いた。
それにまた恥ずかしそうに視線を逸らして、足早に廊下を抜ける。人気がなくなってくると、目指していた扉が見えてきた。
辿り着いた大きな扉の前で、ふーっと息を吐いて呼吸を整える。長い睫毛をゆっくりと上げて瞬きする様は、神に祈りを捧げる聖女のようにも見えた。
それはこの部屋に入る前の、美桜のルーティーンのようなものだった。
コンコンとリズム良く音を立ててノックして、見た目よりも軽い扉を開ける。
途端に紙と香水の香りが鼻腔を刺激して、嗅ぎ慣れたそれに目元を緩めた。
その部屋の中心、美しい装飾の一番大きな机に乗せられた書類の山を高速で捌いている人物は、書類の隙間から顔を覗かせて入ってきた美桜を見た。
「ああ、春風。悪い、ちょっと待っててくれ」
「はい、会長」
穏やかな返答に、その人物はさらに速度を上げて書類を捌いていく。早すぎてもはや残像さえ見えていた。
百はあった書類は1分ほどで姿を消した。すっきりした机と同じ装飾が施された椅子に、静帝学園の高等部生徒会長が腰掛けていた。
癖のない黒髪に、切れ長の黒目は女子から“クールでカッコいい”と称される涼やかさ。恐ろしささえ感じるほどに美しく整った顔立ちには、ほんのりと淡い笑みが浮かんでいる。
彼の名は荒木玲琳。美桜の同級生であり、この生徒会室の絶対的な王。つまりは生徒会長だ。
玲琳は、美桜がどこか一点をじっと見ながら小首を傾げていることに気づいて不思議そうな顔をした。それに気づいた美桜は、慌てて表情を元に戻して笑う。
「春風、どうした? 何考えてたんだ?」
「んー……内緒ですっ」
そう言って唇に人差し指を立てる様子に、玲琳も小さく笑った。まるでこれからイタズラを仕掛けようとする悪戯っ子のような、茶化した雰囲気だった。
それに「内緒なら仕方ないな」と簡単に引き下がる玲琳は、校内でも「美桜に甘い」とよく言われている。
以前女子の間で「実は二人は付き合ってるんじゃ」という噂が流れて、その火消しに苦労したことは記憶に新しい。面倒になった玲琳が否定も肯定もせず微笑んで終わらせてしまっていたことも、その一要因だった。
「それで会長。何かご用ですか?」
「ああ、いや、用と言えるほどのことではないんだが……」
玲琳は急に歯切れを悪くさせて、視線をあちらこちらに彷徨わせる。それを首を傾げつつも黙って待って十数秒。
何かを決意したように目に強い光を宿した玲琳は、微笑む美桜に一歩近づいた。
それに怖気付いたように一歩後退すると、また一歩詰めてくる。もう一歩下がろうとすると、背に硬い感触が当たった。扉に追い詰められたと悟って顔を上げると、トップアイドルも裸足で逃げ出す顔面が迫っていた。
息を呑む美桜に、玲琳は美しく笑った。微笑みを浮かべることさえ珍しいと言われる彼の笑顔に固まる。
玲琳はその耳元に薄い唇を寄せて、戯れるように息を吹きかけた。
「ひゃ、あ……っ!」
上擦った声を上げて顔を真っ赤にする美桜に、玲琳は愛おしそうな視線を向ける。
それを理解できているのかいないのか、美桜は少し涙目で反抗した。
「な、何するんですか会長……っ!」
「玲琳」
「は、い……?」
戸惑う美桜に構わず、腰を低くしてさらに顔を近づける。唇が触れるか触れないかという距離で、形の良い耳に甘い声を落とした。
「玲琳、と呼んでくれ。会長は嫌だ」
「きゅ、急に何ですか? 会長は、一体何を言って」
「玲琳、だ。なぁ春風。俺はずっと我慢していたんだ」
「我慢……って」
もはや美桜の顔さえ見ずに、玲琳は囁き続ける。その時の彼女の顔を見ていれば、きっと彼の愛の囁きは止まっていただろう。
だが幸か不幸か、彼は想い人の顔を一切見ずに告げる。
「春風……いや、美桜。俺は、お前のことが――――」
「失礼しまぁすっ」
玲琳にとって一世一代の告白のまさにその瞬間、生徒会室の扉が開いた。
当然の如く、扉に背を預けていた美桜の体は倒れていく。
それを抱き留めたのは玲琳ではなく、生徒会室の扉を開けた華奢な男子生徒だった。
