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第3話・教師 #09

 穂波杏に殺されると確信した大野は、生きるために、悪に手を染める決心をした。すなわち、自分が殺される前に、相手を殺す。


 しかし、それは決して容易なことではない。相手は格闘技やスポーツなどは特に何もしていないひ弱な小娘だが、その辺は自分も変わらないだろう。相手は仲間が多いから、正面から戦えば、殺されるのは自分だ。何か策を用意しなければいけない。


 6時間目が終わるまでに、大野はすべての準備を整えた。本当はもっと策を練りたかったが、そんな時間は無い。相手はいつ襲ってくるか分からないのだ。今夜眠っている間に殺されてしまう可能性だって十分にある。生き残るためには、今日中に決着を付けなければいけない。


 6時間目終了のチャイムが鳴る。放課後の時間帯だ。大野は教室へ向かった。教室にはまだほとんどの生徒が残っていた。教室の一番奥に、青山梨花たちのグループが集まっていた。青山梨花と穂波杏、葉山未衣愛、山口万美、そして、虎の刺繍がされたスカジャンを着た見るからに不良少女という風体の生徒・牧野里琴。いつもこの5人で行動している。この5人相手に大野1人で戦っても勝ち目はない。特に、牧野里琴が厄介だ。格闘技に疎い大野にはよく分からないが、テコンドーという格闘技の達人だそうだ。他の人も油断はできない。穂波を殺すなら彼女が1人の所を狙うのが1番だが、そう都合よく1人になったりはしないだろう。


 だが、今回の作戦なら、むしろ5人一緒にいてくれる方が好都合だった。大野は教室に入った。


「あ、大野先生。大丈夫ですか? 横になってなくて?」


 心配してくれる生徒に「大丈夫よ、ありがとう」と微笑み返し、大野はまっすぐに梨花たちの方へ向かった。


「……何か用ですか?」


 梨花が、めんどくさそうな視線を向けた。怪我をしている教師をいたわる気持ちは無いらしい。


 大野は言った。「梨花さん、ちょっと、お話があるの。一緒に来てくれないかしら?」


「話? 何の話ですか?」


 大野は、他の生徒を気にするように周囲を見回し、小声で言う。「ここでは、ちょっと。大事な話なの」


 梨花は怪訝そうな表情をして、仲間たちと顔を合わせた。仲間たちも、なんの話か分かるはずもなく、首をひねるだけだ。


 再び大野を見る梨花。「……あたし1人ですか?」


「そんなことはないわ。むしろ、みんな一緒に来てくれた方が、いいかもしれないわね」


 梨花たちはまだ怪しんでいる表情だったが、みんな一緒なら、と思ったのだろう。大野について、教室を出た。


 ……よし。安堵する大野。ここまでは、作戦通りだ。だが、すぐに気を引き締める。梨花のグループだけを誘い出すのは、少なからず危険であることは分かっている。全員で襲われたら、ひとたまりもない。しかし、穂波以外の4人は、大野に対して敵意や不信感は持っていても、まだ殺意までは持っていないはずである。5人一緒ならば、穂波も安易に攻撃してこないだろう。


 大野の予想通り、梨花たちはおとなしくついてきた。大野は5人を連れ、南校舎の正面玄関へ向かった。


 南校舎の玄関は、手前の防火シャッターが下ろされていて、校舎側から入ることはできない。2週間前の、宮沢玲奈がこの学校に転校してきた日、彼女が誤って防犯アラームを鳴らしてしまい、大量のゾンビが押し寄せた。牧野里琴やボクシング部の西沢茉優がゾンビと戦ったが、数があまりにも多く排除しきれなかったため、玄関を放棄し、防火シャッターを下ろしたのだ。


「……こんなところで、なんの話があるんですか?」腕を組み、不信そうに言う梨花。


 大野は、向こう側の様子を伺うように防火シャッターに耳を当てる。「……おかしいわね。さっきは、確かに聞こえたのに」


 そのまま耳を当て向こう側を伺い続ける大野に、梨花はイライラ感を募らせていく。「先生。あたしたちもヒマじゃないんです。用が無いなら、もう行きますけど?」


 大野はシャッターから耳を離した。「ゴメンなさい。さっき、子犬の鳴き声が聞こえてきたんだけど、気のせいだったのかしら」


 その瞬間、梨花の目の色が変わった。「まさか、マリリンちゃん!?」


 思った通りだ。大野は、笑みがこぼれるのを必死で抑える。「ええ。そうじゃないかと思って、梨花さんに知らせたんだけど……」


 マリリンちゃんとは、梨花が飼っているという子犬である。アウトブレイク後にはぐれたらしく、ずっと探しているようだ。2週間前、宮沢玲奈が校舎の外で見かけたという話を聞いた時も、血相を変え、危険を冒して探しに行こうとしていた。


