38 クッキーの香り
エミーリエはユリアンに渡し損ねていた刺繍の入ったハンカチを持って彼の部屋にやってきていた。
王都から戻ってきてからというもの、ユリアンもエミーリエもなんだかんだと忙しくしている。
ロッテの事もあるし、ユリアンは長雨の原因についての調査の依頼を請け負っているらしく調べ物に数日出かける事もある。
そんな中だったので揃いの指輪をつけて結婚の約束までしたけれど、改めて彼にお願いされていたクッキーとエミーリエの些細なプレゼントを渡す機会がなく、こうなったら仕事の合間にでも渡してしまおうと思ったのだ。
クッキーはあれから焼いては消費してを繰り返しているので、そろそろ彼に受け取ってもらわなければエミーリエはクッキーを作ることが日常の習慣になってしまう。
しかし用事があるのは仕事の事だ。
今日は休日で本館の執務室ではなく、自室にいるユリアンだがエミーリエと同様に大体仕事をしているので、休日はあまり関係がない。
むしろ週明けに仕事が溜まっている方が二人とも面倒だと思うタイプなので、休日は仕事の話をしないようになどという配慮は不要なのだった。
「次に出かけるときまでにこちらの確認をお願いしようと思いまして」
そう言ってエミーリエは侍女たちから上がってきたこの屋敷の不足品の発注についての書類をユリアンに見せた。
エミーリエも確認しているが一応、予算管理の関係上ユリアンにも目を通してもらった方がいい。
「はい。…………問題ないと思います。それにしてもエミーリエは本当に仕事が早いですね」
ユリアンはパラパラと書類束をめくって変なものがないか確認してから頷き、エミーリエの手元に戻す。
「ほかにやることがないだけです。仕事が早いわけではないですよ」
「それでも、そればかりしていて飽きないというのは才能ですよ。ほかには何か確認しておくべきものはありますか?」
「ああはい、こちらですね」
……才能というより習慣ですね。
フォルスト伯爵家での仕事は、飽きることなどないような日常の生活の一部だった。
平民の人たちが毎日、洗濯をして掃除をして料理を作るように、その面倒をすべて見てもらっているからこそ、エミーリエは一日まるまる仕事をしていた。
そういう役割だと体が認識しているので、負担に感じることもない。生命活動の一環だ。
そんなふうに考えつつ、エミーリエは腕にかけていた小さな籠をユリアンに渡した。埃がかぶらないように布をかけているので、彼は首をかしげる。
「? ……これは何でしょうか」
「クッキーとハンカチですね。王都から戻ってきたユリアンに渡しそびれていたものです」
「なるほど……びっくりしました」
話の流れからして、仕事に必要なものかと思われてしまったらしい。
たしかにプレゼントを渡すにしては、まったくムードも気持ちもこもっていないような渡し方だったかもしれない。
「すみません」
「いえ、最近忙しくしていましたから、むしろ私のわがままを聞いてくださってとてもうれしいです。……それにしてもクッキーはリクエストしたのでわかりますが、ハンカチですか?」
二枚のハンカチが入っているのを見てユリアンは首を傾げた。
彼の言う通りエミーリエは、頼まれていないし、自己判断で作った代物だ。説明が必要だろう。
「ええ、私たちは一応、愛し合っているという関係ですから、それを示すためのものが必要だと思ったんです。ユリアンからは指輪を先に貰ってしまいましたがこれは私から、あなたに」
フリッツ王太子の前で大口を叩いたので、それに見合うだけの証拠も必要だと思う。それなら、自ら刺繍をしたハンカチというのは丁度いい品物だろう。
「一応……ですか」
しかしユリアンはエミーリエが想定していなかった部分に意識を向けて、引っかかっている様子だったけれど、すぐに切り替えて、ぱっと笑みを浮かべる。
「それにしても、忙しい合間を縫ってこんなことまでしてくださってありがとうございます。手先も器用で料理もできて、仕事も大体なんでも出来るなんて、あなたのご両親はとてもあなたを愛していたのでしょうね。
あ、も、もちろん、あなたの努力を否定しているわけではありませんよ。あなたの努力があってこその賜物ですから、わたしにはできない事です」
ハンカチの刺繍をなぞってユリアンは思いを馳せるようにそう言った。
それは最近、エミーリエも時々思う事だ。
姫であった公爵夫人が完璧にクッキーを焼けなかったのと同様に、エミーリエがなんの技能もない人間だったら、そもそもこの水準でやろうと思った時に出来るわけがない。
つまりエミーリエは忘れているだけで、自分の両親にとてもよく色々なことを教えてもらって、教育してもらったのだ。
それに強制されたわけではなくきっと意欲的に取り組んでいた。そうでなければ、こんなに上達しないと思うし、そう言うふうに育ててくれたというのはきっととても愛情があったからだ。
けれどもエミーリエはその両親の顔すら思い出せない。
人には真実を知るべきだと言っておきながら、自分は知らないまま目をつむっていることがある。
「そうですね。きっととても愛してくださったのだと思います。ありがたい事です」
「そんなあなたを私はもらうのですから、とても大切にしなければいけませんね。……あの、抱きしめてもいいですか?」
唐突に問われて、エミーリエは両親の話からそんなふうに言ってくれるユリアンに、嬉しいのか両親への思いを思い出して腑に落ちない気持ちなのかわからない。
しかし、抱きしめることは愛情表現としてとても有用だろう。大切にするという言葉の通りにそれを感じることが出来る。
「はい。もちろんです」
拒否する理由もなく、エミーリエは書類を机の上に置いて、ユリアンは立ち上がって友人みたいにハグをした。
けれど、抱きしめるとなんだかとてもしっくり来て、手を背中に回してみた。
すると同じようにユリアンもそうしてお互いに肩口に頭を預ける。彼の綺麗な金髪が軽くまとめられて背中で揺れているのが見えた。
……何故だかとても落ち着いてしまうような心地です。ほっとしてでも、少し緊張もします。
それにこれではなんだか、本当に恋人同士で、愛し合っているみたいですね。
仕事上の付き合いのはずなのに、抱きしめあって、彼が望めばエミーリエは多分キスもするしそれ以上もするだろうと思う。
それは果たして本当の恋人と何が違うのだろうか。自分たちはいま、どんな関係なのかわからない。
「っ、ふふふっ」
エミーリエはとても難しい状況に彼を抱きしめたままぐるぐる考えていた。すると、ユリアンは気の抜けたような笑い声をあげる。
それからお互いに体を離して、エミーリエは何か変なことをしてしまったかと首をかしげると、ユリアンは、少し紅潮した自分の頬に触れながらはにかんで言った。
「エミーリエから、クッキーの香りがして、可愛らしいなと思ってしまいまして」
「……それは、最近よく作りますから」
そう言われると少し恥ずかしい。視線を逸らしてエミーリエも少し顔が熱くなった。
「バターとお砂糖の香りってどうしてこうも美味しそうなんでしょうか」
楽しそうに言うユリアンに、エミーリエはそれもその通りだと頷いた。
二人の関係はまだまだ、進展しないのだった。




