第4話・問題児 #10
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四木女子高校に入学した日、小学校の同級生・牧野里琴と再会した青山梨花。2人は、梨花の春物のジャケットを買うために、駅前の大型ショッピングモール内にある、衣料品のディスカウントストアにやって来た。初めてのお買い物に興奮する梨花と里琴の2人だが、些細なことで喧嘩をしてしまう。梨花は、里琴を残し、1人、ショッピングモールを出た。そこで、中学時代の同級生・留衣や優真たちにつかまり、人気のない空き地に連れて来られてしまった。
空き地は、昨日降った雨の影響で地面がぬかるんでおり、大きな水たまりがいくつも残っていた。その水たまりのそばに、両脇を抱えられる形で無理矢理立たされる梨花。
「――さて。梨花ちゃんには、まず何をしてもらおうかな」梨花を値踏みするような目で見る留衣。
「そうだねぇ」優真が楽しそうに言う。「今まであたしたちにしてきたことを全部謝ってもらいたいから、まずは土下座かな?」
「ふざけないで。なんであたしがそんなことをしなきゃいけないのよ」梨花は留衣たちを睨みつけたが、威圧することはできなかった。
「ふざけてなんかないわよ? あなたが今まであたしたちにしてきたことを考えれば、当然のことじゃない?」
「はぁ? あたしがあなた達に何をしたって言うの?」
留衣の顔色が変わった。「とぼけないで。あんたのせいで、あたしと優真と恭子は小4の時からクラスでハブにされ、中学では智沙や真奈美たちにパシリみたいにこき使われてイジメられたんだ。この男子3人も同じよ。小学生の時、あんたと喧嘩したばっかりに、あたしたちとお同じ目に遭って来たんだよ」
「ふん、知らないわよ、そんなこと。あたしはみんなに、あなたたちをハブにしろなんて、1度だって言ったことはないわ。みんなが勝手にやったことよ。それに、ハブにされたのは、あなたたちの方に原因があるんじゃないの?」
「何ですって?」
「か弱い女の娘相手に男3人も連れてきて、その上凶器所持だなんて、よくそんな恥ずかしいマネができるわね。そんなんだから、周りの人間に舐められるのよ。自分が底辺なのを、あたしのせいにしないでくれる?」
「ふざけんな!」留衣は男子から金属バットを奪い、地面を叩いた。「底辺底辺うるさいんだよ! 全部、お前のせいだろうが!」
「だから、あたしは何もしてないわよ。あなたをパシリに使ったのは智沙や真奈美でしょ? 恨みを晴らしたいなら、そっちに行けば? ちょうど、そこのショッピングモールにいたわよ?」
留衣は金属バットの先を梨花の顔に向けた。「そんな言い訳であたしたちが納得するとでも思った? 智沙や真奈美も許せないけど、一番許せないのはお前だよ! ボコボコにしてやるから、覚悟しな!」
「ふん、そんな度胸もないクセに」
「なんだと! なめんじゃねぇ!」
留衣がバットを振り上げた。梨花は両腕を優真と恭子に捕まれて動けない。顔を伏せる。
「――ねえ、留衣。話が違うんじゃない?」
誰かが言った。その言葉で、留衣のバットが止まった。梨花は顔を上げる。彩美だった。小学校は梨花と一緒だったが、中学は別だった娘。腕を組んで、不機嫌そうな表情で、留衣を見ている。
「あん? 話が違うって、何が?」留衣はバットをおろし、彩美の方を見た。
「『梨花と話をする。相手は複数で、変なヤンキーみたいなのもいる』って言うから、来てあげたんだ。でも、梨花は1人だし、こっちは武器を持った男子までいる。これで、話が違わないとでも言うの?」
「そんな細かい事、どうでもいいじゃない」留衣は下品な笑みを浮かべた。「彩美だって、梨花に話したいことがあるから来たんだろ?」