抱き留められた美桜は、聞き慣れた声に顔を上げる。
「あーっ、美桜ちゃんいたぁ!」
「音夢……? なんでいるの?」
予想外の人物の登場に、体勢を立て直した美桜が目をぱちぱちさせながら、ほとんど独り言のように言う。
その問いかけにふわりと嬉しそうに破顔する様は、とても可愛らしい。
鳳音夢、高校一年生。
きゅるんとした瞳はわずかに潤み、見る者の庇護欲を唆る。クリーム色の髪をハーフアップにして団子にまとめているせいか、女子に間違えられることもしばしば。中性的な顔立ちは、可愛らしく整っている。
身長は平均だが男子高校生とは思えないほど華奢な身体つきは、その甘い笑みと合わさって、繊細な飴細工のような儚げな雰囲気だ。
彼は女子の間でよく「可愛い」「甘やかしたくなる」と評判の美少年であり、『天使』の呼び名を持つ美桜の幼馴染である。
困惑している美桜に甘えるようにくっつきながら、音夢は蕩けるような笑みを浮かべた。その笑顔は紛れもなく天使のそれ。誰であっても警戒心を解いてしまうような可憐さだった。
「美桜ちゃんに会いたくて来ちゃったんだぁ。あ、ボク、ちゃんと補習出たよ。えらい? えらいっ?」
「……ふふ、そっか。うん、えらいよ」
「じゃあ撫で撫でして〜」
んっと差し出された頭を撫でながら、美桜はしょうがないなぁとでもいうかのような苦笑を浮かべる。こういう甘え上手なところが女子には人気、と前に聞いたことがあるが、なるほど確かに人気にもなるだろう。
しばらくヨシヨシされていた音夢だったが、不意に玲琳に気づいてぱっと顔を明るくさせた。
「わぁっ、会長さんだぁ! こんにちは!」
「……ああ、鳳くん。生徒会室の扉を開ける時はノックするように」
「えへへっ、ごめんなさ〜い」
今更存在を察してもらえた玲琳は、大切な告白の時間を遮られた不満はあったが、天使の笑顔を前にどうでもよくなった。わしゃわしゃとかき混ぜるようにその頭を撫でる。
ふふふーとそれを受け入れる音夢を見て、美桜ははっと思い出した。
そう言えば、自分は玲琳から何か言われかけていたのに、音夢に邪魔されてしまったのだった。
「あの、会長。わたしに何か言おうとしていたんですよね?」
「ん? ああ、うん」
話しかけられた玲琳も、そう言えばと思い出す。音夢の登場がインパクトありすぎて、すっかり忘れていた。
どうしようかと悩むも、もうそんな雰囲気ではない。それに第三者がいる場所での告白など、彼女は望まないだろう。
「いや、なんでもない。また今度言うさ」
「……そうですか? わかりました。では失礼しますね」
「ああ」
「会長さん、ばいば〜い」
首を傾げながらも美桜は退室し、音夢もぶんぶんと手を振りながら出ていく。扉が閉まる直前、美桜に「上級生には敬語を使わないとダメだよ」と諌められていたのは、きっと見間違いじゃないだろう。
生徒会長しか座れない椅子に腰掛け、肘置きに頬杖をつく。目を閉じてゆっくりと息を吐き、小さく呟く。
「……鳳くんは、エアクラッシャーだな。まぁ、天然なところがあるから何も言えないけど」
背もたれに寄りかかった拍子に、ギシ、と木製の椅子は乾いた悲鳴を上げた。
◇◇◇◇◇
帰路に着いた美桜と音夢は、それはそれは和やかな会話をしていた。通行人全員を例外なく穏やかな笑顔にさせるほどに和やかだった。
周囲には可憐な花が咲き乱れ、ぴよぴよと小鳥がさえずるような、一線を画す空間だった(by通行人A)。
「ねぇ美桜ちゃん。ボクって可愛い?」
「どうしたの急に? 可愛よ」
「ほんと〜!? じゃあさじゃあさ、宿題の答え教えてーっ」
「それはだぁめ。一緒に考えてあげるから、頑張ろ」
「むぅ、このくらいの可愛さじゃ無理かぁ。頑張る〜」
和む。すっごく和む。二人とも容姿が整っているから余計に。
そして通行人は全員例外なく、お金持ちの集まる住宅街二人が入っていく様子に「???」と首を傾げ、最終的に夢だったんだなと結論付けた。なぜならその住宅街は、桁外れなお金持ちが多いことで有名だったから。
