妻、涼子
私と涼子の出会いは、前社長の引越し祝いの席でだった。
会社の中で、ごく限られた人間だけが呼ばれる席だ。
私の場合は、今期一番売り上げた営業員として、参加していた。
涼子は、会社の若手男性を集めたところで、紹介された。
「ちょっと話を聞いてくれるか。ここにいるのが私の娘だ。綾立大の四年になる。来年からは我が社の秘書課に配属される予定だ。よろしくな」
社長の娘、として紹介された彼女は、清楚で上品そうに見えた。
彼女はまだ若く、今は失われてしまった髪のボリュームもあって、スタイルも良かった。
私はこれまでの営業活動に加えて、彼女をモノにすることを目標に掲げた。
その日の内に親しくなり、次の週末にはデートをしていた。
翌月にはプロポーズして、翌々月に再び社長宅を訪れていた。
「涼子さんと結婚させてください」
社長は笑って認めてくれた。
涼子が会社に勤めてしばらくすると、結婚式を上げた。
六月の結婚式とハネムーンでヨーロッパを回った。
会社での成功は間違いなかった。
翌年、男の子が生まれた。博之と名付けた。
「男の子か、よくやった」
社長は博之が生まれたお祝いに、異例の昇格人事で、私を支店長にしてくれた。
私が支店長で単身赴任している間、涼子と博之は社長の家で暮らすことになった。
今まで以上にがむしゃらに働き、支店の売り上げが全国一になった。
支店売り上げ全国一となった翌年、社長は『部長』として、本社に呼び戻してくれた。
営業部の部長となって戻ってきた時には、博之は三歳になっていた。
二人で暮らすために買ったマンションで、博之を育てるのは無理があった。
「おい、その汚れた手で触るな!」
「あなた、ひろくんにそんな酷い言い方しないで」
「お前の躾が悪いんじゃないのか」
涼子は私を睨みつけた。
このままでは社長に何か言いかねない。
私は優しい言葉をかけると共に、涼子が落ち着くまで抱いた。
涼子を抱いたのは、その時が最後だった。
社長が死んだのだ。
私は、涼子に入ってきた社長の遺産を使って戸建てを買った。
その頃は、完全なレスだった。
常に子供の側に立つ涼子は、単なる『博之の母』に成り下がってしまったからだ。
まるでその隙間を埋めるように、支社長をしていた時に親しかった女子社員が上京してきた。
女子社員は由貴と言った。
会社をやめ目的もなく、ただ漫然と都心へと上京してきた由貴と関係を持ってしまった。
由貴は男好きのする体で、いつの間にか夢中になっていた。
手狭で引越したマンションをそのまま由貴に住まわせ、囲った。
社長が死んで、会社での私の立場は弱くなっていた。
社長が死んだことだけが要因ではなかった。
時を同じくして、時代の変わり目でもあったのだ。
売り上げればなんでも良かった前社長の時代は終わっていた。
企業の姿勢が、正しさが求められる時代に、私のやり方は通じなかった。
会社に居づらい私は、家にも戻れず、由貴を抱くだけの日々が続いた。
そんな日々も、由貴が妊娠したことで終わりを告げた。
由貴は涼子と別れることを要求してきた。
「会社の知り合いに、全部ぶちまけるから」
由貴と遊ぶ金は、会社の経費で落としていた。結婚しなければ、それらを含めて公表すると言っているのだ。
関係もこれまでだ。
中絶を拒否した由貴の腹を叩き、蹴った。
ある日部屋を訪ねると、椅子の横で床に座って泣いていた。
由貴が振り向く。
「許さない」
床には流れた血が乾いていた。
金を渡すと、由貴は田舎へ帰っていった。
母は『かわいそう』だ。
中学になって、体が大きくなった僕はずっとそう思ってきた。
大きくなった僕が、母を守らないと。
そういう気持ちがあった。
だから母が、僕に口づけをしてきた時に、酷く驚いてしまった。
けれど苦しそうな母が求めていることを、拒否することは出来なかった。
僕は心の中に闇を抱えてしまった。
その闇は『穢れ』と言い換えてもいい。
その頃から、僕らがどうしてこうなったのか、何度も考えるようになった。