「早くシャッターを開けて! 本当にマリリンちゃんなら、早く助けないと!」


 大野の思った通り、梨花は話を疑うことなく食いついてきた。


「ちょっと待ってよ、梨花」葉山未衣愛が止める。「この向こうはゾンビだらけなんだよ? 危ないから、みんなを呼んで来るか、せめて、武器でもないと」


「そんなことしている間に、マリリンちゃんが逃げちゃったらどうするの!」完全に冷静さを失っている梨花。


 大野はみんなに向かって言った。「梨花さんの言う通り、みんなを呼びに行っている間にマリリンちゃんが逃げてしまうかもしれない。すぐに探した方がいいわ。ゾンビは大丈夫だと思う。玄関が占拠されたのは2週間も前だし、もう、ほとんど外に出てるはず。少しは残ってるかもしれないけど、こっちには、里琴さんがいるし」


 梨花たちが里琴を見た。里琴は、無言で頷いた。未衣愛たちも、同意するしかなかった。


「じゃあ、開けるわよ」


 壁のボタンに手を掛ける。梨花たちが頷いた。大野はボタンを押した。ガシャン、と音がして、シャッターがゆっくりと上昇していく。50センチほど上がったところで止めた。向こうへ行くならこのくらいで十分だし、ゾンビの知恵ではこの高さをくぐることは難しいだろう。向こう側を確認する。周囲にゾンビはいないようだ。里琴が最初にシャッターを潜り、梨花たちが続く。最後に、大野も潜った。ゾンビが3体こちらに気付いて向かって来たが、里琴の蹴り技であっさりと倒された。


「マリリンちゃん!? マリリンちゃんどこ!? いるなら、返事をして!?」迷子を探す母親のような梨花。だが、出て来るのはゾンビばかりだ。全て、里琴が排除する。やがて、ゾンビは出て来なくなった。


「どこかに隠れているのかも……みんな、手分けして探して!」梨花が玄関の中を探し始める。あまり気が乗らない様子の未衣愛たちだったが、梨花に逆らうことはできないのだろう。言われた通り、手分けして探し始めた。


「ゾンビには、十分気を付けてね。先生、ゾンビが校舎に入らないように、ここで見張ってるから」


 みんな、疑いもせずマリリンちゃんを探している。作戦通りだ。


 大野は、梨花たちが防火シャッターから離れたのを確認すると、そっと、校舎側へ戻った。そして、壁のボタンを押す。さっきとは逆の、シャッターを下げるボタンだ。ゆっくりと、シャッターが下がり始めた。


「先生? なにしてるの!?」


 未衣愛が異変に気付いたが、もう遅い。今から走っても、もう潜れない高さだ。


 大野は、ポケットから用意していたものを取り出した。携帯用の防犯アラームだった。取り付けられてあるチェーンを引き抜く。けたたましいアラーム音が鳴り響き、その音に反応したゾンビが、叫び声をあげる。


 大野は、防犯アラームを玄関に投げ入れた。その直後、シャッターは完全に閉じた。もう、向こう側からは開けられない。


「先生! 冗談はやめてください! 先生! 開けて!!」


 向こう側から未衣愛たちがシャッターをバンバン叩くが、そんなことではビクともしない。いかに里琴が格闘技の達人と言えど、このシャッターを壊すことはできない。ゾンビはどんどん押し寄せてくるだろう。2週間前は里琴と西沢茉優の2人でもどうすることもできなかった数だ。あの5人は、もう生き残れない。


 笑みがこぼれる。笑いがこみあげてくる。こらえきれず、声を上げて笑った。不思議と、罪悪感は沸いてこない。まあ、それも当然だ。あの5人は、私を殺そうとしていたのだ。私は自分の身を護っただけ。悪いことをした人間は、悪いことをされても文句を言えない。生きるためなら、許される悪もある。私があの娘たちを殺しても、誰にも文句は言わせない。それに、殺すのは私ではない。ゾンビだ。


