第3話・教師 #11
大野美津子は、保健室のベッドに横になり、じっと、天井の一点を見つめていた。体育館での出来事を思い出す。あれは、一体なんだったのだろうか?
大野は、計画通り、体育館倉庫に穂波杏1人を誘い出すことに成功した。そして、鉈で両手両足を斬って動けなくし、ゾンビに襲わせた。これで、穂波杏はゾンビに襲われて死ぬ、もしくは、ゾンビの仲間入りをするはずだった。
しかし、穂波杏は生きていて、大野に襲い掛かって来た。ゾンビになったわけではない。顔にはいつもの狂気じみた笑顔を浮かべており、ゾンビのような深い緑の顔色も、血の涙を流す赤い目もしていなかった。身体に、ゾンビに咬まれたような跡も見当たらなかった。あれはどう考えても、ゾンビに襲われなかったとしか思えない。そんなことがあり得るのか? ゾンビは、生きている人間は必ず襲う。ゾンビに襲われないのであれば、それは人間ではないのではないか? では、穂波杏の正体は何だったのだ? あの時、向かって来る穂波に向かって、大野は鉈を振り下ろした。鉈は穂波の頭に深々と刺さり、それで、穂波は倒れた。恐らく、その一撃で死んだのだろうが、大野には、また穂波が立ち上がって来るのではないかと思えた。だから、何度も何度も鉈を振り下ろした。だが、穂波はいつの間にか消えていた。あれだけ鉈を振り下ろして生きているとは思えないが、穂波杏は人間ではないのだ。安心はできない。
だが、愛が、その件は茉優に任せたと言っていた。茉優はボクシング部員で戦闘能力が高いから、任せておけば安心だろう。今は穂波よりも、青山梨花たちが問題だ。南校舎玄関でゾンビの群れに襲わせて殺すつもりだったが、まさかあの状態から脱出するとは思わなかった。4人の戦闘能力がそこまで高いとは、完全に計算違いである。梨花たちを殺しそこなったことはもちろん大きな痛手だが、私が生徒を殺そうとしたことがみんなに知れ渡ってしまったことは致命的なミスだ。北原愛だけは、悪いのは私ではなく穂波たちだということを理解してくれたが、他の生徒はどうか分からない。梨花にそそのかされて、私を殺しに来るかもしれない。そうなる前に、なんとかしなければ。
保健室に誰か現れた。北原愛だろうか? 見ると、保健の斉藤先生だった。
「大野先生」斉藤先生は大野先生の顔を覗き込んだ。「生徒から聞きました。大丈夫でしたか?」
「斉藤先生、ご心配をおかけしました」大野は、恥ずかしさを隠すように笑う。「私は特に怪我はしていません。大丈夫ですよ」
「そうですか。なら、安心しました」斉藤先生は頷き、そして、椅子に座った。「……それで、どうだったんですか? 穂波さんは?」
大野は、一瞬迷った。穂波のことを話すべきだろうか? 私が穂波さんを殺害することを決意できたのは、斉藤先生の助言によるところが大きい。しかし、斉藤先生はあくまで、私に芥川龍之介の『羅生門』の一節を暗唱させただけだ。見方によっては、私がそれを自分勝手に都合よく解釈して行動を起こしたようにも見えるだろう。
そんな大野の心の内を見透かしたように、斉藤先生は声を潜めて言う。「――大丈夫ですよ。穂波さんを殺すことを提案したのはあたしです。いまさら、言い逃れしようなんて、思ってませんから」
「いえ、そういうわけでは……」
「生徒たちは近くにいませんから、安心して話してください」
そう言われ、大野は今回の出来事を全て話した。
話を聞き終えた斉藤先生は、いつものように机の上に右手を乗せ、トントンと、指で机を弾いた。「……そうですか。では、穂波さんの事は、恐らく大丈夫でしょう。やはり、問題は青山梨花さんたちでしょうね。こちらも殺意を見せたことで、相手もこの先、なりふり構わず襲い掛かって来るでしょう。大野先生。油断は、しないでください」
大野は頷いた。「ええ。分かっています」
「それと……北原愛さんの事も、信用しないでください」
「え? それは、なぜでしょうか? 愛さんは、私の言うことを信じてくれました。私は悪くない。悪いのは穂波さんだって、分かってくれたんです」
「大野先生。それが、愛さんの作戦なんですよ。大野先生を信用したふりをして、油断したところを、襲ってくるつもりです」
「そんな!? 愛さんは、そんな人ではありません!」声を上げる大野。
「静かに! 声が大きいですよ」顔の前で人差し指を立てる斉藤先生。「愛さんたちに聞こえます」
「しかし、愛さんが私を襲う、というのは……とても、信じられません」
斉藤先生は、大野先生を指さし、言った。「ではなぜ、大野先生は、ベッドに拘束されているんですか?」
「拘束? 何を言っているんですか? 私は拘束なんてされて――」
自分の姿を見て、大野は驚いた。