そんな彼らの美しい光景に、ご近所さんの田中のおばあちゃんはあらあらと微笑みながら声をかけた。
おばあちゃんと言っても、まだ初老で小綺麗な女性だ。藤色の帯を締めた着物を着て、上品に口元に手を当てている。
「まあまあまあ! 美桜ちゃんに音夢くん、相変わらず仲良しさんねぇ。よかったら上がっていかない? シュークリームもあるわよ」
「しゅーくりーむーっ!」
「こんにちは、田中のおばあちゃん。これから勉強会なんです。ごめんなさい」
「いいのよそんな。美桜ちゃんは本当にしっかり者ねぇ。あ、じゃあお家で食べてシュークリーム。どうぞ」
「ありがとうございます。大事に頂きますね」
「おばあちゃんありがとー!」
丁寧にお礼を言う美桜と無邪気な音夢に、田中のおばあちゃんは上品に指先を揃えながら手を振って見送ってくれた。いつかああやって歳を重ねたい、と近所の大学生が憧れを抱くのも納得な気品だ。
もらった高級シュークリームの袋を抱え直して、すれ違った顔見知りの男性に会釈する美桜。音夢はその腕を握って、はやくはやくと彼女を急かす。
よっぽど早くシュークリームが食べたいらしい。はいはいと笑って少し足を速くしてやった。
着いた家は、一般的な家庭の敷地の十倍はあるような豪邸だ。コンクリートを切り出したような外観の三階建で、広い庭には美しい花々が咲いている。
黒い門扉がつるりと太陽を反射して、門柱の上に留まっているガラスの小鳥を明るく照らした。
二人が門扉に近づくと、顔認証機能が作動して自動的に開いた。庭にある真っ白な噴水が水を噴き上げ、主たちの帰還を歓迎する。
最先端の技術が搭載されたこの家に住んでいるのは、美桜と音夢の二人だ。
幼い頃から仲の良かった二人は、双方の親が海外に行くことになった時、この家で同居を命じられた。
以降は特にトラブルもなく、幼馴染水入らずの生活を送っている。
薔薇の紋様が彫られた扉を潜って中に入ると、白を基調とした洗練された空間が広がる。
それに一切目をくれず、二人はリビングへ直行する。いくら綺麗な空間でも、毎日過ごしていれば慣れるものだ。
美桜はガラス製のテーブルにシュークリームの袋を置くと、今まで上品に持っていた鞄を床に乱暴に放り投げる。ぐしゃりと前髪を握るように上げる様子は、学園では決して見せない粗暴さだ。
ベージュのソファに腰掛けて、ふー……と何かを抜くように深く息を吐いた。
「あー…………だる」
そこにはもう、優しくて清らかな『聖女』はいなかった。
自らの手で胸元を緩める様は、学園での様子からは想像もできないほど気だるげで、息を呑むほど蠱惑的だ。
その美貌を彩るのは、慈愛を感じる優しげな微笑みではない。
癖のある、全てを見下すような笑み。己に跪かぬ者は切り捨てるというような、嘲りを含んだ鋭い眼差し。
唇の端だけ吊り上げるように笑うその表情は、悪魔のように歪だった。
「ザコの相手って、疲れるわァ」
その言葉を聞いた音夢は、シュークリームを取り出しながら「わかるぅー」と同意を示した。
「いっつも馴れ馴れしく『可愛い可愛い』言ってくるけどさぁ、自分たちが話しかけてる相手はお前ら如きじゃ釣り合わないってことに、どうして気づかないんだろーね? はい、シュークリーム」
「んー」
ケラケラ笑いながらシュークリームを頬張る音夢に、あの天使のような可憐さはない。そもそもそんなものは、存在しないのだ。
簡潔に言うと、美桜の『聖女』としての清純な姿と音夢の『天使』としての可憐な姿は、全部演技なのである。
学園ではそれぞれ良い子を装っているが、その本性は決して“良い子”とは言えない。
『聖女』としての立場を守るために、美桜はいつも教師を誘惑してテストの解答をカンニングしているし、ダンス部の大会で当たる強豪校に嫌がらせして、辞退に追い込むことだってある。
