家主さんの秘密
「入るよ、母さん」
葵は声をかけて、病室に入った。
小峯葵は、中学生の少年だ。学校の先生や近所の人など、周りの大人たちからは、しっかりものと評価されることが多い。
それには、葵が幼い頃に、父が交通事故で亡くなっていることも大きく関係しているだろう。
パートで働きながら、女手ひとつで育ててくれた母が心配しないように、葵は大人びた自分をずっと演じてきた。
家にひとりでいて寂しくてもおくびにも出さず、友達と遊びたくても我慢して、早めに帰宅して洗濯や掃除をした。
母は何があっても、食事だけは必ずつくった。だから、それ以外のことは何でもできるようになろうと、葵は努力してきた。
だからといって、葵は学業を疎かにすることもできなかった。家のことをやっているから、勉強ができないのだといわれるのは癪だった。遠回しに、母を悪くいわれているようで、我慢ならなかったのだ。
結果、勉強ができるうえに、家のこともきちんと手伝う「しっかりした子」というレッテルを貼られてしまった。
そんな葵だが、唯一の家族である母が最近、病気で入院したことで、不安な日々を過ごしていた。いつものように、家にひとりで留守番しているのは変わらないはずなのに、心が落ちつかない。
もし、万が一、母が亡くなってしまったら、自分はどうなるのだろう。親戚の話も聞いたことがないし、施設送りだろうか。いや、それ以前に、唯一の肉親を失うことに、果たして耐えられるのだろうか。
しかし、そんな不安を病気療養中の母に悟らせるわけにはいかない。葵はここに来ると、いつも以上に明るく振るまうよう、心がけていた。
葵が見舞いに来たことに気づき、母は体を起こそうとしていた。葵は素早くベッドに近づき、それを押しとどめる。
「寝たままでいいよ。調子はどう?」
「おかげさまで、今日はだいぶいいわ」
そう答えて、母はにこやかに笑った。しかし、その笑顔は、ベッド脇に置いてある家族3人で撮った昔の写真のそれと比べると、いく分かやつれていた。
「……無理はしないでよ。ああ、そうだ、新しい着替えを持ってきたから。洗い物は持って帰るね」
「ふふ、あなただけに家のことを任せて心配だったけれど、ちゃんとできているみたいね」
「まあ、相変わらず料理はからっきしだけど、掃除洗濯くらいなら、いつもやっているからね」
葵は照れて、話題を逸らした。
「そうだ、掃除といえばね、また家の中で怪奇現象があったんだよ」
「前に葵が話していた、スリッパを揃えておいたはずなのに、いつの間にかバラバラになっていたみたいなこと?」
本当は、それだけではない。買っておいたカップ麺がなくなっていたり、ものが勝手に動いていたり、母にはいっていないだけで、数えあげたらキリがないほど怪奇現象は日々起こっていた。
前までは全て母が原因だと思って、一切気にとめていなかった。だが、母が入院してから、その思い違いに気づいた。日中、家には誰もいないはずなのに、まだ不可解なことが続いているからだ。しかも、神経が過敏になっているせいか、ラップ音や女性の悲鳴まで聞こえてくるようになった。
ただ、それらをいちいち報告していては、この歳になって、まだ留守番すらできないのかと、母を心配させてしまう。だから、葵はごくたまにしか、この話をしないようにしていた。
「うん。昨日、風呂場の掃除をしていたら、排水口の蓋にゴミが溜まっているなあと思って、とろうとしたんだ。それでよく見たら、なんと、大量の長い髪の毛が巻きついていたんだ……。怖いでしょ? 母さんも僕も、髪は長くないのに」
葵はテレビでよく見るような、おどろおどろしい怪談の話ぶりを再現しようとしたが、母はあまり動じていないようだった。
「怖いわねえ。長い髪なら、お父さんの幽霊というわけでもないのだろうし」
「だからさ、早く病気を治して帰ってき――」
「そうそう、ひとりで家にいるのが怖いのなら、いいことを教えてあげる!」
葵が励まそうとしたのを遮って、母が妙案を思いついたとばかりに、手を軽く叩く。
「うちの3階に、物置部屋があるでしょう? あなたは入ったことがないと思うけど」
「ああ、いつも鍵がかかっている部屋?」
「そう。夜中の12時きっかりに、そのドアを3回ノックしてみなさい」
母のいう意図がわからず、葵は首を捻った。
「一体どういうこと? トイレの花子さんみたいで、逆に怖いんだけど」
「ふふ、やってみればわかるわ」
母は質問には答えず、ただ悪戯っぽく笑っているだけだった。
○
夜12時少し前、葵は自宅3階にある物置部屋の前に立っていた。
このようなときに限って、廊下の電球が切れている。真っ暗闇の中、スマホのライトだけが頼りだった。
(この家には僕だけしかいないはずなのに、母さんは一体何をさせたいんだ?)
