初めての吸血
こんなにゆったりとしたのはいつぶりだろうか。
湯船に浸かりながら黒髪少女、ナズナは思う。
なぜ彼女が入浴しているのかと言うと、手続きとその他諸々を終わらせた白金の髪の女性、セーラに手を引かれ、彼女の住処らしき屋敷へと連れ込まれたナズナは、新しい主人からお風呂に入るよう促されたからだ。
曰く、血を吸うなら綺麗な身体から吸いたいと。
ナズナは無意識の内に自身の首元に手を添える。
思い起こされるのは、一瞬だけ姿を見せたあの鋭利な牙。
風呂を出たらあの牙に噛みつかれて血を吸われるのだ。
それを思うと――いや、何も思わない。思わないようにする。
首から手を離して、意識を牙から遠ざけた。
何も思わないようにする。
それがナズナの処世術だった。
嫌なことも、苦しいことも、痛いことも……何も思わなければ、何もされてないのと同じ。
不死であるが故に今まで様々な悪意に晒されてきた。
実験と称して体中を弄くり回されたり、理由もなく戯れに嬲り殺されたり。
不死となった日からナズナの日常は安寧とはかけ離れたものになっていた。
それこそこうしてゆったりとお風呂に浸かる時間もない程に。
身体は死なずとも心は死ぬ。
幾度となく与えられた死は、少女の心を摩耗させるのに十分だった。
新しい主人は衣食住の他にも娯楽と安全も与えると言っていたが、過度な期待をしてはいけない。
雨風が凌げる場所にいさせてもらえて、餓死しない程度に食料を与えてもらえれば十分。
これ以上心を殺さないために。
何も思ってはいけない。
何も望んではいけない。
それでも――
「痛いのは嫌だな」
「安心して。とびきり優しくするから」
突然自身の主人の声が聞こえ、キャッっと驚きの声を上げながらナズナの身体がびくっと跳ねた。
「そんな驚かなくていいじゃないか」
ケラケラと人好きのする笑顔を浮かべながら裸体を晒している女吸血鬼は、ナズナが入っていてもまだ余裕のある湯船へと身を下ろした。
そのままナズナのことを後ろから抱きしめた。
「ああ、やっぱり小さい。それに少し細いな――ご飯を食べても体型は変わらないの?」
「変わらないと、思いますけど……その、何でお風呂に」
「私の家だよ? いつ入ったっていいじゃないか」
「そうでなくて! 私入ってるんですけど……それに、その……手が……」
「スキンシップだよ」
悪びれた様子もなく、湯船の中で少女のお腹を撫でた。
細く滑らかな指が腹部を走り、ナズナはこそばゆさに身をよじる。
「ひゃ――」
「いいね。可愛い声だ」
悪戯めいた笑顔を浮べたセーラは逃さないとばかりに抱きしめる腕に力を込めた。
セーラの胸の中にすっぽりと収まったナズナは今まで味わったことのない羞恥に震える。
「あうぁ……」
あわあわと目を回し、手をどこに置いていいか分からずあちらこちらにふらふらさせる。
人の体温に触れるなんて何年ぶりだろうか。ましてや抱きしめられるなんて。
ここ数年人とのコミュニケーションといえば、殴られるか切られるかしかなかったせいで戸惑わずにはいられなかった。
「痛いの嫌なの?」
不意にセーラが口を開く。
ナズナは未だかつて経験したことのない裸のまま抱き合うという行為に脳の処理が追いつかず、主人からの問いかけをよく理解できていないまま勢いよく縦に頭を振った。
ナズナの心は止めどなく湧き出てくる羞恥心と味わったことのない興奮に埋め尽くされ限界ギリギリだった。
そんな少女のことなど知ってか知らずかセーラは続ける。
「そっか。――私も嫌い」
言うと女吸血鬼はそうするのが当然と言わんばかりに自然な動作でナズナの首元に顔を埋めた。
