第4話・問題児 #03
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小学4年生の青山梨花のクラスに、うまく喋れない少女・牧野里琴が転校してきた日。梨花は、友達との約束を破り、大学病院に入院しているお父さんのお見舞いに行った。お見舞いが終わり、まだ家に帰りたくない梨花がアテもなく街をぶらぶらとしていると。
「――ねえねえ里琴ちゃん、そのワンちゃんも、里琴ちゃんみたいに、変な鳴き方するのぉ?」
病院から少し離れた住宅街にある小さな公園で、聞き覚えのある声がした。見ると、今日梨花の家で遊ぶはずだったクラスメイトの留衣たち4人と、おかしな喋り方の転校生がいた。転校生は、胸にブラウンの子犬を抱いている。
「あれ、鳴かないね。おとなしい子なのかな?」留衣は子犬に、おもちゃでも見るような目を向けた。「ちょっと、あたしに貸してみて?」
留衣が子犬を奪い取ろうとするが、転校生は身をよじって拒否した。
「えー? 貸してくれないの? ケチだなぁ」留衣はおもちゃを見る目を転校生に変えた。「じゃあ、里琴ちゃんが鳴いてみてよ、『わわわわわわわわん』って」
留衣が里琴の喋り方をマネすると、優真たちが笑った。やはり、それの何がおもしろいのか、梨花には分からない。
転校生はうつむき、唇を噛んでいた。何か言い返せばいいのに、と、梨花は思ったが、あの話し方では、言い返してもかえって笑われるだけだろう。なんであんな喋り方になるんだろう? と考えて、ふいに、帰る前に下級生が言っていた言葉を思い出した。
――あれは、吃音症という、言語障害のひとつでぇす。この前、本で読みました。病気みたいなものだからぁ、笑っちゃダメですよぉ。
障害というのがどういうものかまだよく分かっていない梨花だったが、病気のようなものという下級生の言葉で、それはバカにしてはいけないものなんだと思った。ちょうど、お父さんが病気になった途端悪口を言い始めたお父さんの部下や母親の姿と重なったのだ。
「ちょっと、何か言ってよ。つまんないでしょ?」
ヘラヘラと笑う留衣たちが無性に腹立たしくなってきた。梨花は走って転校生の所に行き、留衣たちがこちらに気付くよりも早く、思いっきり、留衣を突き飛ばした。情けなく尻餅をついて倒れる留衣。最初なにが起こったのか分からず目を丸くして驚いていたが、公園の土で汚れた服と、擦りむいた肘と手を見て、泣き出してしまった。
「留衣ちゃん、大丈夫!?」優真が転んだ留衣を抱き起し、そして、梨花を睨んだ。「ちょっと梨花ちゃん、なにするの!?」
梨花は里琴を護るように立ち、腕を組んで、留衣たちを見下ろすような恰好で言った。「ふん。あなたたちがこんなつまんないことして喜ぶ子だとは思わなかったわ」
「つまんないことって、あたしたちはただ、里琴ちゃんと遊んでただけだよ? 梨花ちゃんが、今日は遊べないって言うから」
「そう? じゃあ、他の遊び相手を探しなさい。この子は、あたしと遊ぶから」梨花は、後ろの里琴を見た。「あなた、里琴ちゃんだっけ? 今からあたしの家に来ない? まだお店で売ってないおもちゃがあるから、一緒に遊びましょ」
もちろん梨花は、本当に里琴と遊びたいわけではなった。留衣たちが一番怒りそうなことを言ってやっただけだ。
「梨花ちゃんヒドイ! あたしたちとは遊べないって言ったのに、その子とは遊ぶの? あたしたち、友達なのに!」彩美が言った。
「友達? あたしはあなたたちのことを友達だなんて思ったことはないけど? あなたたちだって、本当はあたしと遊びたいんじゃなくて、あたしのおもちゃで遊びたいだけじゃない」
「梨花ちゃん、そんな風に思ってたの? ヒドイよ!」恭子も泣き始めた。
「みんな、行こう!」優真が留衣を立たせる。そして、梨花に向かって言った。「梨花ちゃんがそんなヒドイ子だと思わなかった。明日、みんなに言っちゃうから。どうなっても知らないからね!」
