48 頼らないように その一
しばらくして、ブラント伯爵家の調査が終わり、エミーリエたちはこの何もない領地から早々に立ち去ることになった。
ユリアンは何やら確信を得た様子だったし、こうして雨で状況が悪い旅路ではあったが得るものがあったのだから悪くない旅路だった。
ただエミーリエはどうしても、馬車の中に戻れる気がしなくて、小さく俯いていた。
愛されていたころの光景を思い出してしまった。
自分にもいた家族の存在。心の中のぽっかり空いていた穴がとても強く主張しているようだった。
幼いころに家族に大切にされていた時の記憶、それはとても大切なもので誰にとっても自分という人間の根っこにある揺るぎないはずのものだ。
しかしエミーリエはそれを失っていてこうして戻ってきて、それと同時にすでに喪失している。
記憶の中の確固たる自分を手に入れたのに、今ここにあるのは朽ち果てた廃墟だけ、それがまぁ、エミーリエにとって、有り体に言うととてもひどく……。
「エミーリエ、さあ、帰りましょう。あなたにとてもいい提案を出来そうなんです」
「…………」
「……エミーリエ?」
ユリアンが馬車に戻るために手を伸ばしてくる。しかし今のエミーリエはその手をどうしても取る気になれなくて、自らの手を手で握って、一歩後ずさった。
「……あの……ええと、ユリアン」
「……はい」
「先に行ってください」
「……え?」
今、馬車に乗らない選択をとるためにエミーリエは、そうぽつりと言って、頭の中ではどうしようと困り果てていた。
そんなことを出来るはずもないのに、なぜそんなことを言ってしまったのか。
これでは多くの人の迷惑になってしまう。
それはきちんとわかっている、わがままを言ってはいけない、しかし今は、一人になりたい。
「……どういう事、ですか。エミーリエ、こんな場所にあなたを置いていけるはずもありません。もう少しこの場にいたいというのなら、丁度いい場所で野営をして明日またこの場所に来ましょう。
今日はもう日も暮れます、今のうちに少しは道がましなところまで向かった方がいいはずです」
「はい、あの……その通りですが、今日だけは少し見逃すようなつもりで先に行ってくださいましたら私、後からきちんと追いかけますから」
エミーリエはまったくもって意味のない言葉を吐いた。
ユリアンがそんなことをできないことなど承知している。もう少しうまいやり方、言い方があった事もわかっている。しかし、どうしようもなく今、見て見ぬふりをしてほしい。
……私、どうしても情けなくてたまらないんです。ユリアン。それにいつもこんなふうに私は、ぶつかることも拒絶することもできない。
逃げるばかりの女なんです。
「おいていってください、でないと私、これ以上は……」
エミーリエはさらに廃墟の中に戻ろうと振り返って足を進めた。しかし、ユリアンは腕を掴んで、ぐっと引き寄せた。
……ああ、こんなことは最初に会った時以来ですね。私は向きあいきれない事があると自暴自棄になる癖があるようです。
少し冷静にそんなことを考えて、しかしその自暴自棄にならないように引き留める手に、自分は何度でも救われるのだろうと、そうなったらいいのにと思ってしまった。
「っ、離してくださいユリアン。今、馬車に乗ってあなたのそばにいたら、私は、あなたにとても迷惑をかけます。
本当の恋人でもないのに、あなたに慰めて欲しいなどと望むかもしれません。恩人のあなたには返しきれない恩があるのに、これ以上図々しい生き方はしたくないんです。
ただの仕事上の付き合いだとしても、私はあなたに嫌われたくなどありません。
っ、けれど、それでも、こらえきれないほどに、悲しいんです。
ありきたりな感情で、誰しも一度や二度経験したことがあるものだと思います、それに私の場合には亡くしたのはもうずいぶん前です。
けれど、その時に正しく受け入れられなかった分だけ、今、とても忘れ去っていた時の分を割り増しにして、堪えられないぐらいつらいんです」
はるか昔の事を思い出して悲しんで、泣いて縋って、そんなのは情けない。
それも、大人同士として関係を結んだ彼に対して申し訳が立たない。
放っておくことは難しいだろうそれならば、エミーリエは使用人たちと同じ馬車に乗せてもらう。
それか荷台に荷物と一緒に乗って、荷物のように揺られようと思う。
ぐずぐずと泣いている自分などそんな扱いでいいのだ。
きっといつかは涙も枯れるし、心の穴はきっと埋まる。そうしたらエミーリエはまたいつものエミーリエでいられるのだ。
そうしたらきっとまた、ユリアンといつかは本当の意味でと思う気持ちのままそばにいて、今までと同じ日々を過ごせるはずなのだと思った。