第1話 風薫る
駅からは少し離れた、住宅街の一角。
『はっぴぃ』という喫茶店がある。白髪混じりの壮年の男性,羽田幸司が一人で切り盛りし、客席はカウンターに5席と2人がけと4人がけのテーブルを2組ずつおいただけの店だ。昔は店の中央にどでかいテーブルを設えて、団体客も座れるようにしていたが、今はだいぶ静かになった。5年前に近くの小中学校が相次いで廃校になったのも影響している。
開業して20年。よく続いたものだと、自分でも思う。
「……剥がせねぇなぁ、あれは」
カウンターの中から、往来を見つめる。窓ガラスの隅の四角い影は、【こども110番】の標識シールだ。
開業当初は純喫茶で、軽食とケーキ、珈琲と紅茶しかない店だったのに。
ある夏に、学校帰りのガキンチョの団体が水を求めて来たのをきっかけに、ミートボールだのハンバーグだの唐揚げだの、挙句の果てにはラーメンやチャーハンまで提供する、飯屋と化したのだ。
「よ、大将!塩ラーメン、大盛り」
今日もドアベルの音と共にそんなオーダーが飛ぶ。
じゃっじゃっと麺をふるい、幸司は
「誰が大将だ、マスターだっつってんだろ」
カウンターに座る顔馴染みのサラリーマンに、ラーメンを出してやる。
そこへもう一人、若い男性が静かにやって来た。
……彼は少し迷ってから、カウンターの、壁に面した席に居心地悪そうに座る。
「決まったら、お声がけくださいね。ごゆっくり」
幸司はお冷やとおしぼりを彼の前に置いて、カウンターに戻る。
サラリーマンは、薄い唇を脂と出汁に濡らしながら、ずぞ、ずぞぞ、と細い縮れ麺を啜りあげ、バカでかいチャーシューにかぶりつく。
ラーメンのスープを一滴残らず飲み干して
「やっぱり美味しいなぁ、ここのラーメン。ナルトじゃなくてかまぼこ入ってんのちょっとおもろいし」
と笑う。
「こら、塩分に気をつけろや」
お冷を継ぎ足してやりつつ、幸司は呆れる。ラーメンをさっさと平らげたサラリーマンは「俺はまだ若いんで!」と生意気に笑いながら帰っていった。
仕事の昼休憩、週に1度はここでラーメン、と決めてくれているのだという。
ちなみに今日は4月末の金曜日、大型連休の中間に挟まった憎き平日だ。
そんな日にうちのラーメンを選んでくれたのがちょっと嬉しい幸司である。
サラリーマンが居なくなると、後から来た客は、カウンターの真ん中の席にいそいそと移ってきた。まるで、ここが自分の定位置とでもいうように。
「お残しする子は大きくなれないっていったの、大将でしょ。オレ、はっぴぃラーメン、大盛り!」
「誰が大将だ、全く」
幸司は笑い、湯に麺を投じる。
「あいよ、」
かまぼこ2切れとチャーシュー、わかめ、メンマ、ネギの乗ったシンプルなラーメンだ。
「ラーメンにはかまぼこが当たり前って言ったの俺らだよね。懐かしいなぁ」
彼はかまぼこをつまんで、ぽいっと口に入れて唸る。
「この辺の学校給食は、ラーメンといえばかまぼこだぞ。さっきのリーマンは、ここが地元じゃねぇな?」
もぐもぐしながら一人でぶつぶつ言い、麺を啜る。幸せそうに目を閉じ、チャーシューを口いっぱいに押し込んでいる。
「べそかきの、ナオ坊がなぁ……」
カウンターから、ラーメンをがっつく青年を眺めて幸司は目を細めた。
「おっちゃーん!助けてぇぇ」
熱中症だろうか、ふらふらしている同級生を抱え、ランドセルを背負った子どもたちが泣きながら店に来たあの夏を、昨日のことのように思い出せる。
ラーメンを食べ終えた青年は、ゆっくりと店内を見回した。