 笑った。おかしくてたまらない。狂ったように笑い続けた。


 ――が。


 その笑いが、凍りつく。


 いつのまに、そこにいたのか。


 大野のすぐ側で、穂波杏が、じっとこちらを見ていた。


 顔には、あの狂気じみた笑みを浮かべ。


 両手には、包丁を持っている。


「くけけ」


 奇怪な笑い声をあげ。

 包丁を、振り上げた。


 ドン! 大野は、とっさに穂波を突き飛ばした。尻餅をつき、倒れる穂波。その隙に、大野は逃げ出した。穂波と1対1なら勝てないことはないが、相手は武器を持っている。今は逃げるしかない。


「くけけけけけけけけぇ!!」


 奇声をあげ、穂波が追いかけて来るのが分かった。追いつかれたら終わりだ。大野は必死で走った。廊下を駆け抜け、南校舎から西校舎へ入り、そのまま体育館へ逃げ込んだ。奥の倉庫へ走る。中に入ろうと、扉を開けたところで。


「くけええぇぇけけけけっ!!」


 穂波の笑い声が、体育館内に響いた。

 追い詰めたと思ったのか、ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。

 逃げるように、倉庫の中に入る大野。倒れた棚は元に戻され、ブルーシートが被せてあった。


 穂波も、倉庫の中に入って来る。


 尻餅をつき、少しでもこの狂人から遠ざかろうと、後ろに下がる大野。だが、すぐにブルーシートが被さった棚に阻まれた。これ以上は下がれない。逃げられない。


「やめて……穂波さん……お願い……殺さないで……」涙を流し、訴える。


 だが、穂波は狂った笑みを浮かべながら、右手の包丁を振り上げた。


 ――今だ!


 大野は、棚の近くにあらかじめ隠してあった武器を取り、穂波の振り上げた右手に斬りつけた。


 ――ゴトリ。


 穂波の右手は、大野が思ったよりもあっさりと腕から離れ、赤い線を引きながら、床に転がった。


 大野は右手に大型の刃物を握っていた。刀身が50センチほどの西洋式の鉈だった。マチェット、とも呼ばれている。


 穂波の狂った顔が、初めて、恐怖に歪む。右手を失った腕と、主を失い床に転がった右手を、交互に見ている。


「うふふ、穂波さん。やっと、普通の女子高生らしい顔をしてくれたわね」


 今度は大野が笑う。穂波の右手を斬り落とした鉈の刃先を向けた。


 大野は穂波に1歩近づいた。それに反応し、穂波は左の包丁を振り上げる。しかし、リーチは鉈の方が圧倒的に長いし、左は穂波の利き手ではない。大野が鉈を横薙ぎに払うと、左手も床に転がった。襲う者と襲われる者の立場は、完全に逆転した。倉庫の外に逃げようとする穂波。大野は、今度は右足に斬りつけた。手と違って筋肉が発達しているのだろうか、斬り落とすことはできなかった。鉈は、足の半分ほどの位置で止まっている。もちろん、逃がさないようにするにはそれだけで十分だった。鉈を引き抜く。片方の支えを失った穂波は、崩れるように床に倒れた。念のため、もう片方の足にも斬りつける。もうこれで、逃げることもできない。


「穂波さーん? さっきまでの元気は、どこに行ったんですかー?」床に横たわる穂波を見下ろす大野。両手を失い、両足を斬られ、それでも穂波は、這うようにし、外に出ようとする。まるでイモムシだ。気分がいい。


 すべて、大野の作戦通りだった。梨花たち5人を南校舎の玄関に呼び出し、防犯ブザーを使ってゾンビをおびき寄せる。そのまま5人ともゾンビに襲われれば簡単だったが、大野をつけ狙っている穂波は、校舎に戻る大野に気付く可能性は十分考えられた。1対1の状況になれば大野にも勝機はあったが、念には念を入れておく必要がある。無力でひ弱な国語教師を演じて逃げ出し、あらかじめ武器を隠しておいた体育倉庫におびき出す。そして、完全に油断したところで反撃する。ここまでうまく行くとは思わなかった。あとは、最後の仕上げをするだけだ。


