58 変わる関係性
夜も更けて、エミーリエはランタンをもって一人でブラント伯爵邸をうろうろとしていた。
記憶を取り戻した時にこの場所を訪れた時には、まさかこんなことになろうとは思ってもいなかった。
伯爵邸はひどく朽ち果てていて、母の自慢の薔薇園もボロボロで、ただ悲しくて悲しくてたまらなかったのだ。
しかし今では、外に広がる庭園は魔法灯に照らされて美しく咲きほこる薔薇を見ることができる。
端の方にはくだんの祠があり、この窓から見る光景が思い出のどこかに存在しているのか懐かしいと思う。
この屋敷を歩き回っているとそういうことが多い。
もちろん屋敷自体は完全に立て直しているので、思い出の品も家具もないし多分雰囲気だって違うのだろうと思う。
しかし、変わっていないものがある。それはきっと間取りだ。
立て直しの事についてはユリアンが担当してくれていたが、廃墟となっていたこの場所の間取りを再現するような形で、昔のまま変えずに作り直してくれたのだろう。
だから窓からふと見る景色が懐かしいと思ったり、廊下を歩くだけで何か温かい思い出を思い出して少し涙が出そうになったりするのだ。
そしてこうなったのは、伯爵という地位をエミーリエが手に入れることができたからだ。
突然の提案で心の準備もできていなかったがそれでも、決断にそれほど時間はかからなかった。
……もともと、跡取りとして教育されていたと思いますし、フォルスト伯爵家での経験もありましたから、出来ないとは思いませんでしたし……なにより。
ユリアンがそれを最善だと思い手に入れてきてくれた事、それが何よりエミーリエの心を動かした。
彼となら、やっていけると思ったのだ。
それに割と領地の復興も順調で、悩みといえば、結婚したことによってブラント伯爵家にフリッツ王太子からの多量の仕送りが届くようになったことぐらいだ。
金銀財宝を馬車いっぱいにおくられても、困ってしまう。お礼の手紙を書くにしても、神経を使うのだ。
……まぁ、それはとても贅沢な悩みかもしれませんが。
考えながらゆっくりと廊下を歩く、二階からの風景も一階からの風景も、曲がり角も、階段も、そのどれもが愛おしい。
こうして懐かしい気持ちになれるのは、ユリアンがそう言う配慮をしてくれたからで、そう思うと懐かしい気持ちが愛おしいに変わるのだ。
なのでエミーリエはニコニコしながら散歩をしていた。すると目の前から同じように歩いてくるユリアンとかち合った。
状況的にはエミーリエと同じように散歩をしているように見えたが、彼はエミーリエを見つけてすぐに表情を明るくした。
「やっと見つけられました。この時間になるとエミーリエは何故か散歩をしているとアウレールに聞いて、探していたんです」
そういう彼のそばには珍しくアウレールがいない、しかし時間も時間なので納得だろう。
……それにしても、散歩の途中でアウレールにあった事はなかったと思いますが、気配みたいなもので察されていたんでしょうか……?