「まあね。話があったのは確かだよ。でも、あたしは別に、逆恨みで復讐したいわけじゃない」
「なんだって? あんた、あたしたちが逆恨みしてるって言うの?」
「そうよ。梨花の言う通り、ハブにされたりパシリに使われたのは、あんた達の方に原因があるんじゃないの? あたしも、小学校の頃はクラスのみんなからハブにされて、梨花を恨んでいたけどさ。中学校では、普通にみんなと仲良くやってたよ」
「それは、あんただけが別の中学だったからでしょ?」
「いいえ、違うわ。あたしは、たとえ梨花と同じ中学だったとしても、あんたらみたいにはならなかったよ。絶対にね」
「口ではなんとでも言えるさ。あたしらが、中学3年間でどんな目に遭って来たか――」
「興味無いから聞きたくないわ。あなたたちだけで、勝手にやってちょうだい」彩美は、視線を留衣から梨花に移した。「梨花? 話はまた今度にするよ。あたしは帰るから、まあ、せいぜい気を付けてね」
「いや、できればこの娘たちも一緒に連れて行ってほしいんだけど?」梨花は広場を見回して言った。
「申し訳ないけど、そこまでしてあげる義理は無いね。あたしは梨花のことを恨んではないけど、許してもないから。まあ、安心して。梨花の言う通り、コイツらは所詮底辺だから、暴力事件を起こすような根性は無いよ。無理矢理土下座させて、それを写真や動画にしてネットに流すくらいが関の山だろうさ。そのくらいはやってあげてもいいんじゃない? じゃあね」
そのまま空き地を出て行こうとする彩美を、留衣が追いかけた。「待てよ! 今さら抜けようったって、そうはいかねぇぞ!」
そして、彩美の左肩に手を置いた。
「――汚い手であたしに触らないでくれる?」
彩美は、右手で留衣の手を取ると、肩から引きはがした。そのまま前に引っ張り、同時に足を払い、そして、前のめりになった留衣のお腹を、左手で上に押し上げる。すると、留衣の身体がふわっと浮き上がり、空中で一回転して、すとん、と、地面に座らされるような格好で着地した。
何が起こったのか分からず、ぱちぱちと瞬きする留衣。
格闘技は全くの素人の梨花にも分かった。今のは、彩美が留衣を投げたのだ。それも、怪我をしないように、軽く。相当な実力がないとできない芸当だろう。いつの間に彩美はこんな武術を習得したのだろう。小学校の時の彩美は、留衣たちと同じ普通の女の子だったはずだ。ならば、中学の3年間で習得したのか。そう言えばさっき彩美は、「たとえ梨花と同じ中学だったとしても、あんたらみたいにはならなかった」と言った。それは、いじめられないために格闘技を習ったということだったのか。
彩美は、蔑むような目で留衣を見下ろすと、フン、と鼻で笑って、そのまま空き地を出て行った。
「くそ! てめぇ! 覚えてろよ! てめもそのうちヤッてやるからな!!」
彩美の姿が見えなくなってから叫ぶ留衣。いかにも底辺らしい行動だな、と、梨花はもはや感心すらしていた。
「何笑ってんだてめぇ!」立ち上がり、バットを振り上げて向かって来る留衣。しかし、威嚇するだけで、振り下ろす気配は無い。
「笑ってないわよ。あんたらみたいな底辺に絡まれて、泣きたい気分なんだから」梨花は大きくため息をついた。
「バカにしやがって……ホントにヤッちまうぞ!」
「あなたたちにヤル気が無いのはもう十分伝わったわ。何もしないなら、時間のムダだから、さっさと放してよ、ね?」
顔を真っ赤にしてまたバットを振り上げる留衣だが、やはり振り下ろす勇気は無いらしい。大きく深呼吸すると、何もせずバットを降ろした。「……まあ、あんたみたいなヤツをボコって警察沙汰になるのも、確かにつまらない話だよね」
「いかにも底辺らしい言い訳だけど、まあ、賢明な判断だと思うわ。拉致したことは特別に許してあげるから、さあ、放しなさい」
