43 悪口
ロッテは自分はもっと多くの事を、ほかの人よりずっと早く完璧にできると思っていた。
そういう幻想を信じていたとかそう言うふうになったらいいと思っていたわけではなく、何の違和感もなく何の疑問も持たず、自分は才能にあふれたなんでもできる人間だと思っていた。
「ねぇ、聞いた? エミーリエ様の連れてきた、あの子。伯爵家の娘だっていうロッテ様のこと」
洗濯場にある井戸から、水を汲んで自分の部屋に持ってくる事。
それは今日一番に与えられたロッテの仕事だ。
本当はそういう力のいる仕事は下働きの平民がやることが多いし、何よりロッテは魔力を持っているので魔法道具を使って水を生み出すことができる。
それなのに労力をかけて水を汲みに行くこと、それは一見バカバカしくてロッテの事をいじめるためにそんなことをさせているのだと思ってしまうような仕事だ。
けれどどうやっているのか知らない状態で、どれぐらい大変かも推し量ることができないままでいることの方がよっぽど愚かな事なのだと、エミーリエは教えてくれた。
だからこそこうして井戸のある洗濯場までやってきたロッテだったが、身長が小さなロッテに気がつかなかった女性使用人たちが噂話を始めた。
「聞いた、聞いたわよ! エミーリエ様の紹介だもの、どれほど出来る子かと思えば……ねぇ?」
「ねぇー、なぁにあの子。もしかして伯爵様の私生児なのかしら?」
「あぁ、ありえるわね。礼儀も作法もまったくもってなってないもの、そこら辺を走ってる平民の子供みたいだわ」
そうするとロッテは、声をかけることも顔を出すこともできなくて井戸の影で少し小さくなって固まった。
ロッテは気が弱い方ではないし、言われたら言われっぱなしではいられないと思う。
しかし彼女たちは大人で、数人いて、そんな彼女たちの負の感情を含んだ言葉はどうしても嫌な響きをしている。
それにロッテは彼女たちの言葉はやっぱり悪意のある言葉だと思った。
だって自分はそんなふうに言われるほどひどくないはずだから、これまでずっとこんなふうに侍女に悪口を言われたことなんてない。
家族にだって言われたことはない。
普通本当にそうなら、こういうことは何度もあるはずだ。だからこんなふうに言う彼女たちはロッテがうらやましくて仕方がないのだ。
そう思った。
「それに、その伯爵家っていうのも、相当、事情が込み入っているらしいのよ。もうだいぶ没落しているみたいでユリアン様が手を打っているって……」
「え~? じゃあそんなところの子供であんな様子なんて苦労するわね。可哀想」
「そうね。いい結婚相手でも見つかればいいけど、貴族の女の子ってちゃんと教育されてるかって事も見られるから、可哀想よね」
けれども次第に、彼女たちの会話の内容は、方向転換して悪意とも取れなくない内容から、同情に変わる。
……可哀想なんて……そんな……。
そんなふうに言われたことなんて一度もない。それに自分は、ロッテは、可哀想なんかじゃないと思おうとした。
しかし、そんなのは無意味だ。だって今、たしかにフォルスト伯爵家はとても人が暮らせるような場所ではなくなっている。そんな場所から逃げ出してきて、自分の親戚でもない女性を頼って、暮らさせてもらっている。
そんなロッテが可哀想じゃないなんてすでに没落してしまったフォルスト伯爵家を基準にして考えるのはおかしいんだ。
ロッテは傍から見たら、可哀想で、教育もきちんとされていない自己肯定感ばかりが高い間抜けな女の子だ。
そう思うと途端に何かがはずかしくて、堪らなくなる。
ほんの半年前までは自慢の家族で、ロッテは世界の誰より幸せで完璧な女の子だった。
けれども今ではどうか、それはただのハリボテでその後ろには無数の人々の苦しみがあった事。それはロッテの生活を呑み込んで大きなうねりとなってフォルスト伯爵家を包み込んでいる。