そのまま口づけ一つ。
唇の柔らかな感触に耐えきれず、すでにいっぱいいっぱいだったナズナの脳が爆発した。
ぼんッと一瞬にして顔が赤くなる。
「約束する――痛い思いはさせないって」
女主人が何かしら言っているがナズナの耳には届かない。
感情の許容量は限界を迎えた。
顔どころか全身が熱くなり、ついには耐えきれなくなって――。
「きゅ〜」
爆発した感情が意識を吹き飛ばした。
へんてこな声を上げ目をぐるぐると回す。
糸の切れた人形のようにぐったりとしたナズナは背中を女主人へと預けた。
「あらら、のぼせたか。そんなに風呂入ってないと思うけど……のぼせやすいのかな」
自分の行いのせいとはつゆ程も思っていないセーラは呑気な声をあげると、突然意識を失くした少女を軽々と抱え浴場を出た。
✕
「あ、目が覚めた。どう気分は?」
「……ここは?」
「あなたの部屋」
ナズナが意識を取り戻して一番最初に見たのは、自身を見下ろす主人の顔だった。
いつの間にやらバスローブを着ており、身体はふかふかなベッドに沈んでいる。
頭も何か柔らかいものに乗っているが、枕ではなかった。
枕ならばフカフカとしている筈だ。今彼女が頭を乗っけているものは感触を言葉にするならば、ふにふにって感じだ。
柔らかいが枕とは程遠い。
「……いやいやいや」
起き抜けの頭が次第にはっきりとしだす。
ナズナだってそこまで抜けていない。
自身を見下ろす主人の姿と、柔らかな枕。……それに加えて今までに嗅いだことのない甘い匂いが近くから。
これだけのヒントがあれば、何を枕にしているかなんて明白だ。
俗に言う膝枕。ナズナはその頭を柔らかな太腿の上に乗せていた。
それに気づいて慌てて起き上がろうとしたが、しかしセーラはナズナの額に手を重ねてそれを制す。
「急に起き上がっちゃ駄目だよ。のぼせて倒れたんだから、もう少しこのまま安静にしてるといいんじゃない?」
委ねるような声かけだが、額に添えられている手は退くことなかった。むしろより力が込められ、ナズナを起き上がらせる気は更々ないことを言外に示していた。
仕方がなしに頭を太腿の上におくが、これまた恥ずかしことこの上ない。
ナズナは羞恥に身悶えし、うぅっと小さく唸る。
「どうしたの?」
そんなナズナの様子を不審に思ったセーラはキョトンとした顔で問いかける。
「あなたのせいです」
ナズナは照れ隠しに顔をプイッと背け目を閉じた。
セーラは可愛らしいその仕草に苦笑を一つ浮かべると、追い打ちとばかりに頭を撫で始めた。
顔を赤らめ余計に身を縮こませるナズナ。
しばらくそのままの時間が過ぎた。
慈愛を持って一定の速度で頭を撫でるセーラの手と、照れつつも心地よさげなナズナの吐息。
穏やかな微睡みが二人を包む。
不意にセーラが口を開いた。
「ねぇ、ナズナちゃん」
「なんですか……えぇっと……なんてお呼びしたら」
「なんでもいいよ。セーラちゃんでも、セーラにゃんでも……ご主人様呼びも捨てがたいか……」
「じゃあセーラさん」
そう呼ぶとセーラは「面白くない」と口を尖らせたが、気を取り直して、再度ナズナに呼びかけた。
「ねぇ、ナズナちゃん」
「なんですか、セーラさん」
「血を吸わせて」
その言葉にピクリとナズナの身体が震えた。
「その……どうぞ……」
だが、すぐに首元をはだけさせ、主人が噛みつきやすいようにした。
「首からは吸わないよ、今は」
セーラはそう言うと撫でる手を止めてナズナの襟元を正し、彼女の手を取った。
ナズナの手が女吸血鬼の口へと引き寄せられる。
怪しげな笑みを浮かべたセーラが口を開く。
「怖いでしょ」
「怖くないですよ」
「嘘」