母の悪戯好きは、昔からの悪い癖だ。よく、びっくり箱やパーティーグッズなどで驚かされた。
びっくり箱など時代遅れだと思われるかもしれないが、誕生日にもらったプレゼントをワクワクしながら開けた、いたいけな子どもの気持ちが想像できるだろうか。
今回もきちんとした説明もなしに、何かを仕掛けようとしているのだろう。やれやれと思いながら、葵はここまでやって来た。
しかし、夏だというのに、3階に上がってから、なぜだか妙に肌寒い気がする。
病室での「花子さんみたい」という会話を、葵は急に思い出した。恐怖で、心臓が高鳴る。
(大丈夫だ、僕に霊感なんてないんだから、きっと大丈夫なはずだ……)
自分にいい聞かせながら、画面をチラッと見ると、ちょうど12時を示した。葵は意を決し、ドアをノックする。
コン、コン、コン――。
しばらく固唾を飲んで見守っていたが、何も起こらない。
(そりゃそうだ。やっぱり、母さんに担がれたんだな……。ビビって、損した)
葵がホッとしたような、失望したようなため息を吐いて、踵を返した瞬間だった。
ガチャッ、キイッ――。
背後の扉が、ゆっくりと開いた。葵が慌ててライトで照らすと、ドアの隙間から長い黒髪が垂れさがっていた。
「ない。ご飯は?」
下を向いていたそれが、頭を上げる。垂れさがった髪に隠れて顔だちはよく見えないが、葵を睨んでいるのはわかった。
「うわっ、お化け!!」
葵は一目散に逃げだそうとする。
「こらっ、待ちなさい! 誰がお化けよ!」
お化けは、葵の服を思いきり引っぱって、無理やり静止させた。
葵がもがきながらよく見ると、お化けが来ている白いワンピースの下には、ちゃんと足があった。
「君、もしかして葵? しばらく見ないうちに、大きくなったね」
(親戚のおばちゃんみたいな発言だな……。いや、親戚に会ったことはないけれど)
○
ふたりはとりあえず、明るい1階のリビングまで降りてきた。
リビングにある棚には、家族で撮った写真が飾られている。
幸せそうに笑う写真の中の父、母、自分。やがて、葵が成長すると、パッタリと姿を消す父。
そのうち、ここから母も消えてしまうかもしれない。そのような不安で、葵はここ最近、家族写真を見られないでいた。
しかし、今だけは、家族写真を見た。父の顔を見て深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。
葵は改めて、目の前の女性に向き合った。
(よく見ると、キレイな女性だな)
年齢は、10代後半から20代前半といったところだろうか。透きとおるような白い肌、それと対照的な長い黒髪が美しい、小柄で華奢な女性だった。
ただ、葵はどうしてもこの人物に見覚えがない。一体、何ものなのだろうか。なぜ、自分のことを知っていたのか。そもそも、どうして、この家にいるのか。
葵の頭の中には、いろいろな疑問が渦巻いて、何から聞いていいのか、わからなかった。
それを見越してか、女性が先に切りだした。
「君が部屋に来たということは、恵子さんの身に何かあったの? 今、入院しているはずよね?」
恵子さんとは、母のことだ。
(この人、母さんが入院していることまで、知っているのか……)
葵はますます、わけがわからなくなった。
「母さんは確かに入院はしているけど、別に危篤とか、差し迫った状況ではないよ」
「そう。それならよかったわね。それじゃ」
そっけなくそれだけいうと、女性はあろうことか、そのまま部屋に帰っていこうとする。葵は、慌てて呼びとめた。
「ちょっと待ってよ! 急に出てきて、あんた誰なの? 一体、いつからこの家にいたんだ?」
「……恵子さんから聞いてないの?」
女性は気怠げに振りかえって、不思議そうな顔をした。
「何も」
「ふーん……。まあいいわ、教えてあげる」
女性は俯き、何ごとか考えていたようだったが、やがて顔を上げて、ニヤリと笑った。
「わたしは、ここの家主様よ!」
ドーンという効果音が鳴りそうな感じで、家主がドヤ顔で胸を逸らす。
(この人、態度はでかいけど、胸は小さいな……)
葵は思わず、余計なことを考えてしまった。
「家主って、大家さんってこと? うちって賃貸だったっけ?」
「まあ、少し違うけど、似たようなものよ。恵子さんとは、ある重要な契約をしていてね」
「契約?」
突然出てきた重々しい言葉に、葵は思わず、ゴクリと唾を飲みこんだ。
「そう。あなたたちをこの家に住まわせる代わりに、わたしに手料理を用意するという契約よ!」