「……アイス珈琲と、季節のケーキ……、苺のムースケーキって、今もある?」
帰り難いのか、青年は珍しくデザートを頼もうとする。
ケーキ一切れか、ラーメン一杯。そのどちらかだけを注文し、学校帰りから20時の閉店まで居座っていたクソガキが、しばらく見ぬうちに随分と大人になったものだ。
幸司は内心面白く思いつつ、冷蔵庫を開けて答えた。
「ムースケーキ、やめたんだよ」
それに青年が頓狂な声をあげる。
「えぇー!? 俺たちのはっぴぃむーす、やめちゃったの!?」
「もう5年前にな」
青年が大学受験そして学生生活で忙しく、店に来ていなかった頃だ。
俯いてしまう青年に、幸司は淡々と言う。
「今はクッキーのほうが扱いが楽でなぁ。あぁ、プリンとベイクドチーズケーキならあるぞ。季節のケーキは、苺入りのパウンドケーキだ。あとはアイスクリーム」
「カボチャのムースも、クリームパンケーキもないのかぁ……」
青年は壁の黒板に貼られたメニューの、“季節のケーキ”の文字を淋しげに見る。
「パンケーキは、うちでは3年前に絶滅しましたねぇ」
銀色のタンブラーに、氷をからりころりと入れ、珈琲を注ぐ。
「ベイクドチーズケーキ、お願いします」
「あいよ」
皿には苺のアイスクリームを一掬い、特別に添えてやる。
「アイスはおまけだ、ムースケーキの詫びと思って受け取ってくれや」
「へへ、……はっぴぃ部みたいだ」
青年の顔に、子どもっぽい笑みが広がる。
今と違って、まだ学童保育も、安価な飲食店も充実していなかった頃だ。
夏に助けてやってから、子どもたちは放課後に「ここ、オレらの部室な」「はっぴぃ部は、毎週金曜な」などとワイワイ言いながら店に来るようになった。
どうやら近隣の鍵っ子たちのたむろ場として定着したようだ。
その常連チルドレン,“はっぴぃ部員のメンバー”にタダで水を飲ませてやり、破格の値段でジュースを出してやったりもした。公立中学にあがると、なけなしの小遣いを握りしめて飯を食うようになった彼らに、幸司は、季節のアイスをほんの一匙、サービスしてやっていた。そして育ち盛りの彼らのために、安価なフードも増やしたのだ。そして「はっぴぃ部」は弟妹や他学年たちに引き継がれ、その親たちも一時はちょっとした外食感覚で来てくれていた。
もっとも今では、子どもたちは駅前のファストフードやファミレスにたむろしているようで、「はっぴぃ部」は部員が集まらずに、数年前に自然廃部となった。
ケーキとなつかしのサービスアイスをゆっくり味わうと、青年は寂しげに笑った。
「じゃぁ。おっちゃん。お世話になりましたッ!」
「あぁ、元気でな」
青年になった“ナオ坊”は、この春に就職し、通勤の利便を考え、都市に住むことになったのだという。
今日は、引っ越し最終日に、わざわざ顔を見せに来てくれた。
「若ぇもんは街を去り……そして皆はこの世を去る、か」
店の奥の、一組の低いソファとコーナーテーブルは、最近、客席としての役目を終えた。今はただのインテリアだ。正直、場所を取るが、それでも捨てがたい。
「どの店も、テーブルも椅子もわたしにはデカいよ」と文句を言っていた小柄なお婆さんは、5年前に施設に入り、この冬に亡くなったと聞く。
その帰りを待つようにずっと、入口近くの窓際に置いていたので、色褪せが著しい。
「どうするかねぇ……」
二度買い替えた調理機器も、ガタが来始めている。
「幸司はうちの専属パティシエね!あとはバリスタを雇って、素敵な喫茶店にしよう」