ユリアンがアウレールから聞いたというのだから間違っていないと思うのだが、少しばかり不思議だった。
「気分転換にしては遅い時間ですね。……眠れないのですか?」
少し心配したようにユリアンはそう言いつつ、エミーリエの隣に移動する。それから二人はどちらともなく歩き出した。
「いえ、そういうわけではないんです。ただ昼間はこうして目的もなくうろうろしていたら、屋敷の使用人たちの仕事が進まないと思いますから。なので夜に」
「ああ、たしかに主人がうろついていたら掃除する手も止めてしまいますからね。しかし、ということは気分転換というわけではないんですよね」
ゆったりと歩きながらユリアンと言葉を交わす。
「はい。散歩は気分転換の手段というよりも、そのものが目的で……私この屋敷が大切なんです。だから無性にうろうろして、今ここにいるそのことを事を実感したいと思ってしまうんです」
「……それは……」
「早く眠った方がいいとはわかっていますから、仕事に支障をきたすようなことはしません。それにしばらくうろうろしていると、少し体も温まってよく眠れますから」
エミーリエはユリアンに心配をかけないように気軽にそう口にした。
しかし彼は何故か少ししょんぼりとしているような気がしてエミーリエは首を傾げた。
「もちろんエミーリエが問題ないと思っているのなら、私には何も言う権利はないと思います。よく眠れることも事実だと思いますし」
彼は目線を伏せて、綺麗な深緑の瞳がまつ毛に隠れる。
ランタンの明かりが彼を下から照らしていて、妙に神秘的な印象を受けた。
「けれど……やはりこの場所に住んでいると、ご両親の事を思い出してしまいますか? 寂しい気持ちになるから、この場所にいることを実感したくてこうしているのですか?」
問いかけられて、エミーリエはたしかにそう言うふうにもとれる言葉だったかと思う。
ここが大切で、ここにいることを実感したいという言葉は、今ではなく過去を想いながら言っていると取られても不思議ではないだろう。
「……」
そういう意味で言ったわけではないが、そのことをうまく伝える言葉はあまり思い浮かばなくて、少し考えてしまう。
するとユリアンは、ぱっとこちらを向いて少し悲しい表情のまま言った。
「おこがましい事は承知で言わせてください。エミーリエ」
「……はい」
「その寂しさを私が埋めることはできますか? 私があなたを、満たすことは出来ると思いますか?」
なんだか切羽詰まっているようなそんな、声と表情だった。
それにエミーリエは少し黙って、さらに思考を巡らせた。
ブラント伯爵になると決めてこちらに来てから、エミーリエとユリアンは名実ともに夫婦になった。
恋人から夫婦になるまでの間はとても短くて、結婚とともに爵位を得てしまったので、気ままにベーメンブルク公爵家で雇われていた時よりもずっと仕事も考えることも増えた。
それらについては、ユリアンと密に協力して話し合ってやってきた。
だからこそうまくいっていると思うし、これからもうまくいくと思う。
しかし、事実上の関係はどんどんと進展しているのに、エミーリエたちの関係は今でもあの馬車の中で恋人になった時から碌に進展していない。
そのギャップもあって彼が不安に思う要因になっているのかもしれない。
「……やはり難しいですか?」
逡巡するエミーリエにユリアンは聞いてきて、いつもとは違って下ろしている金髪がさらりと揺れて、ランタンの光にきらめいた。
……難しいも何も、私はあなたのおかげで今までの人生で一番、満たされていると確信が持てます。
そう思っているのにエミーリエはきっと言葉も行動も足りていなかった。
それはよろしくない事実だ。
「いえ……」
彼の言葉を否定しつつ、目を合わせるとユリアンも真剣にこちらを見ている。
頬に手を添えて、ふとエミーリエは思った。
……そういえば、ユリアンは初めての事をするときには、して問題ないか問いかけてきていましたね。
「あの、キスをしようと思うのですが……」
「……急ですね」
「はい。急に愛情を行動で示したくなりました」
「……してくださるんですか」
「もちろん、あなたが嫌でないのなら」
エミーリエはなんだかおもしろい会話だなと思いながらそう言った。すると彼は、じわっと頬を染めて「はい」となんだか乙女みたいな細い声で言った。
エミーリエはその様子を見つめながら、唇を重ねてみて柔らかい感触はなんとも形容しがたい。
「ユリアン、私は十分、満たされています。あなたが私にしてくれたことはどんな恩返しをしても足りないぐらい、うれしい事ばかりです。
この屋敷が好きで夜になって歩き回ったりするのは、昔ここで過ごした温かな思い出があるのと同時に、あなたが取り戻してくれたから、あなたの愛情で私はここにいると思えるからです。
決して悲しい意味で散歩しているわけではないんです」
彼の頬の感触もなんだか離れがたくて、少し撫でてから手を離す。
だから安心して、部屋に戻って休んでいい、そうつなげようと思った。
しかし、ユリアンがエミーリエを見ているその熱心な目線は熱く、エミーリエが一呼吸置いたのちに、彼は一歩踏み込んできて短く言った。
「なら、いいんです。でも私はもっとあなたが欲しいです。エミーリエ」
腰を抱かれて、キスを返され間近で見つめられると、今日はもう少し彼との関係性を進めることになりそうだとエミーリエはどこか冷静な頭で思ったのだった。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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