4人は泣きながら公園を出て行った。どうなっても知らない? 梨花は、明日、優真たちがこのことをクラスメイトに言ったらどうなるかを想像してみた。別に、どうもならない。あの4人は、クラスでは権力を持っている。給食の重い食器の運搬や、掃除のゴミ捨てといった面倒な仕事を他の子に押し付けたりしているのを、梨花は知っている。クラスのみんな、あの4人には逆らえないのだ。しかしそれは、梨花と仲がいいから得られた権力である。だから、あの4人が梨花をハブにしようと言ったところで、従う子などいるはずもない。みんな、あの4人よりも梨花と仲良くなりたいと思っているのだ。そんなことも分からないほどバカだったのか、と、梨花は呆れた。梨花は学校の成績は悪かったが、こういう知恵は不思議と身についていた。
「あ……ああ……あああああああ……」
後ろで里琴が何か言おうとしていた。振り返り、梨花は里琴の言葉を待った。
だが、里琴は地面に目を落とし、小さな声で言った。「……なんでもない」
その様子に少しイラッとした梨花だが、それはガマンして、代わりに言った。「えーっと、里琴ちゃん。どうする? あたしの家、来る? ここからじゃ、ちょっと遠いけど」
別に里琴と遊びたいわけではないが、来てくれれば、恐らく今日も家にいるであろうお母さんの知り合いの若い男が帰るから、梨花としても助かる。
しかし、里琴はうつむいたまま、首を振った。そして。「いっいっいっいっいきたいけど……もう、おおおおおおおおおおお……」だが、やはり途中でやめる。「……なんでもない」
イライラがマックスになり、我慢できずに言った。「ああ、もう! イライラするわね!」
「ごごごごごごごごめん」謝る里琴。
「勘違いしないで。あなたの喋り方がイライラするんじゃないの。言うのを途中でやめるのが、イライラするのよ」
梨花がそう言うと、里琴は申し訳なさそうに目を伏せていた。
梨花は、1度大きく息を吐き、そして、できるだけ優しい口調で続けた。「あたしは、あなたの喋り方を笑ったりしないわよ。どんなに時間が掛かっても、最後まで聞いてあげるから。言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさい」
里琴は顔を上げた。どうしようか迷っているような表情だったが、やがて、口を開いた。「いいいいいいいいいきたいけど……(行きたいけど、もう遅いし、迷惑になるといけないから)」
「そんなこと、別に気にしなくていいけど」とは言ったものの、公園の時計を見ると、もうすぐ5時だ。ここから梨花の家は少し遠い。梨花はいくら遅くなっても別に構わないが、里琴の家の方は心配するだろう。だから、それ以上誘うのはやめておいた。梨花は、里琴の胸に抱かれた子犬を見た。「それ、あなたの犬?」
里琴は横に首を振った。「すっすべり、だだだだだ……(すべり台の下の、ダンボール箱にいた。『可愛がってください』って、書いてあった。捨て犬)」
「どうするの? 家で飼うの?」
里琴は頷いた。「おおおおおおおお……(お母さんに相談してみる。たぶん、飼ってくれる。あたしもお母さんも、犬、大好きだから)」
「そう。なら、良かった。名前は? 何にするのか、決めてあるの?」
「な……なまえ……」里琴は空を見上げ、少し考えた後、言った。「――マリリンちゃん」
梨花は、その時初めて、里琴の笑顔を見た。そして、つっかえることなくすんなり言葉が出てきたのも、その時が初めてだった。
子犬は、里琴の小さな両手の上にも十分乗るくらいの小ささだった。里琴が言うには、生後1ヶ月くらいの、ポメラニアンという犬らしい。里琴が頭をなでると、嬉しそうに尻尾を振って、小さな声で鳴いた。その姿を、里琴は「かわいい」と言ったが、動物に興味が無い梨花は、特に可愛いとは思わなかった。
「ところで――」子犬をなでる里琴を見ながら、梨花は言う。「あなたのその喋り方って、なにかの病気なの?」
里琴は梨花を見て、困ったような顔になった。「え……びょ……びょうき……(え? 病気なのかな?)」