「……普通、そこは家賃なんじゃないの?」
葵が呆れた顔で訊いた。
「でも、恵子さんが入院したことで、その契約が反故にされかけている」
家主は、葵を完全に無視して話を続ける。その口調は仰々しく、どこか芝居がかっていた。
「これは由々しき事態よ。いい? ここを追いだされたくなければ、君が恵子さんの代わりに、わたしの食事をつくりなさい!」
キメ顔でビシッと葵を指さす家主。葵が狼狽する。
「え、僕がやるの? 家事はするけど、料理だけは全然ダメなのに」
「別に、クオリティは求めてないから、最初は簡単なもので構わないわ」
話しながら、家主は台所に入りこみ、何やらゴソゴソと棚を漁っている。
「毎晩12時になったら、さっきみたいにドアをノックして、廊下に料理を置いて、去なさい。空になったお皿は廊下に出しておくから、朝になったら回収するように」
家主は、棚の中から見つけたカップ麺に、給湯器で勝手にお湯を注ぐ。そのまま、カップ麺と割り箸をもって、葵に近づいてきた。
「返事は?」
家主がズイッと顔をよせて凄む。息が顔にかかりそうなほどの距離だ。
思わず、葵はドキリとした。
「……はい」
気がついたら、頷いてしまっていた。
家主は返事だけ聞くと満足げに、さっさと階上に消えていった。
「もしかして、スリッパと髪の毛の怪奇現象は、あの人が原因か……?」
○
「……ということがあってさ」
学校に着くなり、葵は仲のよい信也に昨夜のできごとを話した。
佐藤信也とは、父が亡くなって、この街に引っ越してきて以来の仲だ。明るく誰とでもすぐに打ちとける性格で、葵にとっては幼馴染、親友とも呼べる存在であり、よき相談相手でもあった。
「お前、怖がりのくせに、ひとりで3階までよく行けたな! えらいえらい」
「茶化すなよ! 大体、僕は怖がりじゃない!」
「はいはい」
恨めしげに睨む葵を、信也は笑いながら適当に流した。
「結局、名前も名乗らないし、わからないことだらけだよ。もう一度問いつめてみようと思って、今朝、3階に行って声をかけてみたけど返事はないし、母さんにメールしても無視されたし……」
葵は机に突っ伏して、深くため息をついた。正直、お手上げ状態だった。
「なあ、その人、本当に人間なのか?」
「どういう意味だよ」
「いや、廊下に食事を置いておけだなんて、まるでお供えみたいだよな。呼び出し方も普通じゃないし、正体は幽霊とか妖怪だったりしてな……」
「そんなわけないだろ」
そういいつつ、家主のあの血の気のない、真っ白な肌を思い出す。
黙りこくった葵に、信也は慌ててとり繕った。
「冗談だよ。むしろ、お前の母さんが、息子が家にひとりでいるのを心配して、親戚にでも様子を見に行ってもらったとかのほうが、信憑性があるよな」
信也は顎に手を当てて、ようやく真面目な顔をして考えはじめた。
何だかんだ、からかいつつも、信也はいつも誠意をもって、葵からの相談にのるようにしていた。
それは、葵には家庭の事情で、一緒に遊ぶような友だちが少ないことを知っていたからである。家庭のことも含めて相談できる人間は、自分の他にいないことも、薄々わかっていた。
だから信也は、葵からの信頼に応えることこそが、自分の役目だと認識していた。
「でも、僕、今まで親戚になんてあったことがないし、母さんがやりとりをしている人なんて、いないと思うけど」
「だけど、そうでもないと、説明がつかないだろ? まさか、ずっと同じ屋根の下で暮らしていたのに気づかないなんて、いくら何でもありえないだろ?」
「まあ、確かに、親戚なら僕のことを知っていた理由にも、説明がつくけど……」
母はひとり親で子どもを育て、相当苦労してきたはずだ。それなのに、今まで親類縁者の誰にも、頼らなかった。きっと、関係がうまくいっていないとか、自分に教えられない理由がいろいろとあるのだろう。小さい頃から、触れてはいけない空気すら感じていた。それなのに、今さら親戚に頼るのだろうか。
それから、ふたりであれこれ話したが、これといって考えはまとまらなかった。そもそも、状況が異常すぎるのだ。
「こうなったら、直接お見舞いに行って、母さんを問いつめるしかないな……」
○
学校からの帰り、葵は足早に歩いていた。母の入院している病院に行くためだ。
途中、鞄を置きに家によると、見知らぬ中年くらいの女性が呼び鈴を鳴らしていた。
「あの、うちに何かご用ですか?」
「あら、もしかして葵くん? 大きくなったわねえ。おばさんのこと、覚えてない?」
(このセリフ、テンプレ化しすぎてないか?)