咎めた唇でナズナの手の甲に口づけた。
「…………っ」
唇の甘い感触に、脳が痺れる。
ナズナは重い吐息を漏らした。
口づけは一度では終わらず。
何度も、何度も降り注ぐキスの雨。
キスされていない場所を探すのが難しい程に手のあちらこちらを貪られる。
ナズナの理性は次第にドロドロと溶けていった。
「セー、ラさん……」
「ん? どうした?」
意地悪な笑みを浮べながらキスを続ける。
「なんで、そんな……きす、して……」
「気持ちいいでしょ。それにさ、ほら――」
プツリと何かが千切れる音がナズナの耳に届いた。
遅れて、親指の付け根あたりがじわりと熱を持つ。
噛んでいた。
セーラの口が――あの鋭利で立派な牙が、ナズナの手に噛み付いていた。
だというのに――――。
「痛くないでしょ」
「痛く、ないです」
ナズナの返答に、セーラはフフッと得意げに笑う。
血を吸われているのにナズナの手に痛みはない。
むしろ、その逆。
チロチロと走る舌も、吸い付いてくる唇も、手に穴を開けた牙ですら。
全てが気持ちよかった。その全てに興奮した。
知らず知らず早くなるナズナの呼吸。
吸血鬼は夢中になって血を舐め、こくんこくんと喉を鳴らす。
セーラはなされるがまま、与えられた快楽に身を悶えさせた。
「――っあ、ん……」
少女の口から甘い声が漏れると。
「――――」
つぅっ、と。
セーラの口端から一筋の赤い糸が垂れた。
「ん――」
吸血鬼は少女の手から口を離すと、口元に垂れた血を舐めとった。
そのまま血に汚れた少女の手を舐め始めた。
毛づくろいする猫のようにチロチロと舌が這い回り、血はみるみるうちに綺麗に無くなっていく。
「――ごちそうさま」
後には血どころか、瞬時に再生したため傷一つないセーラの唾液に濡れそぼったナズナの手が残った。
ナズナは、ぼうっと呆けて自身の手とセーラとを交互に見る。
「血、吸いすぎたかな。気分が悪いとかない?」
「……大丈夫、です。ちょっと、ぼうっとするだけ……すぐにもどります」
「ならよかった」
安堵の表情をしたセーラは、ナズナの頭を撫で始める。
ナズナは貧血で頭がよく働いていないことも相まって、優しい手つきがやけに心地よく感じた。
「ん…………」
次第に意識が薄らいでいく。
それを見たセーラは優しく微笑んで。
「おやすみなさい。美味しかったよ、ナズナちゃん」
美味しかったのなら良かった。
ぼんやりとした頭でそう思って……。
ナズナは穏やかな寝息をたて始めた。
×
ベッドの上で目が覚めたとき、ナズナはついに自分は死んでしまったのだ、と思った。
普段だったら地下室の硬い床で寝起きすることが多い。家の中だとまだ良い方で酷い時だと寝ている間に土の中に埋められていたり、死体の山の中で死臭に包まれて寝ることもザラにあった。
だから、こうしてちゃんとベッドの上で寝起きできるのは、死んで天国にでも行ったからだと思ったのだ。
「おはよう。よく眠れた?」
そんな考えは、セーラに話しかけられすぐに消えた。
「おはようございます。はい、とっても」
――そうだ、自分はこの綺麗な女性に買われて屋敷に来たのだ。ここは決して死後の世界じゃない。
ナズナは身体を起こすと、寝ぼけ眼を擦り、自身の手を見る。
昨夜、この手から血を吸われた。
その時のことを思い出すと顔が熱くなる。
今までに感じたことのない気持ちよさ。痛みしか与えられてこなかったナズナにとって、昨夜の色事は言葉にできないほど刺激的だった。
「そんなに良かった?」
まじまじと自身の手を見ているのがおかしかったのだろう。
セーラはからかうようにナズナの手を撫でる。