そう語っていた姉は……出産時に不運にも赤子ともどもこの世を去った。義兄も、もう10年、音沙汰がない。幸司の姉の、結婚式と葬儀で会っただけの彼も、その命日にはこの店に来てくれていたのに。
確かに自分は、姉の死を引き摺らないでくれと義兄に言ったが、たぶんきっと再婚し、……もうこの店に来ることはないだろう。
「……いつまでも、姉の夢をみてやることもねぇか」
柱に貼った、自分の名の記された製菓衛生師・食品衛生管理者のプレートを見つめる。
「初代はっぴぃ部部長のナオ坊も居なくなったわけだし、繭婆さんも居ねぇ」
一昨年に痛めて軽く手術した膝を擦りながら、幸司はカウンターの隅においた丸椅子に座ってため息をつく。
今は駅前に小洒落たチェーンのカフェも出来た。地元の子どもも年寄りも減っていき、僅かな客は今どきの華やかなフラペチーノだとかを出すカフェに流れていってしまった。
珈琲豆を詰めた瓶の横、小さな額縁に入った“夢見手舎”と書かれた小さなメモを見つめ、そっと撫でた。
「タカさんも、いねぇしなぁ……」
小鳥遊 貴央。
出会った時には既に在宅編集者として忙しく働き、自立した女性だった。
ある夏に、彼女は初めて店に現れた。
グレーのパンツスーツ、肩に届くかどうかの長さに切りそろえた黒髪。眼鏡の細いフレームの色は緑。
一目で、かっこいい女性だな、と幸司は思った。普段来る客は、年寄と近所のママさんと、子どもたちばかり。
スーツを着た女性が連れもなく来店することは滅多にない。
女性の前に入ってきた小学生3人が口々に
「おっちゃーん、お水ー!」
「なー、外あっちぃよー、オレ溶けるぅ」
「みずみずみずーーー!」
と騒ぐのをあしらいつつ、
「いらっしゃいませ」
カウンターの隅の席に座った彼女へお冷やを出したら、軽い会釈と共に
「『はっぴぃ』っていう店名は、羽田さんの愛称か、それとも幸せという意味のハッピー……あるいは、幸司さんの“幸”の字が由来ですかね」
そう鋭い眼差しで言い、名刺を差し出してきた。
仕事の息抜きか取材の下見か何かで『はっぴぃ』を訪れたようだった。
だが、杖をついた年寄りが帰るときには戸を開けてくれたり、子どもがテーブルに放り出したランドセルを、邪魔にならないよう、隅の方に集めてくれたり、さり気ない心遣いが、独りで店を守る幸司には嬉しかった。
貴央も、地元の憩いの場としての『はっぴぃ』を気に入ったのか、週に1度は来てくれた。
3度めの訪問の時だったか、
先週はなかったでかいテーブルと、そこに我が物顔でたむろする小学生の団体にちょっと驚きつつ、いつもの珈琲と季節のケーキを注文した。
「今日もうるさくてすみません。近所の小学生でね。カネもねぇのにジュースせびるんですわ」
呆れつつ幸司が言えば、貴央は真面目に応えた。
「お前ね。此奴らがここを頼るのには、ちゃんと理由がある。安全で、安心できるからだ」
彼女の、子どもたちへの眼差しの柔らかさに
幸司は少し惹かれていた。
ある日、
「そうか、かぼちゃのプディングは売り切れ、このまま今年は終売か」
貴央は少し残念そうに言い、その日はパンケーキを頼んだ。
「……あの、よかったら。いらっしゃる日はここに連絡してください」
幸司は思い切って、自分の私用のメールアドレスとトークアプリのIDを渡した。
「おや、連絡をすればケーキを一切れキープしておいてくれるのかい?」
貴央は笑って言った。
しかし翌週、そしてその翌週も貴央は来ず、もちろん連絡もなくて、幸司は落胆した。
客に惹かれて私的な関係を願うなんて、と悔やみながら、幸司が新しい季節のケーキの作っていたとき。