「学校で、下級生が言ってたわよ? なんとか……っていう、病気みたいなものだって。誰が言ったのかは分からなかったけど。病院とか、行ってないの?」
里琴は首を横に振った。「いっいっいっ……(行ったことない。病気とか、考えたことも無かった)」
「お母さんは、なんて言ってるの?」
「おおおおおおお……(お母さんは、落ち着いて話せば、大丈夫だって)」
「でも、落ち着いてても、ダメなんじゃない?」
里琴は頷いた。「だだだだ……(ダメ。落ち着いてても、うまく喋れない)」
「でも、さっきの犬の名前は、ちゃんと言えたじゃない」
里琴は頷いた。「いいいいい……(言える言葉と、言えない言葉がある。あいうえお、かきくけこ、たちつてと、が、特に言えない。後、つっかえるのは、言い始めの言葉だけ。言ってる途中の言葉はつっかえない。途中で言うのをやめると、またつっかえる)」
「ふーん。不思議ね。やっぱりそれ、病気なんじゃないかな。1度、お母さんに相談してみたら? ちょうど、そこに大きな病院があるから、大体の病気は、直してくれると思うよ」
里琴は頷いた。「わっわかった……お……お……(分かった。お母さんに言ってみる)」
こうして、梨花は里琴の話を聞いてあげた。里琴が話すのは時間がかかったが、不思議と、それでイライラすることはなかった。さっき自分で言った通り、言いかけて途中でやめる方がイライラするのだ。だから梨花は、例え里琴の言いたいことが途中で分かっても、口を挟まず、最後まで聞いてあげた。
「り……りかちゃんって、かっかっかっか……(梨花ちゃんって、変ってるね)」
「うん? 変ってるって、なにが?」
「あ……あ……(あたしの喋り方、笑わない)」
「当たり前じゃないの。別に、おかしくないんだから」梨花は、当然のように言った。
「でっでっで……(でも、みんな、あたしの喋り方はおかしいって、笑ったり、バカにしたりする)」
「それは、相手の方が悪いの。そんなヤツら、ブッ飛ばしてやればいいのに」
「でっでっで……(でも、ケンカとか、怖いし)」
「そう? だったら、なにか、特技を身に付けるといいんじゃない?」
「とっとっとと……(特技?)」
「そう。喋るのが苦手なら……例えば、作文をうまく書くとか、絵を上手に描くとか。そうすれば、バカにされることも無くなるかも」
「そ……(そうかな? がんばってみる)」
「そうね」
「とっとっと……(ところで、梨花ちゃん。明日、大丈夫?)」
「ん? 大丈夫って、なにが?」
「あああ……(あの4人、怒ってた)」
「ああ、留衣ちゃんたちね。別に、ほっとけばいいわよ。どうせなにもできやしないから」
「そ……(そうなの?)」
「ええ。あなたも、あの子たち以外でも、他に喋り方を笑う子がいたら、いつでもあたしに言いなさい。ブッ飛ばしてやるから」
「ぶ……ぶ……(ブッ飛ばさなくてもいい。かわいそう)」
「そう? じゃあ、みんなには、あなたのことは笑わないように言っておくわ。みんな、あたしの言うことは、大体何でも聞くから」
「す……(スゴイね、梨花ちゃんって)」
「別に、大したことはないけど」そう言いながらも、梨花はまんざら悪い気分ではない。
里琴は、公園内の柱時計を見た。「そっそろそろ、かっかっか……(そろそろ帰らないと、お母さんに叱られる)」
梨花も時計を見た。6時を過ぎている。梨花としてはまだ帰りたくない時間だったが、普通の小学4年生なら、そうも言っていられない。もうすぐ陽が暮れる時間だ。「そう? じゃあ、また明日ね」
里琴は頷いた。「ま……また……(また明日)」
里琴はマリリンちゃんを抱き、梨花に背を向けた。梨花も帰ろうとしたが、里琴が振り返ったので、梨花は立ち止まる。「うん? どうかした?」
「ああああああの……ききききき……」
里琴が何か言おうとしているので、梨花は何も言わず、里琴の言葉を待った。
「きききききょうは、ほ……ほんとに、ああああありがとう、りかちゃん……はなしを……きっきっきっききいてくれて……ああああああたし、うっうっうっうれしかったよ」