斉藤先生の言う通り、大野は、両手、両足、腰の部分を、ベルトのようなものでベッドに固定されてあった。引っ張ってみるが、ベルトは頑丈で、ビクともしない。いつの間に、こんなものを……? 斉藤先生を見た。
「だから、言ってるでしょう?」斉藤先生は満足気に微笑んだ。「愛さんは、信用できません。大野先生を騙して、いつか、襲ってくるはずです」
そんなはずはない、と、否定したいが、今のこの状況を見れば、否定する根拠は何も無かった。まさか、愛さんまで私を裏切るなんて。これでは、生徒たちは、みんな私の敵ではないか。
「斉藤先生……私は、どうしたら……」大野は、唯一動かせる頭を斉藤先生に向ける。
斉藤先生は、哀れな大野を励ます力強い口調で言う。「慌てないでください。チャンスを待つんです。拘束されていると言っても、ずっと、というわけではなりません。食事やトイレなど、拘束を解かなければいけない時は沢山あります。その時を狙うのです」
「でも、こうしている間にも、誰かが襲ってくるかもしれません」
「それは、少しの間なら大丈夫でしょう。愛さんが大野先生をすぐに殺さなかったのは、何か企みがあるからだと思います。ですが、その企みが何であるか分からない以上、行動を起こすのは、なるべく早い方がいいですね」
斉藤先生は、薬品棚の引き出しを開け、中から手術用のメスを取り出した。通常保健室には無い物だが、アウトブレイク後に、誰かが病院から調達したのである。
斉藤先生は、取り出したメスをベッドの布団の下に隠した。「いざという時には、コレを使ってください」
「斉藤先生、ありがとうございます」
「いいえ。私にはこんなことしかできませんが」そう言って、斉藤先生は笑った。
大野は、斉藤先生の笑顔を見つめた。そうだ。斉藤先生の言う通り、愛さんは信用できない。信用できるのは、斉藤先生だけだ。「――斉藤先生が生きていてくれて、本当に良かったです」
「生きている? 当然です。私は、死んだりしませんよ」
「ですよね。さっき体育館で、梨花さんたちが言ったんですよ。斉藤先生は、ゾンビになって死んだって」
「何を言ってるんですか? あたしがゾンビになって死んだのなら、ここにいるあたしは、何なんですか? まさか、幽霊だなんて言うんですか?」
「いや、そんな。梨花さんが、私を騙そうとしたのでしょう」大野は笑った。
「そうです。みんな、大野先生を騙そうとしているんです。決して、誰も信用してはいけませんよ?」
「分かっています」大野は、力強く頷いた。「ところで、斉藤先生。最近、食事はちゃんとしていますか?」
「食事、ですか?」斉藤先生は少し驚いた表情。「なぜ、そんなことを訊くんですか?」
「あ、いえ。ちょっと、斉藤先生の顔色が悪いような気がして」
大野は斉藤先生の顔を見た。大野の目には、斉藤先生の顔色が、随分青白く映っていた。まるで生気を感じない。そのことが、さっきからずっと気になっていたのだ。いや、それだけではない。もっと、気になることがある。だが、さすがにそれはバカバカしいので、言わなかった。
斉藤先生は、どこか不気味さを感じる笑顔を浮かべる。「そうでしょうか? そんなことはないと思いますけど。大野先生の方こそ、疲れているんじゃないですか?」
「そうですね、そうかもしれません」大野は、自分を納得させるように言った。そうだ。私は疲れているのだ。だから、少し目がおかしいのだろう。斉藤先生の顔色が青白く見えたり、斉藤先生が少し透けて見えたり、斉藤先生の足がよく見えないのは、疲れているせいなのだ。
廊下の方で声がした。北原愛たちだ。
「……愛さんたちが戻って来たみたいですね」斉藤先生が言った。「あたしはもう行きます。大野先生は、少し、お休みになってください」
「そうですね。そうします」
「くれぐれも、生徒たちを信用してはいけませんよ」
そう念を押し、斉藤先生は消えた。部屋を出て行ったのではない。本当に、幽霊のように消えてしまったのだ。そう言えば、さっき斉藤先生が部屋に現れたときも、扉が開閉した気配は無かった。いきなり現れたのだ。だがそれも、疲れているからそう見えただけだろう。
それにしても、北原愛には、すっかり騙されるところだった。斉藤先生がいなければ、騙されていただろう。やはり、誰も信用できない。信用できるのは斉藤先生だけだ。それ以外はみんな敵。みんな、私の命を狙っている。私を殺そうとしている。その前に、私はみんなを殺さなければならない。私は自分の命を護らなければならない。そのためならば、殺すこともやむを得ないのだ。見ていろ。私は死なない。私は生き残る。そのために、みんな殺す。どいつもこいつも、私を殺そうとするやつは、みんな殺してやる。
「……くけけ……」
大野は1人、狂気じみた笑い声を洩らした。
(第3話・教師 終わり)