トークアプリで、未登録の相手から連絡が入った。
「今日は伺う」
ID名はno_takataka_o,たかなしたかおであった。
そして、店に来るたびに、貴央はあれこれ好き勝手に言った。
「子ども達がこんなに集まるなら、いっそのこと、子ども110番の申請をするのはどうだ?学校公認の溜まり場になる」
「店の経営のことは門外漢だが、……ラーメンやハンバーグは好きな子どもも多いだろうな。ファミレスのお子さまメニューで馴染みもある」
「そろそろ、お冷やが水でなくぬくい麦茶だと嬉しい」
それらを試していくうちに、『はっぴぃ部』のための飯屋になったのだ。料理のレシピは、彼女がくれたものがベースになっている。
本当に近所で不審者騒ぎがあったときは、被害にあった女児が『はっぴぃ部』の児童に連れられて店に逃げ込んできて、居合わせた貴央が女児の面倒を見てくれたし、保護者が来るまでの間、警察からの聴き取りなどにも付き合ってくれた。
「すみません、お客に手伝わせて」
謝る幸司に貴央はふっと笑った。
「水臭いな」
そうして月日が過ぎたある日。
彼女は言った。
「幸司。お前、いつか自分の店を持つのか?」
幸司は、ここは元は姉が開いた喫茶店で、自分は製菓学校でケーキ作りを学んだ身だと、既に彼女に話していた。
店名は、はねだの愛称の“はっぴぃ”から姉が決めたということも。
そして
「自分の店は……、ケーキを売る店か、なかで食わせるかは決めてねぇけど、いつかはな。ここで色々学ばせてもらってるよ」
子どもや客の前ではそう言った。
その夜。幸司の家のキッチンで貴央がナポリタンを作る後ろ姿を、幸司は幸せな気持ちで眺めていた。
「誰かが一緒に家にいるって、いいなぁ」
幸司は、貴央のナポリタンに舌鼓をうち、食後は色々と愚痴を零した。
新婚の姉の妊娠と旦那の突然の転勤で、開業当初からワンマン経営を強いられて流石に疲れきっていた。
「俺も、いつかは姉貴みたいに結婚して、子ども持ちたいなぁ。一姫二太郎って言うしなぁ……」
そして、貴央に慰めてもらって気持ちをすっきりさせた。
姉が無事に子を生み、数年経って店に立てるようになったら。
俺は独立して店を持ち、この店にもケーキを卸そうと思う。
幸司は、貴央にそんな将来設計を語った。
一くさり愚痴を聞き、幸司の夢を知った貴央は突然提案した。
「ゆめみてや、なんてどうだ?お前の店の名前」
ぽかんとする幸司に、貴央は小さく笑った。
「なんだ、やはりフランス語がいいか? それなら、メゾンドゥレーヴ、夢の家」
初めて幸司の家に泊まってくれた貴央は、真剣な目で言った。
「ゆめみてやは、夢、見、手、舎」
ベッドサイドのメモ帳に、さらさらと鉛筆を走らせ、見せてくれる。手と舎の字は、捨の字にも見える。
「子どもたちが安心して過ごせて空腹も忘れていられる。そして大人はここにいる間だけは美味い珈琲とケーキで夢のひと時を過ごし、現実に帰っていく。夢を見、ここに捨てていく舎だ」
貴央は幸司の頭を愛おしむように撫でた。
「ここに来れば、また夢に会えるからな。だから私は、夢はここに捨てていく」
そうして彼女は、その一夜を境に、幸司と対面で会うことはなかった。
トークアプリで簡単なやり取りはしても、幸司の姉が死んだときでさえ、絶対に会ってくれなかった。
最後の連絡は、10年前。
店の業務用アドレスに送られてきた、一通のメール。
「さいごまで我儘ですまない。
私にもしものことがあったら、お前に託したい。