葵は思わず、昨日の家主の台詞を思い出してしまった。しかし、葵のことを知っているようだが、この女性にも、やはり覚えはない。
「ああでも、前にあったときは、こーんな小さかったものねえ」
葵が答えられずにいると、女性は勝手に自己完結したようだ。
ただし、葵の当時の大きさを表しているらしいその手ぶりは、人の手のひらくらいの大きさしかなかった。いくら葵が小さかったといっても、そんなに小さいわけはないだろう。
「おばさんね、あなたのお父さん、柊斗さんの妹なのよお」
「父さんの? ということは叔母さん?」
「そうよお。恵子さんに会いたいのだけれど、今入院されているんですってねえ?」
妙に耳障りな猫なで声で話す人だと思いながら、それでも親戚だといわれると無下にはできなかった。
「それなら、これから母の病院に行きますけど、一緒に来ますか?」
「あら、助かるわあ。」
特に警戒の色もない葵の発言に、叔母がニイっと下卑た笑いを見せた。
そして、葵の肩に手を回し、馴れ馴れしく、軽く掴んできた。
「それにしても、立派なお宅よねえ。恵子さん、病気で働けないうえに、入院費や手術費もかかって、大変でしょう? お金が必要よねえ。そうだ、このお宅を譲ってくれないかしら。お金はちゃんとお支払いするから」
「は?」
いきなり、何をいいだすのだろうと思った。タチの悪い冗談かとも思ったが、叔母はいたって真面目に話を続けている。
「そうすれば、まとまったお金が手に入って、家族で安心して暮らせるわよ。葵くんからも、恵子さんを説得してくれないかしら?」
「そんなこと、急にいわれても……」
葵は慌てて距離をとろうとしたが、叔母に肩をがっしりと掴まれてしまっていて、動けなかった。
「あなたも学校に通っているのだし、まだまだお金がかかるでしょう? これはね、お母さんのためなのよ。黙っていうとおりになさい!」
態度を急変させて凄んできた叔母に、葵は恐怖で立ちすくんだ。
肩を掴む叔母の手が食いこんで、痛い。離して、そういおうとしたときだった。
「そうやって、この家を安く買いたたくつもりなんでしょう。前に恵子さんに断られたくせに、懲りないですね」
急に、冷ややかな声が割って入った。いつの間にか叔母の背後に、家主が立っていた。
叔母が驚いて、飛びあがった。それと同時に、葵の肩を掴んでいた手も離れた。
「あ、あなた柚香ちゃん? いやあねえ、買いたたくだなんて」
「葵を丸めこんで、恵子さんを説得しようとしても、意味ないですよ」
「な、なんでそんなことがわかるのよ!」
叔母は、どうしても自分の有利なように、ことを運びたいらしい。家主にも、高圧的な態度を緩めなかった。
しかし、家主も負けてはいない。一歩も引かず、堂々としている。
「だって、この家は、わたしが株で儲けたお金で建てたんだもの」
「へ?」
家主の意外な言葉に、叔母は目を真ん丸にして、すっとんきょうな声をあげた。
(彼女は本当に、ここの家主だったんだ)
ことの成りゆきを見守っていた葵も、驚いていた。
「ああ、もちろん、わたしを説得しようとしても無駄ですよ。葵を脅して利用しようとしたこと、許しませんから」
家主がキッと睨みつける。叔母は青ざめて、そそくさと帰っていった。
葵は胸を撫でおろし、家主に礼を述べた。
「助けてくれて、ありがとう」
葵の言葉に、家主は視線を逸らした。
「別に。たまたま、窓から君が絡まれているのが見えたから、来ただけよ。むしろ、巻きこんで悪かったと思っているわ」
家主は、少しだけ暗い顔をした。
「そんなことない。カッコよかったよ! でも、あの人、家主さんを知っていたみたいだけど、知り合いなの?」
家主は、大きくため息を吐いた。