他人の不幸が何よりも好きな音夢は時々気に入らない相手を陥れて遊んでいるし、美桜の不正を手助けすることもある。
美桜はかなりの性悪で、音夢は計算高い腹黒。もし本性を晒せば、きっと今すぐにでも世界中から叩かれるレベルだ。
幼い頃から親にさえ良い子の皮を何重にも被っていた二人は、ある日偶然お互いの裏の顔を共有することになった。それ以降二人は、教師に毒を持ってテストを延期にさせたり、一緒に気に入らない奴を陥れたりと、仲良く交流を図った。
親たちの海外赴任は、美桜と音夢にとって嬉しいことだった。巧みに双方の親を説き伏せて、見事に同居の許可を取り付けた。
ゆえに家ではこうして、ありのままの姿をしている。学園では一秒も皮を脱げないので、家での反動は大きい。
「ねぇねぇ美桜ちゃんー。シュークリーム食べるの?」
「一口だけね。味の感想を言わないとだから」
美桜は面倒臭そうに言いながら、ブラックコーヒーの入ったカップを持ってキッチンから戻ってくる。
漂う匂いに、音夢が「相変わらず意味わかんないの飲んでるねぇ」とコメントした。彼は甘い物以外は口にしない、かなりの偏食なのだ。コーヒーなんて悪魔の飲み物、受け入れるはずがない。
美桜は苦党で辛党だ。甘いものは口に入れるだけで気分が悪いし、『聖女』のキャラを被っていなかったら、弁当の卵焼きの味付けを絶対に甘くはしない。いつも内心吐き気を堪えながら食べている。
美桜は湯気が立つカップに唇を寄せて、舌の上でその黒い液体を転がす。途端に強烈な苦味が弾けて、うっとりと目を細めた。
「おいしー……。ねぇ音夢、なんかコスメ届いてない?」
「特にないよー?」
その返答におかしいなと首を傾げる。記憶の通りなら今日の午前中に、宅配便が届く予定だったはずなのに。
(なんで? 記憶違いじゃないし、何かトラブルとか……あ)
そういえば、と思い出す。
最近妙に突っかかってくる榎本樹里亜とかいう女は、宅配会社の社長令嬢だった気がする。多分。興味がなさすぎて詳しくは覚えていないけれど、なんだかそんな気がしてきた。
もしかしてこれは、美桜に対する嫌がらせだろうか。正面切って戦えないから、裏で陰険な嫌がらせでも始めたか。
「ええー……うっざ」
なんだか美桜は、気持ちの悪い蠅がぶんぶんと顔の近くを飛び回っているような、どうしようもなく不快な気分になった。
あの女のことだ。どうせいつも注目を浴びている美桜に嫉妬して、こんな意味のない不快な嫌がらせをしてきたのだろう。
馬鹿だなぁ、と思う。
そもそも樹里亜と美桜は同じ舞台に立つことすらできないのに、嫉妬なんて烏滸がましいことをするなんて。
そしてその罪深さを自覚せず、あまつさえ嫌がらせだなんて。いっそ憐れなほど頭が悪いなと同情してしまう。
「………………」
シュークリームの包装を破り捨てながら、美桜はどうしたら憐れな小娘に現実を教えてやれるか考える。
立場を弁えるという当然のことができないなんて、この世界では致命的だ。早急に克服しなければ、彼女は遠からず破滅するだろう。
そこまで考えて美桜は少し笑った。嫌いなシュークリームが目の前にあるのにと、珍しいものを見るような目で音夢は思った。
「ねぇ、音夢。わたしってすっごく優しいね」
「え〜? 頭でも打った?」
皮肉混じりな声に弾けるように笑って、「だってそうでしょ」と彼女は言った。
「あんな蠅女のために、わざわざ時間と労力を割いて考えてやってるんだもの。ね、優しいでしょ?」
「アハ、自画自賛〜」
ぺろりと頬についたクリームを舐め取った音夢は、華奢な腕を伸ばして美桜を催促する。
存在を思い出したシュークリームを口元に持ってきて、軽く齧った。
「やっぱりあの蠅女、つーぶそ」
甘ったるい。そんなことを思いながら、美桜は差し出された手に残りのシュークリームを押し付けた。
呼んでくださって、ありがとうございます!
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