私の遠縁で、養子に引き取った男子だ」
その子の氏名と生い立ちをまとめた資料が添えられていた。
その業務メールから半年後の冬。
一枚の喪中はがきが、貴央の養子だという男性の名ー猫守 弥也人ーで幸司の元に届いた。
【羽田幸司様
養母,小鳥遊 貴央 が去る11月某日にこの世を去りました。
生前のご厚情にあつく御礼申し上げます。
貴方様は、貴央さんにとって大切な人,心の相棒だったと聞いております。
いつかお会いしたいです。
猫守 弥也人】
それに寒中見舞いの一つ出せぬまま、今に至る。
幸司が故人に思いを馳せていると、かららん、とドアベルが鳴った。
「こーじさん、お久しぶりです」
清楚な雰囲気の若い女性が、落ち着いた雰囲気の男性を伴って入ってきた。
「……理世?」
「へへ、あたり」
はにかむ理世。
淡い黄色のブラウスに、ベージュのカーディガン。チェックのフレアスカート。ローヒールの靴をかつかつと小さく鳴らしながら、理世は珍しく窓際のテーブル席を選んで座る。
少し戸惑いつつ、幸司はおしぼりとお冷を持っていく。
「ご注文は?」
「私、季節のケーキと、ホットティー。りっくんは?」
連れの男性に親しげに問う。彼は緊張したように辺りを見ていたがほんのり頬を染め、
「あ、僕は……アイス珈琲で」
「承りました」
幸司は丁寧な物腰で応じ、厨房へ戻った。
注文されたケーキセットと珈琲をテーブルに運び、幸司は膝をいたわるべく、カウンター内で椅子に座った。
やがて若い男女は、はにかみつつ、「ご馳走様でした」と幸司に声をかけて帰っていった。
翌日。
今日は土曜日で、5月の大型連休の中日でもある。
年寄りたちも来ず、本当に静かだ。
どこぞの喫茶店のテイクアウトらしきドリンクを持った親子連れが、店の外を通り過ぎていく。
「此処を閉じるのも秋頃が目処かねぇ」
残りの焼き菓子を数え、次の製菓をいつにしよう、とカレンダーを睨んで幸司は考えていた。
かららーん!
賑やかなドアベルの音に、幸司は入り口を見やる。
「へへ、また来ちゃった」
青いパーカーに黒いTシャツ、ジーパンにスニーカー姿の理世がいた。
ズカズカとカウンター席に来て、
「ナポリタン大盛り!ケチャップ多めで!」
と元気に注文する。
小学5年生の時に転校してきた、父子家庭の子。ボーイッシュで、男子相手に手も足もでるやんちゃな子だった。
隔週土曜、父が仕事で不在の日は、昼からずっとこの店で、本を読んだり宿題をしたりしていた。
彼女は、ここを学童代わりにしていたヤンチャ共の、最後の一人だ。
理世の、あの頃と変わらない格好と定番の注文に、得も言われぬ喜びを噛み締めて、幸司は久しぶりの注文にフライパンを振るう。
膝のじんわりした痛みが己の老いと歳月を突き付けてくるが、今は“現在”に専念したかった。
ソーセージと、野菜不足をちょっとでも補えればとたっぷりのピーマンと玉ねぎを炒め、甘酸っぱいケチャップを加えて煮詰める。パスタをソースに絡めて、焼き付けていく。
しゅうしゅうと音を立てるフライパンから、ナポリタンを皿に盛り付けて理世に運ぶ。
「わぁ、大盛り最高!」
理世が手を叩いて喜び、トマトケチャップの甘い香りを嗅いで目を閉じる。
「いっただっきます!」
あふ、あふ!と熱さに笑いつつ、程よく歯ごたえを残した玉ねぎをしゃくしゃく食べ、麺をフォークに巻き取っては休まず口に運ぶ。
カウンターの丸椅子に座り、横目で理世を眺める。
「もー、昨日はナポリタン我慢したのつらかったぁ!こーじさんのナポリタン大盛りで私、育ててもらったもんね!」
