第4話・問題児 #02
吃音症。
それが、牧野里琴の症状だ。言語障害のひとつとされている。症状は人によって様々で、発音時に最初の言葉を引き延ばして発したり、なかなか出てこずに無音状態が続いたりといった症状がある。牧野里琴の場合、最初の言葉が連続して出て来ることが多く、特に、ア行とカ行とタ行で症状が出やすい。
吃音症の原因は詳しく解明されておらず、治療方法も明確には確立されていない。牧野里琴は子供の頃から病院に通っているが、現在に至るまで、症状が改善されることはなかった。
青山梨花が牧野里琴と出会ったのは8年前、小学4年生の春だった。転校生だった里琴は、朝、みんなの前で簡単な自己紹介をした。名前を言うだけなら症状は出なかっただろう。しかし、名前の後に「よろしくお願いします」と言おうとして、「お」の所で症状が出た。吃音症は、現在でも一般的にはあまり知られていない。8年前の子供たちには、それは、恰好の笑いの種になった。
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「ま……牧野里琴です……よ……よろしく……おおおおおおおおおおおおおおおねがいします」
転校生が挨拶を終えると、一瞬、教室はしんとなり、その後、大きな笑い声に包まれた。転校生は、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「はいはい。みんな、笑っちゃダメよ」担任の若い女性教師が、パンパンと手を叩きながら言う。「牧野さん、ちょっと緊張しちゃったのかな? 落ち着いて、もう1回言ってみようか?」
先生が里琴の顔を覗き込む。しかし、里琴は小さく首を振った。
「そっか。じゃあ、席に着いてください」
先生は空いている席を示した。青山梨花の席からは、3つほど離れている。里琴は、クラスメイトの誰とも目を合わせようとせず、小走りで席に着いた。クラスのみんな、里琴の方をチラチラと見ている。お調子者の男子が小さな声で今の里琴の挨拶をマネし、クスクスと周りの子が笑った。里琴はただ、恥ずかしそうにうつむいているだけだった。
朝の会が終わり、1時間目の授業が始まる前の10分の休み時間。里琴の周りには、たくさんのクラスメイトが集まっていた。「どこから転校してきたの?」「勉強と運動、どっちが得意?」「好きなマンガはなに?」次々と質問され、里琴は戸惑っていた。やがてクラス委員が、「そんなに1度に言ったら、里琴ちゃん答えられないよ。質問は、1つずつ」と言い、最初の質問は、どこから転校してきたのかになった。里琴はためらっていたが、1度、大きく深呼吸をしてから言った。
「い……いいいいいいいいいいいいいいいいばらぎけん」
一瞬しんとなり、また、教室が笑いに包まれる。「里琴ちゃんなんでそんな変なしゃべり方するの?」「緊張しないで、ゆっくり喋っていいんだよ」「いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいばらぎけん!」笑い声と共にいろんな声が飛び交う。里琴は苦笑いをして、恥ずかしそうにうつむいた。
青山梨花は自分の席に着いたまま、盛り上がるクラスメイト達を冷めた目で見ていた。みんな里琴の喋り方を笑っているが、不思議と、梨花にはそれの何がおもしろいのかが分からなかった。ただ、変な子が転校してきたと思っただけだ。また、いつもはクラスの話題の中心にいるのは自分であるはずなのに、それが別の子になったことを、少なからず不満に思っていた。
その日は休み時間のたびにみんな里琴の周りに集まり、里琴に無理矢理何かをしゃべらせ、そして、笑っていた。女子が「落ち着いて喋れば大丈夫だよ」と言い、それでも喋れなくて笑う。男子が大袈裟にマネをし、それを見て笑う。そんな様子がクラスの外にも広がり、放課後には他のクラスや学年からも、わざわざ里琴を笑いにやって来ていた。
「あれは、吃音症という、言語障害のひとつでぇす。この前、本で読みました。病気みたいなものだからぁ、笑っちゃダメですよぉ」
下級生の1人がそう言っていた。もちろん、笑うのをやめる子はいなかった。梨花は帰る支度を整え、ランドセルを背負い、1人で教室を出ようとした。
「あ、梨花ちゃん、帰るの? 待って」
梨花が帰るのを見て、留衣という少女が慌てて帰り支度を始める。それに続き、優真、恭子、そして、彩美と、普段梨花と仲が良い3人も支度を始めた。4人とも、今日は1日中転校生につきっきりで、彼女のことを笑っていた。