「誰が放すもんですか」留衣は肩にバットを置いた。「こっちこそ、特別に土下座だけで許してあげるわ。『今までヒドイ目に遭わせて申し訳ありませんでした!』ってね。もちろん、ちゃんとケータイで取ってあげるからね」
梨花は大きくため息をついた。このバカは、それなら警察沙汰にならないとでも思っているのだろうか? 暴力をちらつかせ無理矢理土下座をさせただけで、強要罪という罪に問われる。あれだけネットで話題になっているというのに、そんなことも知らないのだろうか? 本当にどうしようもない底辺どもだわ。でも、困ったわね。いくらコイツらのしていることが罪になるとは言え、全てが終わった後警察に捕まえてもらっても遅いのだ。コイツらに土下座するなどゴメンだ。
「おら! 早くするんだよ!」
留衣は、右手で梨花の髪を掴んだ。そのまま、地面の水たまりに押し付けられた。泥水の味が口の中に広がる。身体が異物を拒否し、吐きだそうと激しく咳が出る。顔を上げようとしても、両脇を優真と恭子押さえつけられていて、できない。
留衣は梨花の顔面をしばらくグリグリと水たまりに押し付けた後、引き上げた。激しく咳き込む梨花。
留衣は、泥水まみれの梨花の顔を満足げに眺める。「ははは。いいザマだねぇ、梨花ちゃん。さあ、ちゃんとセリフも言いなよ? 『今までヒドイ目に遭わせて申し訳ありませんでした』って、言うんだ」
「誰がそんなこと――」
再び泥水に顔面を押さえつけられる梨花。どんなに暴れても、どうにもならない。悔しかった。情けなかった。
留衣が顔を引き上げる。「……あれぇ? 梨花ちゃん、ひょっとして泣いてる?」
梨花は咳き込みながら言う。「ふざけ……ないで……誰が……泣いて……」
しかし。
梨花の目に溜まっているのは、目からこぼれ落ちたのは、決して、泥水ではなかった。
涙が出ている。泣いている。あたしは、こんなヤツら相手に涙を流している。
「やったぁ。クラスの女王様だった梨花を、泣かせてやったよ」ケラケラと笑う留衣。「でもね、あたしたちが6年間受けた屈辱は、こんなもんじゃないんだよ!」
また泥水に押さえつけられる。泣くものか。こんなヤツら相手に、泣くものか――どんなに思っても、涙は止まらない。悔しい。情けない。
留衣は梨花の髪の毛を引っ張り、頭を上げさせる。「梨花、あたしは情けないよ。あんたなんて、親が金持ちなだけの、ただのボンボンじゃん。親に捨てられ1人になったら、もう何もできやしない。なんであたし、今まであんたみたいなヤツに怯えてたんだろ? ホント、自分が情けなくて、涙が出て来るよ」
「うるさい!」梨花は、留衣を睨みつけた。だが、その目にはもう、なんの力も宿っていなかった。
留衣は勝ち誇った笑みを浮かべる。「ふふ、あんたも、ホントはとっくに気付いてるんだろ? 自分が、孤独な人間なんだって」
「うるさい……うるさい!」
梨花は叫んだ。黙らせたかった。両腕は掴まれている。動くのは口しかない。でも、口で黙らせることはできなかった。
「今まであんたの周りにいた大勢の人間はもういない。親に捨てられたあんたなんて、なんの価値もないんだよ。だから、あたしらの前で泥水を飲まされている。それが、今のあんたの立場なんだ」
「うるさいうるさいうるさい!」
聞きたくなかった。耳を塞いでしまいた。だが、それすらもできない。自分の声で相手の言葉をかき消そうと、ただ叫び続ける。
「あんたは、あたしらのことを笑えない。あんたも、あたしらと同じ、底辺なんだ。でもね、それは、親に捨てられたからじゃない。あんたは、元々底辺だったんだ。あんたには、最初から何も無いんだよ!」
「……う……うる……さい」
叫ぶ気力もなくなった。留衣の言う通りなのは、梨花自身にも分かっていたのだから。