口の周りを赤く汚して、パスタを頬張る理世は、小学生の頃と何も変わらない。
昨日のお淑やかな女性はどこへやら。
「ご馳走様でした!」
完食した皿を、理世はひょいとカウンター越しに幸司に差し出す。
「お、わりぃな。ピーマンも残さず食って、偉い偉い」
片膝を庇いつつ、よっこいせ、と掛け声と共に立ち、幸司は皿を受けとった。
「こーじさん、だいぶ体つらそう」
理世が心配そうに言う。
「なぁに、理世が気にするこたねぇよ」
笑って流そうとする幸司に、理世は叫ぶ。
「やだ!こーじさんが元気じゃないと、やだ」
涙目で理世は訴える。
「此処に来れば、私は『はっぴぃ』の子に戻れるの。ここなら、女でも大盛りナポリタン食べていいの。そういう、いつでも帰れる場所なの、でも、……こーじさんが元気でなきゃいや。『はっぴぃ』のおじーちゃんおばーちゃんももう居なくて、こーじさんも、何年か前、お店休んでたんでしょ?」
駅チカのカフェの開店、常連高齢者の減少、幸司の入院。
そのまま『はっぴぃ』が閉店するかもしれないと、不安だったという。
「でもさ、もし、もしもだけど。私たち全員の巣立ちを見送ったら、こーじさん、……このお店辞められる?」
だけどもライフステージが変わって街を去る自分たちは、このお店を存続させられないことも、今の理世には分かっていた。
「こーじさんが、お店続けてくれたら嬉しい。このお店がなくなっちゃうのはヤダ。
でも、でもね。
やめたくてもやめられないのはもっとイヤだ。
こーじさん。私たちにも、もう誰にも縛られないでほしい」
おとなになった理世はそう言い残して、帰っていった。
誰もいない店内に幸司は一人佇む。
進学で疎遠になる鍵っ子たちが、
「また、ぜってぇー来るからね、おっちゃん!」
と言うたびに幸司は返していた。
“お前らのためにも、この店は続けなきゃなぁ”と。
それは、無邪気で残酷な楔となって幸司をこの店に繋ぎ止めていた。
たかが喫茶店のおっちゃんのことなんて忘れるくらいに人生を楽しんでいてほしい。
だからもう帰ってこなくてもいい。
そう願う一方で、
彼らがこの店にまた来てくれる日を待っている自分もいた。
大きな負担と無理を自分に課して。
そうして『はっぴぃ』は老いも若きも、人の旅立ちを見つめ続けてきた。
皆がそれぞれの旅路へと出立した今、もうここには、
行く先に憧れる夢ではなく、幻しか遺っていないと気付いた。
子どもたちを見送り、地域の人々でさえ来なくなったら。
客足の細る一方のこの店を、自分は誰のために開けているのだろうか。
自分の生きる縁は、ここに今もあるのだろうか?
「あんたらの遺した夢を、捨てちまったら、俺は。どう生きればいいんだよ、姉貴……、タカさん」
あの額縁を胸に抱きかかえ、幻となった己の店の名を撫でてむせび泣いた。
孤独に打ちのめされた幸司は、客の居ない午後、店の外にいた。
営業時間中に店を閉じるなど、初めてのことだ。
しゃがみ込み、子ども110番のステッカーを、剥がそうとして、だが、指に力が入らない。
そっと土埃を拭くに留めた。
そして、扉に鍵をかけて、Closedの看板を下げる。
「……あ、今日、今からおやすみですか」
そんな幸司に、後ろから誰かが声をかけた。
「あー、色々と、切れちまってな、在庫とか」
振り返る幸司。20代なかばくらいの利発そうな青年が、リュックとスーツケースを手に立っていた。
「羽田、幸司さん。……初めまして。猫守弥也人です」
二人の間を、初夏の風が吹き抜けた。