 大野は、床を這う穂波の顔を踏みつけた。「もう逃げられないわよ、穂波さん。でも、安心してね。あなたを殺すのは、先生じゃないの。そんなことをしたら、クラスのみんなが黙ってないからね」


 大野は穂波から足をどけると、棚の方へ歩き、覆っているブルーシートをはぎ取った。棚は、元の場所より50センチほど前に出されていた。そして、棚の後ろの空いたスペースには、3体のゾンビがいた。首にロープを巻かれ、壁に繋がれているが、大野と穂波に反応し、なんとかこちら側に来ようと身をよじる。棚が、ぐらぐらと揺れる。


「おっと。危ない危ない」棚を支える大野。「1日2回も棚に挟まれたんじゃ、とんだ笑いものだわ」


 大野は棚を避けるように横に移動し、そして、棚を引っ張った。ゾンビの力もあり、重い棚は、あっさりと倒れた。これで、ゾンビの行動を邪魔する者は、首に巻きついたロープだけになった。


「じゃあ、穂波さん。これでお別れね。あなたの卒業する姿、見たかったのに。残念だわ」


 大野は、悪魔のほほ笑みを浮かべ。


 鉈で、ゾンビを拘束しているロープを切った。


 勢いでゾンビが前のめりに倒れる。その間に、大野は倉庫の外に出て、扉を閉めた。両手を失い両足も怪我している穂波に扉を開けることができるとも思えないが、念のため、用意しておいたロープを扉の取手に巻きつける。バンバンと、向こうから扉をたたいている。ゾンビかもしれない。穂波かもしれない。どちらでも構わない。大野は扉にもたれかかり、崩れ落ちるように床に座り込んだ。再び笑いがこみあげてくる。やった。私はやった。自分の命を護った。誰の力も借りず、自分1人で、自分の命を護った。こらえきれず、また、声を上げて笑う。笑い続けた。


 どれくらい、時間が経っただろう。倉庫の中は静かになった。扉をたたく音は聞こえない。穂波の声も聞こえない。食事が、終わったようだ。


 大野はゆっくりと立ち上がり、扉に巻きつけたロープをほどく。穂波を殺したのは大野ではなくゾンビだ。しかし、襲われた場所が体育館の倉庫というのはあまりにも不自然だ。穂波の死体を外に捨て、ゾンビも追い出さなければならない。大野は扉を開けた。倉庫の中のゾンビが襲い掛かってくる。鉈を振るい、あっさりとゾンビを片付ける。さて、後は穂波の死体を外に――。


 大野の顔に。


 今度こそ、本当の恐怖が浮かぶ。


 倉庫の奥には。


「くけけけけ」


 穂波杏が、狂気の笑顔で立っていた。


 ――そんな!? どうして、ゾンビに食べられていない!?


 訳が分からなかった。ゾンビは生きた人間を襲う。これに、例外は無いはずだ。ゾンビが襲わないとすれば同じゾンビか人間以外の動物だ。まさか穂波は、人間じゃないとでもいうのか?


 穂波が近づいてくる。両足は大野の鉈で切られたままだ。切断こそできなかったが、傷は、骨まで達しているはずだ。普通ならば立てるはずがない。なのに穂波は、1歩、また1歩、ゆっくりと、近づいてくる。


「やめて……来ないで……」


 大野は後ずさりする。穂波の両手は斬り落とされたままだ。包丁を持つことはできない。それでも、穂波に恐怖せずにはいられない。


「来ないでええぇぇ!!」


 叫び。

 大野は、鉈を振り下ろした。

 血飛沫が飛び散り。

 鉈は、穂波の頭に、深々と刺さっていた。


 鉈を引き抜くと、穂波は崩れるように倒れた。


 頭を潰せば、それが人間でもゾンビでも、もう、起き上がって来ることはない。


 だが、大野は穂波に人間ともゾンビとも違う恐怖を覚えた。こいつはまだ起き上がる。起き上がって、襲い掛かってくる。


 大野は鉈を振り上げ、倒れている穂波に振り下ろした。何度も、何度も、振り下ろした。それでも恐怖は消えない。鉈を振り下ろす。獣のような叫び声をあげ、ただ、鉈を振り下ろし続けた。


「――見つけた!!」


 背後で誰かの声がした。振り返ると、体育館の入口に、青山梨花がいた。梨花の声で、牧野里琴や葉山未衣愛、山口万美も中に入って来る。バカな! あのゾンビの群れを突破してきたの!?


