初めての助手席
「今日はもう帰ろう」
さっきまでの荒れた気分が落ち着くと異世界でのやる気モードもすっかり萎んでしまい徇は自然とそう呟いていた。
そして現実世界へと戻ると雪永に電話をする。
「はい」
いつものように呼び出しコールが鳴るか鳴らないかのタイミングで艶っぽく耳に響く声。
「ただいま帰りました」
徇は雪永の≪はい≫に心臓を躍らせる事も無く用件だけ言うと電話を切った。
「なんか疲れた~」
実質的に疲れるような事をした覚えは何も無いのだが全身が気怠く妙に疲れを感じていた。
きっとジェードとやり合った精神的なものなのだろうと考え着替えを済ますとそのままベッドに身体を投げ出す。
そしてぼんやりとした視点の定まらない視線を天井に向けたままボーっとしていると玄関扉の開く音がして「お嬢様」と徇を呼ぶ雪永の声がした。
「は~い」
徇は力のない返事をしてベッドから起き上がりのんびりと部屋を出た。
「彼方で何かございましたか?」
徇の様子を探るようにじっと瞳を見詰めて来る雪永に軽く笑みを浮かべて頭を振る。
「ちょっと自己嫌悪に陥った感じかな」
徇はそう前置きをして異世界であった出来事を徇の主観だけで話したが雪永はただ黙って聞いてくれた。
「そう言えばお嬢様にお願いがあったのです」
徇が話し終わると何の脈絡もなく雪永が両手を叩き話を変える。
何事かと思っていると徇の記憶に残っていたと思しき屋敷をいくつかピックアップしたそうだ。
さすがに仕事が早い。
多分徇の気分を変えようと気を遣ってくれた部分も大きいのだろう。
「宜しければお嬢様にご確認いただきたいのですが今から出かけられますか?」
実際に行ってみない事にはその屋敷が徇の記憶にある物かどうか判断ができないので見に行こうと誘って来る。
「近場なの?」
「第一の候補は車で二時間程の距離ですね」
「他には?」
「関東近郊だけに範囲を絞りましたので九ヶ所です。近場から確認していきますか?」
そんなに似たような屋敷がこの関東近郊にあるのかと徇は何気に驚いた。
そしてこの短期間にどうやって探し出したのかもとても気になって聞いてみる。
「凄いね、どうやって探したの?」
「フフ、私にも伝手もありますし私の能力の一つだとお考え下さい。それで出かけてみますか?」
雪永は教えてくれる気は無さそうで薄い笑顔を見せる。
「そうする」
徇の幼い頃の記憶だけが頼りだが、母と行った屋敷さえ見つけられれば何かしらの手掛かりが掴める筈だ。
それに確実に気分転換にもなると徇は雪永の提案を喜んだ。
いつもは後部座席に座らせられる徇は今日ばかりは助手席が良いと雪永が車のドアを開くのを無視して助手席に乗り込む。
誰かが運転する車の助手席に乗るのも実は初体験だった。
養父母の家では運転する養父の隣はいつも養母の定位置だったのでずっと遠慮していたが、実は一度助手席に座ってみたいとずっと思っていたのだ。
いつだったか雪降る中を走った時養母が感動で声を上げていた事があった。
その時の徇がドアウィンドから見る景色と養母がフロントガラス越しに見る景色とでは感動が違うのだろうと子供心に感じ、自分も助手席からの景色を見てみたいとあれからずっと憧れていた事の一つだった。
雪永は諦めたようにドアを閉め軽く笑うと「気をつけて運転します」と呟いた。
「ねえ雪永。車の免許っていくらあれば取れるの?」
暫く走った所で徇は自分でも車の運転をしたいと考えていたので雪永に聞いた。
いつかお金が貯まったら教習所へ行こうと考えていたが今ならば通える。
「私は三十万程で取りましたが教習所やコースによって色々ですね」
「コースって取得方法が色々あるって事?」
「そうですね。また急にどうしました」
「急じゃないわよ。自分で車が運転できれば行きたい時に行きたい所へ行けて便利じゃない」
「お嬢様には私がおりますので必要ないかと」
「今はそうだけど永遠ってないのよ。やっぱり自分でできるようになっておきたいわ」
「私は会長とお嬢様に永遠を誓います」
雪永の横顔は真面目そのものの表情を崩さず簡単に永遠を口にする。
その永遠っていつまでの事を言うのよ。終わりは必ずあるんだよと内心で呟き徇はツッコみたいのも話を広げるのも止めにした。
「何にしても金貨一枚で解決できるのなら私は経験を積む意味でも免許を取るわ」
「手配いたします」
徇が強く言ったのが効いたのか雪永は大人しく教習所の手配をしてくれると言う。
しかしそこから既に自分でした方がいいんじゃないかという思いもあったが徇は大人しく引き下がってしまう。
今は雪永の言うように頼れるものには遠慮なく頼りながらしっかりと確実に経験を自分の身に付けて行こうと思う事にした。
その為にもやはりお金が必要なのかと考え、異世界の活動=手っ取り早い現金収入と思うのだった。