「あ、ゴメン。今日あたし、お父さんの所に行くから、1人で帰る」梨花は、そっけない口調で言った。
「ええ? 今日は、梨花ちゃんの家で、新しいおもちゃ見せてくれる約束だったじゃん!」優真が不満げに言う。
「そうだっけ? ゴメン、忘れてた。また今度ね」そう言って、梨花は足早に教室を出た。4人は残念そうな表情で、梨花を見送った。
本当は、忘れてなどいなかった。今日は、留衣たちと5人で新しいおもちゃで遊ぶ約束で、梨花も楽しみにしていた。梨花の父親は、地方を中心に広くおもちゃ店のチェーン展開をしている会社の社長だった。仕事一筋で家庭を顧みることは少なく、おもちゃを与えることが1人娘への愛情表現だと思っているような人であった。だから、梨花の家には、話題のおもちゃや人気のおもちゃはもちろん、限定生産の珍しいおもちゃや、発売前のサンプル品といった、社長の立場だから手に入ったおもちゃも沢山あった。今日、留衣たち4人に見せるはずだったおもちゃは、まだ発売前の物を特別に手に入れたものである。今日はみんな朝からその話題で盛り上がると梨花は思っていたのだが、おかしな転校生に話題を奪われてしまった。特に、留衣たち4人は、今日1日1度も声をかけて来なかった。
――ふーんだ。留衣ちゃんたちなんて知らない。今度、別の子と遊ぶもんね。
梨花は、今日留衣たちに見せるはずだったおもちゃを、次に誰と遊ぶかを考えていた。家におもちゃがたくさんある梨花は、それだけでクラスの人気を独占していた。みんな、梨花と遊びたがったが、梨花の方は遊ぶ子を選んでいた。最近よく遊ぶのはさっきの留衣たち4人だったが、別にあの4人のことを特別好きだというわけではない。梨花と遊びたがる子は沢山いる。今日のように梨花の機嫌を損ねた子は、梨花の遊びたい子のリストから外され、また新たな子が選ばれるのである。
学校を出た梨花は、家とは逆方向の道を歩いた。留衣たちと遊ぶ必要が無くなった梨花は、本当にお父さんに会うつもりだった。お父さんは今、会社にはいない。学校から10分ほど歩いたところにある大きな病院に入院している。2週間前、仕事中に突然倒れたのだ。仕事のしすぎだ、と、周りの人が言っていたのを、梨花は覚えている。一時はかなり危険な状態で、家族や親せき、会社の人たちがたくさん病院に駆け付けたが、なんとか峠は越え、今も意識は戻らないものの、容体は安定していた。
病院は、梨花が通う小学校の何倍も広い大学病院だった。10階建ての入院棟へ向かう。建物に入ると、受付のお姉さんが笑顔で迎えてくれた。何度も通っているので、すっかり顔なじみとなっている。本当は来院カードという物に名前や住所などを記入しないといけないが、梨花は特別に顔パスが許されていた。お姉さんから来院バッジを受け取り、エレベーターに乗る。お父さんの入院しているのは最上階の10階だ。背伸びしてギリギリ届く10のボタンを押し、10階に上がる。お父さんの病室の前では、スーツを着た男の人が携帯電話で話していた。梨花に気付くと話を中断し、
「やあ、梨花ちゃん、こんにちは」
と、笑顔で迎えてくれた。
梨花のお父さんは仕事で家にいることはあまりなかったが、結婚式や、いろいろな会社が主催するパーティーなどに、よく梨花を連れて出席していた。そのおかげで、梨花は会社の人とも面識があった。この人は、お父さんの部下の川口という人だ。お父さんが信頼している部下の1人で、梨花も、お父さんが倒れる前は大好きだった。今はもう、好きではない。お父さんが入院して以来、川口は、電話やお見舞いに来た人に、「ワンマン」とか「若いくせにやり方が古い」とか「あの人に任せていたらいずれ会社はダメになる」というようなことを言っているのを、梨花は聞いていた。幼い梨花には意味はよく分からなかったが、とにかく、お父さんの悪口を言っているというのは、なんとなく分かった。お父さんが病気になる前はいい人だったのに、病気になった途端悪口を言う。梨花には、それが許せなかった。梨花は、「こんにちは」と、そっけない口調であいさつを返し、病室へ入った。
「あら、梨花ちゃん、こんにちは」
病室に入ると、別の人が迎えてくれた。新田という女の人だ。
梨花はこの日、初めて笑顔になった。「こんにちは」
新田は、お父さんの秘書をしている。ほとんど毎日お父さんのお見舞いに来てくれており、廊下の川口のようにお父さんの悪口も言わない。この人は、お父さんの入院前から、今も変わらず梨花の好きな人である。