「大野先生! さっきのは、何のつもりですか!?」


 鬼の形相で近づいてくる梨花。大野の目には、その姿が、9年前の立花千夏に見えた。


「ち……違う! 私は……私は何もしていない!!」


「何もしていない!? バカなことを言わないでください!! あたしたち、死ぬところだったんですよ!!」


「違うの! 本当に何もしていないの!! 私はただ、穂波先生に進路の相談をしていただけ! 私、将来は国語の教師になりたくて!」


「何を訳の分からないことを! ちゃんと説明してもらいますからね!」


 どんどん近づいてくる千夏――いや、青山梨花か? もう、大野には誰だか分からない。右手には、鉈が握られてあった。なんで私、こんな物を? 分からないが、それは身を護るためのものだ。大野は、鉈を振り上げた。千夏か梨花か分からない人が、怯えたように頭をかばう。そうだ。私は武器を持っている。こんな小娘、怖がることはない。だが、梨花の前に別の生徒が立ちふさがった。誰であろうと関係ない。鉈を振り下ろした。右手に、鋭い痛みを感じた。耐えられず、鉈を手放してしまう。鉈は凄い勢いで回転し、大きく弧を描いて大野から離れた場所に落ちた。梨花の前に立った生徒が、右足を上げている。何が起こったのか分からないが、とにかく、武器が必要だ。相手に背を向け、鉈を拾いに行く。だが、足を払われた。倒れたところを、押さえつけられた。身動きが取れない。


「……よ……よくやったわ、里琴」梨花が言った。


 里琴? 里琴って、牧野里琴のこと? ということは、この声は立花千夏ではなく、青山梨花?


「さあ! 先生! 説明してください! なんで、あんな事をしたんですか!?」


「違うの! 先生は悪くないの! 先生はただ、自分の身を護っただけ! だって、穂波さんが……そう! 穂波杏さんが、私を殺そうとしていたから、私は自分の身を護っただけよ! 悪いのは穂波さん! 私は悪くない! 私は悪くないの!!」


「……さっきから訳の分からないことを! 先生! いい加減にしてください! 穂波さんって、誰なんですか!!」




 ――――!?




 何を……何を言っているの、この人は!?


 分からない。分からないけど、とにかく、このままでは、私はこの人たちに殺されてしまう。


「本当なの! 穂波さんはずっと私のことを狙っていて、包丁で、私を殺そうとしたの! 私は私を護っただけ! あなたたちだって、私と同じ目に遭ったら、私と同じようにするでしょ!? それに、穂波さんをそのままにしていたら、あなたたちだって襲われたかもしれないのよ!? そうよ! 先生は、みんなを護ったの! 穂波さんから、あなたたちを護ったの!!」


「訳の分からないことを言ってごまかそうとしたって無駄ですからね!」


「ごまかそうとなんてしてない! 本当に、穂波さんが悪いの!」


 さらに何か言おうとした梨花を、後ろの未衣愛が止めた。「梨花……やめた方が良くない? やっぱり、大野先生おかしいよ」


「おかしい? 私はおかしくない! おかしいのは穂波さん! 穂波さんなの!!」


「大野先生。落ち着いて、話してください」未衣愛はゆっくりとした口調で言った。「あたしたち、穂波さんなんて人は、知らないんです。それは、誰なんですか?」


「――――」


 言葉を失う大野。


 ……穂波さんを、知らない?


 そんなバカなことが、あるものか。


「何を言っているの……? 穂波さんよ。1年生の、穂波杏さん! いつも、あなたたちと一緒にいたでしょ? 今もそこに――」


 大野は、さっき鉈で滅多打ちにした穂波の死骸を示そうとして、また、言葉を失った。




 そこに、穂波の死骸は無かった。




 あるのは、ズタズタに引き裂かれた、1体のゾンビ。


 そんなバカな……私は確かに、穂波さんに鉈を振り下ろしたはず……。


 未衣愛が、さらに言う。「先生。この学校に、1年生はいません。アウトブレイクが起こったのは3月5日。入学式はおろか、まだ入試の合格発表もしていない時期です。先生、しっかりしてください」


 何を……この人は、何を言ってるの? 1年生はいない? 穂波さんはいない? そんなことはあり得ない。


「穂波さんは……居るわ……きっと……どこかに逃げたのよ。穂波さんは……なんとかって病気にかかっていて、変な笑い声をあげて、授業中も走り回って……そうだ! 保健の、斉藤先生に聞いてみて。穂波さんの病気のこと、教えてくれるから。今日も私、穂波さんの事、斉藤先生に相談したの」


「先生! 本当に、しっかりしてください!」未衣愛は懇願するように言う。「保健の斉藤先生は、もう1ヶ月も前に、ゾンビになって死んだじゃないですか!」


 ――――!?