ナズナはハッとした顔をすると、情事を思い出し、熱くなった顔を冷ますように顔を振った。
そんなナズナを見てセーラは悪戯めいた笑みを浮かべると、顔を少女の耳元まで持っていき。
「昨日、可愛かったよ」
そう囁いた。
「もう!」
この上なく照れたナズナは、赤くなった顔を隠すようにプイッと背けた。
「ふふっ、ほんと可愛いな……」
それを見て面白そうに笑うセーラ。
恥ずかしさに耐えきれなくなったナズナは、からかうのは止めてくださいと抗議しようとしたが……。
そのとき、不意にぐぅとお腹のなる音がした。
ナズナは瞬時にお腹を抑えたが、その音はしっかりとセーラの耳に届いた。
「お腹空いた?」
「……はい」
更に恥ずかしくなったが、隠してもしょうがないことだ。素直に頷く。
セーラはナズナの手を引いて立ち上がると、外に出るよう促した。
「ご飯にしようか。ついでにここで暮らす上で守ってほしいことも説明しようかな」
二人は部屋を出て廊下へと。
「最近あまり掃除とかはしてないから、汚くても許してね」
「……一人で暮らしてるんですか?」
「今は君と二人きりだね」
「……それは……屋敷の中で迷子になったら一貫の終わりですね。誰にも道を聞けない」
「造りは簡単だからそうそう迷子にはならないと思うけど……まあ、どこにいても見つけ出すよ」
「その時はお願いします」
セーラに連れられ廊下を歩いているとナズナはあることに気がついた。
「窓がないですね」
「吸血鬼だからね。日光に当たって灰にならないように、窓の数は減らしてる」
なるほどと頷くナズナを尻目にセーラは続ける。
「守ってほしいルールにも繋がってくるけど、屋敷にあるカーテンはできるだけ開けないでね。開けてもいいけど、用事が終わったらきちんと閉めて。
後、外に出てもいいけど屋敷を囲ってる塀の外には出ないで……って言っても結界を張ってるから許可なく出入りできないけど」
「結界……ですか?」
「自衛の為だよ。恨み買いまくってるからね。ま、滅多に襲っては来ないけど」
「……滅多にってことは、少しはあるんですか」
「年一くらいかな」
事も無げに言うと、とあるドアの前で足を止め、扉を押し開けた。
「ここが厨房。食材は適当に使っていいから。欲しいものがあったら言って。調達しておく。――一応聞くけど料理は?」
「火を通すくらいのことなら」
「まあ、最初の内はそれでもいいけど……確か、料理本があったからそれを見て勉強するといい。私も料理はしたことないから勝手が分からなくてね。教えられないから、自分で好きにやってくれ」
「セーラさんはご飯食べないんですか?」
「血以外身体が受け付けなくてね、からっきし……」
そう言ってから、耐えきれないとばかりにセーラは口に手を当て欠伸を一つ。
見れば目を細めている。眠気を堪えているようだった。
「そろそろ私は寝るよ。屋敷の中の物は好きにしてくれていいから。プレイルームも書庫もあるから退屈はしないと思う」
「今から寝るんですか?」
「吸血鬼は夜行性でね」
とぼとぼとした足取りで厨房を出る。
「隣がダイニングルームだから、料理を作ったらそこで食べるといい」
「ありがとう、ございます」
「ん、おやすみ」
「おやすみなさいませ」
もと来た道を戻っていくセーラを見送る。
てっきりセーラが隣にいてくれるものだと思っていたナズナは、一人になると心寂しく感じた。
「……いやいや、今までずっと一人だったでしょ」
新しい主人に随分と気を許している自分に気がついて頭を振る。
一人が寂しい。今までの自分では考えられない心境に自分でびっくりした。
気を取り直して、一人朝食の準備を始めた。