病室は、梨花の家のリビングと寝室を合わせたくらいの広さだ。個室としてはかなり大きな方である。部屋の中の設備も、ベッドやテレビや冷蔵庫はかなり高級なものが備え付けられてあり、他にも、クローゼット、ソファー、テーブルなどがあり、まるで高級ホテルのようなつくりである。
梨花はソファーにランドセルを置き、部屋の奥のベッドで眠っているお父さんの側へ行く。入院した時はたくさんのチューブやコードで繋がれた姿を部屋の外からガラス越しに見ているだけだったが、今はこうして同じ部屋で会うことができる。チューブやコードも、口と腕に何本かつけられているだけだ。
「お父さん、梨花だよ?」
梨花の声に、お父さんは応えない。しかし、病院の先生から、「お父さんは眠っていても梨花ちゃんの話はちゃんとは聞いているかもしれないから、いっぱい話しかけてあげてね」と言われていたので、梨花は、最近学校であったことをたくさん話した。
「――梨花ちゃん? お菓子とジュースがあるから、食べない?」
新田がテーブルの上にケーキとオレンジジュースを用意してくれた。梨花は喜んでソファーに座り、ケーキを食べた。
「他にもお父さんへのお見舞いのお菓子がたくさんあるから、好きなものを持って帰っていいからね」
新田の言葉に、梨花は「うん!」と笑顔を返した。梨花は、新田とお喋りしながらケーキを食べた。
食べ終えた後のお皿とグラスを新田が片付け、そして、梨花の方を見た「――梨花ちゃん。あたし、会社に戻らないといけないから、そろそろ行くね」
「じゃあ、あたしも帰る」梨花はランドセルを背負った。
「ゆっくりしていけばいいのに」新田が少し残念そうな顔になる。
新田がいてくれれば梨花もそうしただろう。お父さんは意識が戻らないので話していてもやっぱり寂しいし、ここに1人でいると、時々知らない人がお見舞いに来て気まずい雰囲気になるのもイヤだった。
2人で廊下に出る。川口はまだ電話をしていた。新田が目で「会社に戻るけど、どうする」と訊いた。川口は「先に戻ってて」という視線を送ってきたので、梨花は新田と2人で1階に下り、入院棟を出た。家まで送ろうか? という新田の申し出を断り、病院の駐車場で新田と別れた梨花は、病院を出て、さて、どうしようかと迷う。病院を出たものの、別に早く家に帰りたいわけではない。どこかで時間を潰せないだろうか。大きな病院だから中に図書館があるが、梨花は字ばかりの本は読まない。梨花の家はお金持ちだが、母親から貰っているおこづかいは他の子とあまり変わらなかったから、喫茶店などのお店には入れない。いろいろ考えたが結局いい考えは思い浮かばず、梨花は仕方なく、なるべく遠回りをして帰ることにした。
梨花が家に帰りたくない理由は母親だった。梨花のお母さんは、さっき病室の前にいた川口と同じように、入院後、お父さんの悪口を言うようになった。いや、正確には、以前から悪口を言っていたが、入院後はさらに酷くなったと言った方が正しい。そして最近は、毎日機嫌が良かった。理由は、よく家に来てお母さんとお話をする知らない若い男だった。お父さんの入院前から時々その男の姿を見ていたが、入院後は、ほとんど毎日家に来るようになった。家に泊まっていくことさえある。ある夜、梨花がお母さんの部屋に行くと、ベッドの上でお母さんとその男が裸で抱き合っていた。梨花には2人が何をしているかは分からなかったが、とにかくお母さんがすごく怒っていたので、逃げるように部屋に戻った。それから梨花は、お母さんがキライになった。お母さんと一緒にいる若い男もキライになった。その男はどういうわけか、梨花が家に友達を連れて来ると、コソコソと帰って行った。だから、梨花は家に友達を呼ぶことが多くなった。友達が家に来ない日は、今日のようにお父さんをお見舞いしたりして、なるべく外で時間を潰してから帰ることにしていた。
特に目的もなくブラブラと歩いていると。
「――ねえねえ里琴ちゃん、そのワンちゃんも、里琴ちゃんみたいに、変な鳴き方するのぉ?」
病院から少し離れた住宅街にある小さな公園で、聞き覚えのある声がした。見ると、今日梨花の家で遊ぶはずだったクラスメイトの留衣たち4人と、あの、おかしな喋り方の転校生がいた。
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