「ああ、気持ちいい! ちょっとは、今までの憂さが晴れたわ。まだ全然足りないけど、とりあえず、ありがとうね、梨花ちゃん」
留衣は掴んでいた梨花の髪を放した。優真と恭子も両腕を放す。ガクンと、崩れ落ちるように座り込む梨花。逃げる気力は、もう無かった。
「あら? やっとおとなしくなったみたいね。感心感心。じゃあ、さっきのセリフは、もういいからさ、ちょっと、別のことやろうか?」
もう、どうでも良かった。今のあたしには、コイツらにもてあそばれるのがお似合いだ。
「そうだねぇ。せっかく男子を呼んだんだから、この子たちも楽しませてあげてくれる?」
留衣は、さっきから手を出さずニヤニヤして見ているだけの男子3人を指さして言った。
楽しませる? 何を? 分からない。
留衣は、下卑た笑みを口元に浮かべ、言った。「そのコート、高かったんじゃない? ゴメンね、泥だらけにしちゃって。制服とか、下着とかも、ビチャビチャなんじゃない? 着替えさせてもらったら?」
はっと、顔を上げる梨花。何を言っているのか分からない。分からないが、本能的に両肩を抱き、身体を隠した。怯えた顔で、留衣と、男たちを見る。
「いいねぇ! その表情! そそるよ!」留衣はスマートフォンを取り出し、梨花に向けた。「さあ、始めてちょうだい。ちゃんと録ってるからね」
男たちは、互いに顔を見合わせた後、留衣に言った。「おい、ホントに、いいのか?」
「もちろん。汚れた服を脱がせた後は、しっかりと、全身綺麗にしてあげなさいよ?」
「じゃ、じゃあ、遠慮なく」
3人の男は、寒気がするほど下品な笑みを浮かべ、梨花に近づいてきた。
「……やめて……来ないで……来ないでぇ!!」全てを見下した梨花はもういない。1人の怯えた女の娘になってしまった梨花は、地面を這い、泥だらけになりながら、少しでも獣から逃れようともがく。だが、逃れられない。男が、両手に、足に、そして、コートに手を掛けた。叫んだ。心の底からの叫び声。誰にも届かない叫び声。自分は1人なのは、もう分かっていた。叫んだところで、誰も助けに来るはずもない。コートが脱がされた。叫ぶ。叫び続ける。その口を押さえられた。もともと誰にも届かない叫び声すら完全に失ってしまった。制服の上着に、スカートに、手を掛けられた。叫ぶこともできない。心の中で叫ぶ。叫び続ける。助けを求める。誰か――誰か助けて!!
「――や……やめろ!!」
静かな路地裏の空き地に響く声。
留衣が振り返り、優真たちが振り返り、男たちが振り返り。
そして梨花も、声の方を見た。
――――。
神様は、決してあたしを見捨ててなんかいなかった――そんなことを思う。
四木女子高校の制服の上に、虎の刺繍がされたスカジャンを着た、背の高い女生徒――牧野里琴。
里琴は空き地の中に入ると、6人を睨みつけた。「梨花ちゃんを、は、放せ」
恐れていた人物の登場に、留衣は少し動揺した表情になった。しかし、すぐに平静を装い、みんなに言う。「大丈夫だよ。相手は1人。こっちは6人で、そのうち3人は男子。武器もあるし、いくらヤンキーでも、ビビッて手を出せやしないよ。その証拠に、アイツ、しっかり喋れてないじゃないか」
「そ、そうだよね」優真たちの顔にも笑みが戻る。
留衣は1歩前に出て、金属バットの先を里琴に向けた。「今いいところなんだから邪魔しないでもらえる? あんたも、同じ目に遭いの?」
その言葉が、梨花の耳に強烈な響きで飛び込んできた。あたしと同じ目に遭う? こんなに恐ろしい思いを、里琴もするというの? 他の人なら知ったことではなかったが、何故だろう? 里琴には、自分と同じ目には遭ってほしくなかった。さっき、ショッピングモールで八つ当たりしてしまった申し訳なさからかもしれない。だから言った。「ダメ! 里琴! 来ちゃダメ! 逃げて!」