――ありがとう、うれしかった。
それは、おもちゃを遊ばせてあげた子からはよく聞くが、おもちゃ以外のことではあまり聞いたことが無い言葉だった。梨花は、自分の顔が赤くなっていくのが分かった。恥ずかしくて、顔を背けた。
「ばいばい!」そう言って、大きく手を振る里琴。梨花は、小さく手を振り返した。里琴は、小走りで帰って行った。
……変なヤツ。
梨花も、家に帰ることにした。
次の日、クラスメイトの留衣たちは朝早く登校し、みんなに昨日の公園での出来事を話して、梨花と里琴を無視するように言っていたようだった。しかし、梨花の予想通り、従う子はいなかった。逆に、これをチャンスとばかりに、みんなが梨花に話しかけてきた。ここで梨花に気に入られれば、梨花のおもちゃで遊ぶことができる。梨花にしてみれば、おもちゃで遊ぶ子など別に誰でも良かったので、言い寄って来た子の中から適当に数人選んで、今日家に遊びに来るように言った。選ばれた子はすごく喜んだ。ありがとう、うれしい、そう言ってくれた。昨日の里琴と同じ言葉だが、昨日のような恥ずかしさを感じることはなかった。
そして梨花は、みんなに、里琴の喋り方は病気だということを説明し、笑わないようにキツく言った。ちょうど、留衣たちが梨花に嫌われた原因が里琴の喋り方を笑ったことだったので、これは、本当に効果てきめんだった。その日から、里琴のことを笑う子はいなくなった。
または梨花は、里琴の喋り方のことを先生にもちゃんと話した。梨花の話を聞いた先生は、インターネットや本などで調べ、吃音症という症状を知った。それを、ホームルームの時間に、きちんとみんなに説明してくれた。同時に、里琴の親とも話をしたようだった。
先生の話もあり、里琴は病院に通うことになった。しかし、症状が改善されることはなかった。吃音症の原因はまだ詳しく分かっておらず、治療法も確立できていない。治る人もいるが、治らない人の方が多いらしい。
しかし里琴は、そのことで落ち込んだりはしなかった。里琴にしてみれば、障害だということが分かっただけでも大きな前進だった。何より、クラスメイトに笑われたりバカにされたりしないのが初めてだったのだ。みんな、里琴の言うことをきちんと最後まで聞いてくれる。だから、このまま治らなくてもいいとさえ思っていたようだった。
また、里琴がクラスメイト以外の子と話したり、学校の外で大人の人と話したりするとき、梨花は、里琴の代わりに言いたいことを言ってあげるようにした。その方が話が早いし、里琴も笑われない。
あっという間に1学期が終わり、2学期が終わった。里琴の家で飼うことになったポメラニアンのマリリンちゃんはそれなりに大きく成長した。梨花の父親は無事意識を取り戻し、回復して仕事に復帰した。母親は、相変わらず自宅に若い男を連れ込んでいた。
3学期になり、担任の先生が、里琴と一緒に黒板の前に立ち、言った。3月いっぱいで、里琴は県外の学校に転校することになった。親の仕事の都合で、毎年春には転校しているらしい。
3学期が終わり、梨花の引っ越しの日。転校した先でまたみんなからバカにされるのを不安がる里琴に、梨花は、出会った日と同じことを言ってあげた。喋るのが苦手なら、何か他に特技を見つけなさい。そうすれば、バカにされることは無くなる、と。
里琴と、そして里琴の両親は、梨花に何度もお礼を言って、引っ越して行った。こんな風に大人の人にまでお礼を言われたのは、生まれて初めてだった。
しかし、梨花にとって、牧野里琴は、あくまでもクラスメイトの1人に過ぎなかった。ただ、父親の件もあり、病気の人をバカにするのが許せなかったので、面倒を見てあげただけだ。里琴が転校後、何度か手紙のやり取りをしたが、半年もするとそれも無くなった。小学校を卒業するころには、里琴のことなど、すっかり忘れていた。
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