もうロッテに居場所はない。
残ったのは、こらえ性もなくてお使いもできない、傍から見たら無能で可哀想な女の子だ。
「っ……」
「こら、あなた達、そんな話ばかりしていないで手を動かす」
「はーい」
「ひゃー、怒られちゃった」
ある程度のところで、手ではなく口ばかりを動かしている彼女たちの上司に当たる侍女が注意して、もくもくと作業をする音だけが響く。
そうなってから、ロッテは泣き出しそうなのをこらえながら、なんだか気持ちが折れてしまいそうになりながらも、小さな体で水を汲んで仕事を放棄することなく自分の部屋への水汲みを終えた。
それからやっと思い出してぽろぽろ泣いて、ちょっとだけ昔に戻りたくなった。
しかし涙をぬぐって、また部屋を出る。
やることはたくさんあるのだ。エミーリエは、ロッテの事をただの可哀想な子から、ロッテを脱却させようとしてくれている。
だから頑張ろうと思えるのだ。
そうはいってもロッテはやっぱり失敗することが多かった、しかしある日のお使いのように廊下で蹲ることはやらないようにしている。
しかしどうしても、部屋まで持たずに泣き出してしまう事がままあった。
そんなとき、隠れられそうな場所が見つからないし勝手に扉を開けて入るわけにも行かなくて外廊下から庭園の庭木が見えた。
やったことなどなかったけれど、生垣というのはなんだかフワフワしていそうであり、あそこに隠れて泣いたら良いのではないかと思ったのだ。
ロッテはそのまま歪んだ視界のまま生垣に体を預けてみた。
……柔らかくない……イタイ……。
そのことがさらに悲しいし、髪に庭木が絡まって引っ張られている気がする。
それによく見たらこの生け垣は薔薇の木で枝には無数の棘が生えていた。
「っ、……っふっ、ゔっ」
そう思うと体中に棘が刺さっているような気がして、動いてみたら頬から血が出てきた。
「っ、ゔっ、ゔゔっ!」
ロッテはそのままどうしようもなくなって、プルプロと震えて泣き出す寸前だった。
しかし、背後から声がかかって、生垣に頭から突っ込んでいたロッテをひっつかんだ。
「何してんだ。怪我するぞ!」
それから首根っこを掴まれてずぼっと生垣から引っこ抜かれると、先日も落ち込んでいる時に出会った、フランクの姿がある。
その小脇にはロッテと同じ年ぐらいの男の子であるヨルクを抱えていた。
つまり今のところ彼は両手で子供を捕まえている状況だった。
「っ、ふっ、ふぇっ」
「うわぁ。ほっぺ、血が出てるよ! ロッテ! 絶対いたいよ!」
「ゔっ、ううっ!」
「ああ~! 泣いちゃいそう! 兄さまがむやみに引っこ抜いたからだよ!」
「はぁ? なにいってんだ、てか何してたんだ」
フランクは自分の両手にいる子供と交互に話して、しかしロッテはすでに我慢できずに「わぁ゛~ん!!」と泣き出した。
するとヨルクがすかさずいった。
「ほら、泣いちゃった!」
「うおっ、おい、あんま泣くなよ」
「兄さまのせいだよ!」
「はぁ? なんでだよ」
「兄さまが怖かったんだ! ロッテは繊細な女の子だから! 兄さま乱暴者だから!」
「してないだろ乱暴なんて!!」
「ほらまた怒鳴って、女の子には優しく慰めてあげないとダメなんだからっ」
ロッテが泣いている間に二人はそう言葉を交わして、言い合いながらもロッテを自分たちの部屋に連れて行った。
それから水の魔法の魔法道具で癒しをかけてくれて、泣きやむまではそばにいてくれた。
彼らも、エミーリエも周りの大人も、ロッテの事を甘やかしてくれるわけではない。お願いも聞いてくれないだろうし、わがままを言ったら怒られる。
しかし、だからと言って冷たい人だというわけではない事をロッテは知っている。
わがままを聞いてくれるだけが情ではない事をやっと実感しているのであった。