梨花が言った名前を聞いて、留衣が顎に手を当てる。里琴? 誰だっけ? そんな表情。
里琴は、梨花を安心させるためか、にっこりと笑った。「し、心配……い……いい……いいいいいいいいいいいらない。梨花ちゃん、すぐ行く」
その喋り方で、留衣は思い出した。「お前、小学生の時の、どもってたヤツか!」
それで、優真たちも思い出した。互いに顔を見合わせ、そして、笑い始めた。
完全に余裕が生まれた留衣。「えーっと、里琴ちゃんだったっけ? 久しぶり。どうしたの、その恰好? いくらこの街が田舎だからって、今どきその恰好は無いでしょ? チョーウケるんですけど」
みんなで一斉に笑う。
梨花は里琴に向かって行った。「里琴、あたしのことはいいから、早く逃げて、誰か呼んできて」
梨花の言葉を聞き、留衣は舌打ちをする。誰かを呼ばれるとさすがにマズイと思ったのだろう。里琴に向かって言った。「行かせないよ。あんたも、ここにいるんだ。じゃないと、梨花をもっとヒドイ目に遭わせるよ?」
バットを梨花に向ける。里琴は動こうとしない。それに安心したのか、留衣の顔にまた笑顔が戻った。
梨花はさらに言う。「いいから、早く行きなさい。あたしのことはいいから!」
里琴は首を横に振った。「だだだだだだだだ大丈夫、り、梨花ちゃんを、た、たったったったたたたたすけるから」
一瞬の静寂の後、再び広場は笑いに包まれる。「コイツ、子供の頃と全然変わってないじゃん!」「だだだだだだだだだだだだだだいじょうぶ!」「たたたたたたたたたたたたすけるから!」「やめてよ、チョーウケるんですけど!」
――笑うな!
そう叫びたかったが、それよりも先に出てきた言葉があった。「あなた……なんでそんな、あたしのために」
里琴は。
「だ……だ……だっだっだだだだだだって……」
決して、口で伝えることが得意ではない里琴が。
「り、梨花ちゃんは、あああああああああああああたし、の」
何度もつっかえながら、何度も笑われながらも、言う。
「たったったったたたたたたいせつな、とととととととっとっとっと友達だから!」
――大切な、友達。
それは、決して流暢な口調ではなかったけれど。
その言葉は、確かに、梨花の元に届いた。
あたしのことが、大切な友達――?
その言葉を言われたのは初めてではない。中学の同級生の智沙や真奈美には、何度も言われた。ここにいる留衣たちにだって、小学生の時は言われた。それはただの言葉の上でのことだ。心まで届いたことは1度もない。
しかしそれは、梨花が子供の頃からずっと、誰かに言ってもらいたかった言葉だ。うわべだけではない。心の底から言って欲しかった言葉だ。
だが、その言葉を、留衣たちが、笑う。
「ゴメン! 全然何言ってるのか分かんないんですけど!」
「だだだっだっだっだっだだだだああああってってってっててててああああああたあああしいいいんのおおおお!」
「や……やめて……お腹痛い……あたし……死んじゃう……」
「たたたたたたたたたたたたたたいせつな、ととととっとっとっとっとおとととととととおもおだあちいいいいい!」
「里琴ちゃん。なんかスゴイ大切なこと言ったみたいだけど、全然伝わらなかったから、もう1回、『やめろ! 梨花ちゃんを放せ!』から、やり直してみようか?」
「そこから始めるの!? あと何テイク必要なのよ!?」
「しょうがないでしょ。じゃあ、いいいいいいいいいいいいいいいくよ!」
「留衣! 大変! うつってるうつってる!!」
「ていうか、いいかげんしっかり喋ってよ。ホント、昔っから、気持ち悪いヤツだわ」
里琴は、ただ黙ってその場に立っていた。何も言い返さず、言われるがままになっていた。
あたしは一体、何をしているのだろう?