「あー、やっぱりそれ聞く? いつまでも隠しておけないし、仕方ないかあ」
家主は困った顔をして、頭をポリポリと掻いた。
「実はわたしね、あなたのお姉ちゃんなの」
「は?」
家主の突然の告白に、葵は困惑した。
「え? どういうこと? じゃあ、ずっと一緒に住んでいたの? 僕が生まれる前から?」
「そうよ。わたし、名前は柚香っていうの。父さんは恵子さんとは再婚で、わたしは父さんの連れ子だったのよ」
「そんなこと、全然知らなかった……」
当然といえば、当然かもしれない。
母が息子に、父は再婚だったと、わざわざ伝える必要はない。ましてや、自分はまだ思春期真っ只中の中学生の子どもだ。
いろいろと、憚られることがあったのかもしれない。
「でも、わたしは新しいお母さんに、なかなか馴染めなくてね。間もなく父さんが亡くなって、わたしは引きこもるようになったわ」
柚香は過去を遡るような遠い目をした。
「でも、恵子さんは働きづめで忙しいのに、ちゃんと手料理を用意して、毎日わたしの部屋の前から話しかけてくれた。だから、わたしも、少しでも何か返さなきゃと思ったの」
(だから、母さんは毎日欠かさず食事をつくっていたのか)
葵はようやく納得がいった。契約のためなんかじゃない。母にとって、手料理は最愛の娘との唯一の絆だったのだ。
「それで、試しに株を独学で勉強してやってみたら、思いのほか儲かってね。家族のために、この家を買ったの。そこで、あの契約を結んだというわけ。もちろん、恵子さんひとりのパート代では足りない生活費も、わたしが稼いでいたのよ」
「そうだったんだ……」
何から何まで、葵の知らない話だった。今まで何不自由なく暮らせていたのは、柚香のおかげだったのだ。それを知らなかった己れを恥じつつ、葵は心のなかで、柚香に感謝した。
もっとも、葵が今まで怯えていた怪奇現象は、全て柚香が原因だったわけだが。
本当は、母は子どもをふたりも抱えているのだから、専業主婦に徹してくれても構わないと、柚香は思っていた。母の手料理が食べたくて、また気負わせたくなくて、契約という形にしたものの、それが負担になることもわかっていたからだ。
柚香は、パートにも出なくていいと、母にいった。しかし、母はそれを断った。守るべき子どもに、そこまで背負わせるわけにはいかないという、母なりの矜持があったようだ。もっと頼ってくれてもいいのにと思ったが、しぶしぶ承諾するしかなかった。
「ちなみに、恵子さんがこのことを隠していたのは、多分、最初はほんの悪戯心ね。葵がわたしを覚えていないのをいいことに、実は姉がいたと驚かせるつもりだったんでしょう。でも、なかなか姿を見せないわたしに焦って、昨日のことを企てた」
柚香が、やれやれとばかりにため息を吐いた。ここまで来ると、母の悪戯好きも、筋金入りだ。
「人騒がせな……。母さんとは、頻繁に会っているの?」
「メールでやりとりはしているけど、未だに恵子さんと直接会うことはないわね」
「なんで?」
「もう確執はないけど……」
そこまでいって、柚香は葵から視線を外し、少しモジモジした。
「……あえていうなら、引きこもっていたプライドってやつ?」
葵は呆れた顔をした。
ようは、今さらどのような顔をして会えばいいか、わからなくなってしまったのだろう。会うきっかけがないまま、ズルズル来たらしい。
どうりで、家族写真がなかったわけだ。
「じゃあ、これから一緒に、母さんのお見舞いに行こう」
葵が柚香の手を引く。
「ちょっと、そんな急に……」
「ね? 柚香姉さん」
葵が振りかえって、笑いかけた。姉は驚いた顔をしたが、すぐに照れた笑いを返した。
「もう、しょうがないなあ」
今度は3人で、とびっきりの家族写真を撮ろう。葵は心に決めて、歩きだした。