 斉藤先生が、死んだ!? 1ヶ月も前に、ゾンビになって!?


 そんなバカな! そんなことはあり得ない! 斉藤先生が死んだのなら、今日、私が相談した相手は、誰だって言うの? 今まで穂波さんの事を相談していた相手は、誰だって言うの? 穂波さんは存在しない? じゃあ、今まで私をつけ狙っていた人は、誰だって言うの? この娘たちは、何を言っているの? 穂波さんを知らない? 斉藤先生はゾンビになって死んだ? そんなことはない! 穂波さんは居る! 斉藤先生は居る! どうして私の言うことを否定するの! どうして私の言うことを信じてくれないの! どうして私を悪く言うの!!


 …………。


 ……そうか。


 そういうことか。


「何を、笑っているんですか!?」未衣愛が言った。


「あなたたちは、穂波さんや斉藤先生をいないことにして、私を殺そうというのね」


「何を言って……そんなこと、するわけないじゃないですか!」


「いいえ! 私は騙されない! そうよ! 本当に悪いのは穂波さんだもの! でもその穂波さんがいないってことにすれば、私が一方的に悪くなる! あんたたちの企みは分かってる! 私は騙されない! 騙されない! 悪いのは穂波さん! 穂波さんなの! 斉藤先生を呼んで! そうすれば、穂波さんが悪いって証明してくれる!」


 未衣愛は、困った顔で梨花を見た。今度は、梨花が言う。「いい加減にしてください! 穂波さんとやらも斉藤先生も、この学校にはいません!」


「いいえ! いるわ! 穂波さんはいるの! 斉藤先生に聞いて! 私は! 私は悪くないの!! 悪いのは穂波さんなの!!」


「はーい、そこまででーす」


 パンパンと手を叩き、場に不釣り合いなおっとりとした喋り方で体育館に入ってきたのは、2年生の北原愛だった。その後ろには、宮沢玲奈や西沢茉優もいる。


 愛は、にっこりと笑ってこちらへやって来た。「――里琴さん、もう放していいですよ。大野先生のことはぁ、あたしに任せてください」


 里琴は、梨花と愛の顔を交互に見た。


「ちょっと、大丈夫なの?」梨花が訊いた。


「ええ。大丈夫でぇす」愛は、優しく微笑んで言った。


 梨花は納得がいかない表情だったが、里琴に、大野を放すよう言った。里琴は黙って頷き、大野を解放した。


 大野は、愛にすがりついた。「愛さん! お願い信じて! 悪いのは、全部穂波さんなの! 私は、悪くないの!」


 愛は、優しい微笑みを浮かべたまま言う。「そうですね。あたしも、前から穂波さんのことは、危ない人だと思ってたんですよ。大丈夫です。穂波さんの事はぁ、茉優さんたちに任せてください。さあ、保健室に戻りましょう。あそこなら安全です。戻って、斉藤先生に、ケガを診てもらいましょ」


「だから、あなたも何を言ってるの!」梨花がまた声を上げる。「穂波なんて人はいないし、斉藤先生は、もう死んで――」


「いいから! 梨花さんは、黙っててください!」


 普段の愛からは想像もつかないような怖い目で睨まれ、梨花は気圧されてしまう。


 同時に、大野も怯えた表情。


「ああ、ゴメンなさいゴメンなさい」愛は、すぐに笑顔に戻る。「大野先生を怒ったんじゃないんですよぉ? 梨花さんが変なことを言うから、注意したんです。ささ。梨花さんなんてほっといて、保健室に戻りましょ戻りましょ」


 梨花はさらに何か言いかけたが、さすがに未衣愛と万美が止めた。


 大野は愛に連れられ、体育館を出た。






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