里琴が、笑われている。
理不尽な理由で、笑われている。
あの娘は言い返せない。言い返すことができない。笑われるしかない。
あたしはそれを、黙って見ているの?
あの娘はあたしのことを、大切な友達と言ってくれた。
じゃあ、あたしにとってのあの娘は何? 智沙や真奈美と同じ、うわべだけの友達なの? ただ利用するだけの友達なの? 違うだろ! あの娘は、あたしにとっても大切な友達。だったら、どうして黙って見ているの? あの娘を護ってあげられるのは、あたししかいないだろ!
梨花は――。
「――笑うな」
小さく言った。
「あん? なに?」
留衣が、こちらを振り返る。
どこに、そんな力があったのか。
梨花は、両手両足を捕まえていた男子を振り払った。
そして、走る。
「あたしの友達を! 笑うなあ!!」
心の叫びと共に。
留衣を、思いっきり、突き飛ばした。
いつかの公園のように、情けなく尻餅をついて倒れる留衣。水たまりにつっこみ、制服が泥まみれになった。
「……な……何すんだコノヤロウ!!」
子供の時とは違う。留衣は泣いたりしない。鬼の形相で立ち上がり、梨花の頬をひっぱたいた。梨花にとって、誰かにひっぱたかれたなど人生で初めてだ。だが、痛くなんかなかった。逆に、両手を振り上げ、留衣に打ち付けた。殴るというほどのものではない。梨花に殴り合いのケンカの経験などあるはずもなく、ただ、めちゃくちゃに両手を振り回しているだけだ。
「笑うな! 笑うな! 里琴のことを、笑うなあ!!」
瞳いっぱいに涙を溜め、まるで駄々をこねる子供のように、何度も何度も両手を打ちつける梨花。みっともないとは思っていない。ただ、里琴が笑われるのが許せなかった。
「……いい加減にしろ!」
留衣が、梨花を突き飛ばした。梨花も水たまりの中に倒れる。だが、里琴を思う気持ちは消えない。鋭い目で、留衣を睨んだ。
「……な……なんだその目は!」
バットを振り上げる留衣。
そこへ、里琴が走って来る。
振り下ろされたバットが、梨花に触れる瞬間。
里琴の蹴りが、バットを吹き飛ばした。
くるくると回転したバットは、べちゃりと、水たまりの中に落ちた。
「な……なにすんだてめぇ!」留衣が右手を振り上げた。
だが、留衣の手のひらよりも早く、里琴の左手が、留衣の顔を押した。殴ったのではなく、軽く押しただけだ。それだけで、留衣はのけ反って後退し、また水たまりの中に尻餅をついて倒れた。
里琴はそぐそばにいる男子を見た。突然のことで何が起きているのか理解できていない男子。里琴は右足を振り上げた。男子の頭よりも高い位置まで上がった足は、男子の脳天に落ちてくる。右の踵落とし。男子は、崩れるように倒れた。
別の男子生徒に向き直る里琴。左手を前にして右半身を引き、小さく前後に身体を揺らしながら構えた。その男子はようやく状況を理解したのか、竹刀を構える。しかし、剣道にも喧嘩にも慣れていないことがひと目で分かるへっぴり腰だ。それでも竹刀を振り上げ、向かって来る。里琴は左半身を前に出す構えから、右半身を前に出す構えに変えると、右足を左から右へ振り上げ、かかとで竹刀を弾いた。そして、返す勢いで男子の側頭部にハイキックを打ち込む。がくん、と崩れ落ちる男子。
里琴は最後の男子に向かって行く。梨花の制服に手を掛けようとしたヤツだ。すでに戦意を失ってガクガク震えているだけだが、里琴は容赦しなかった。まずは顔面に左から右のジャブを打ち込むと、左を軸足に右足を上げ、まるでフラミンゴのような1本足立ち。そのまま蹴りを打ち込むかと思いきやそれはフェイントで、すぐに右足を降ろして右のジャブ、怯んだところをお腹に右の前蹴りを入れ、続いて相手のひざを蹴る。そこから軸足を右に変え、左のハイキック、さらには左でお腹を蹴った後、また軸足を左に変え、右のハイキックから、最後に踵落とし――要するに、目にも止まらぬコンビネーションで、最後の男子もノックアウトしてしまった。
あっという間に留衣と男子3人を蹴散らした里琴。残った優真と恭子は、里琴がひと睨みしただけで、腰を抜かしてへなへなと座り込んだ。
里琴は大きく息を吐き出すと、構えを解いた。
そして、梨花の方を見て、笑った。「り、梨花ちゃん、だだだ……(梨花ちゃん、大丈夫だった?)」
「あ、えーっと」いきなりのことにぽかんとしていた梨花は、我に返る。「ま……まあ、大したことは、無いわ」
「そ、そう……(そう、良かった。立てる?)」里琴は、梨花に右手を差し出した。
「え、ええ」梨花は里琴の右手を握り、立たせてもらった。「あなた、めちゃくちゃ強いじゃない。どうしたの? 何? 今の技」
「あああ……(あれは、テコンドーっていう格闘技。中学に入ってから習った。こんな格好してると、結構変な人に絡まれること多いから、護身用)」
思わず梨花は吹きだした。「だったら、最初からそんな格好しなきゃいいじゃないの」
里琴は頷いた。「ででで……(でも、結構気に入ってる)」
「……そのセンスは、直した方がいいわね」
そうして2人は、しばらく笑い合った。
笑うのをやめ、梨花は、倒れている留衣を見た。
里琴も留衣を見る。「り、梨花ちゃん……(梨花ちゃん、コイツらどうする? 警察呼ぶ?)」
少し考え、梨花は首を振った。「……いいわ。やめておく。いろいろ訊かれても面倒だし。それに――」
「そ、それに?」
「今なら、コイツらの気持ちも、少しは分かる気がするの」
「…………?」
不思議そうな顔をする里琴の横を通り、梨花は、留衣の前にしゃがんだ。「留衣、中学の時、智沙や真奈美があなたにしたことは、悪かったって思う。あたしがあの2人にそうしろって言ったわけじゃないけど、あなたの言う通り、悪いのはあたしだわ。でも、あたしは謝らないわよ? あなただって、あたしのそばにいた時は、他の子に同じことをやってたでしょ? 小4の時あたしとケンカしなかったら、あの後もずっとやっていたはずよ? だから、自業自得だわ。あたしはあなたに謝らない。でも、あなたもあたしに謝らなくていいよ。あたしが今日こんな目に遭ったのも、自業自得だと思うから」
留衣はじっと梨花の目を見ていたが、やがて目を逸らした。「けっ。それでいいこと言ってるつもりなのか? 結局は、いつもと同じ上から目線じゃねぇか」
「そう? まあ、そうかもね」梨花は笑って立ち上がった。「じゃあ里琴、行きましょう」
空き地を出ようとする梨花。
しかし、里琴は動かず、留衣の前に立ち尽くしたままだ。
「――里琴?」梨花は振り返る。
里琴は、留衣を見下ろし、たどたどしい口調で言った。
「あ、ああああたしの、とととっとととっとともだちに、てってってっててをだしたら、ゆ、ゆるさないからな」
――あたしの友達に手を出したら、許さないからな。
梨花は、そっと。
里琴の背中を抱きしめた。
「――ありがとう、里琴」
本当に素直に、心の底から、言うことができた。
「……梨花ちゃん?」
振り返ろうとする里琴を、ぎゅっと抱きしめて止める。「ば……ばか、こっち見るな」
そして、里琴にバレないよう、そっと涙を拭い。
「さあ、帰りましょ。早くお風呂に入りたいわ。超特急で、送ってちょうだい」
里琴と2人で、空き地の外へ出た。
☆
――――。
――そうよ。
いつだって里琴は。
あたしのピンチには、駆けつけてくれるんだから。
梨花が、そう思ったと同時に。
「――り、梨花! 待ってて!」
――ほらね。
梨花は、声のした方を見た――。