第3話・教師 #08
大野先生が目を覚ますと、四木女子高校の保健室だった。体育館の倉庫で怪我をして、ここで休んでいたのだ。
長い夢を見ていた。高校時代の、思い出したくない過去。忘れたい人。でも忘れられない人。立花千夏。そして――穂波杏先生。
今年の春、1年生に穂波杏という名の生徒がいると聞いた時は、単なる同姓同名としか思わなかった。
だが、いつからか、穂波は大野先生に対して異常な行動を取るようになり、ついに、攻撃行動に出た。
なぜ、穂波がそのような行動を取るのか分からなかった。保険医の斉藤先生が言うように、PYC症候群という精神疾患だとしても、その行動対象が自分だけに向けられるのには、何か理由があるはずだ。
2人の穂波杏は、身内なのではないだろうか?
9年前、穂波先生は、確か25才だったはずだ。現在34歳。1年生の穂波さんとは、18歳差だ。親子にしては歳が近いし、姉妹にしては歳が離れすぎているが、どちらもあり得ないことでは無い。穂波という苗字は、全国的に見ても珍しいだろう。大野が通っていた高校は隣街だ。穂波先生の異動先がこの街ということは、十分考えられる。ならば、2人が身内である可能性も、十分にある。身内で同姓同名というのはおかしな話だが、それでもあり得ないことではないし、そもそも、今となっては穂波先生の下の名前が杏だったかどうかは疑問だ。大野の当時の記憶はあいまいだ。当時はみんな穂波先生と呼んでいたし、覚え間違いという可能性もある。また、1年生の穂波が偽名を使っている可能性も考えられた。
1度、きちんと調べた方がいいかもしれない。
ベッドの上に身体を起こす。ズキン、と頭が痛んだが、すぐに治まった。保健室には誰もいない。斉藤先生は、まだ戻って来ていないようだ。時計を見ると午後2時だった。5時間目の授業中。生徒たちは、教室で自習をしてくれているだろう。大野先生は保健室を抜け出し、職員室へ向かった。
生徒たちの個人情報は教頭先生が管理している。最近は何かと個人情報保護が厳しいので、情報の閲覧は、管理責任者及びその責任者が立ち会いの元に限らていれる。当然、新米教師の大野が勝手に閲覧することはできないが、管理責任者はアウトブレイクとほぼ同時に学校を放りだして逃げてしまった。今はもう他に教師はいないから、自分が責任者ということで問題は無いだろう。
教頭の席に座り、机の上のパソコンを起動する。パスワードが要求されたので、入力した。パソコンのパスワードの解析などは2年生の北原愛に任せれば簡単にやってくれるが、教頭のパソコンに関しては、その必要は無かった。IT機器に疎い教頭は、ご丁寧にパスワードを書いた付箋を、キーボードの端に貼ってくれていたのだ。これで個人情報管理の責任者というのだから、呆れたものである。
パソコンのデスクトップに堂々と保存された生徒個人情報というファイルをクリックする。データベースソフトが起動し、3年生、2年生のデータが表示されるが。
パソコンを操作する大野先生の手が止まる
……1年生のデータが、無い?
ファイルのどこを探しても、1年生のデータは無かった。念のため、他にファイルを保存しそうな場所や、思い当たるファイル名でパソコン内を検索してみたが、やはり見つからない。
大野は1度パソコンを閉じ、机の一番上の引き出しの中から、鍵を取り出した。その鍵を使って、机の後ろの書類棚を開ける。この中にも、生徒1人1人の個人情報を綴じたファイルがある。
しかし、そこにも、1年生のファイルだけが無かった。
……どういうこと? 大野先生は考える。どうして、1年生のファイルだけが無くなっている? 考えられるのは、誰かが処分した、ということだろう。誰が? 穂波さんしか考えられない。教頭の情報管理は甘い。パソコンは誰でも閲覧できる状態だし、書類棚も、鍵は引出しの中だ。職員室に人がいることはほとんどないし、生徒が情報を閲覧、破棄することなど簡単だ。では、穂波さんは何のために情報を破棄したのか? データを見られたくないからだ。
疑惑はさらに深まっていく。だが、確信にはいたらない。何か、他にないだろうか? 考える。受験前に提出する入学願書はどうだろう? いや、ダメだ。入学願書も個人情報だ。保管はこの書類棚で行われている。きっと穂波さんは、それも破棄しているだろう。そう思いながらも、念のため探してみると。
……あった。
書類棚の奥に、昨年の受験生の入学願書を挟んだファイルが出てきた。どうやら穂波さんは、こちらは見逃してしまったらしい。
分厚いファイルを取り出す。入学願書だから当然入学した生徒数よりも多いが、穂波さんの物を見つけるのは難しくないだろう。ファイルを開き、1枚1枚確認しながらめくっていくと。
背後に、気配を感じた。
気配……いや、もっと鋭い、背中に刺さるような、全身が粟立つような、そんな、冷たい気配。言うなればこれは――殺意。
大野が振り返ると。
職員室の扉の側に、穂波杏が立っていた。
笑みを浮かべ、じっと、大野先生を見つめている。その笑顔は、どこか、狂気を含んでいるように見えた。
「……ほ……穂波さん? いつから、そこにいたの? 職員室に入る時は、ちゃんと、挨拶をしないとダメよ」動揺を抑え、大野は何とかそう言った。
穂波が、くけけ、と、狂気じみた笑い声をあげ。
1歩、近づいた。
その両手には――包丁が握られていた。
「……ほ……穂波さん? その包丁は、何かしら?」
穂波は答えない。ただ笑いながら、ゆっくりと、こちらに向かって来る。
「今は、自習のはずでしょ? 家庭科の自習でもしているのかしら? でも、ダメよ? 家庭科室から包丁を持ち出したら。こんな世界だから、校舎内での武器の携帯は禁止されてないけど、でも、常識として、ね?」
穂波杏は答えない。さらに、近づいてくる。
「穂波さん! やめなさい! それ以上近づかないで!!」
声を上げる大野先生。威圧するためと言うよりは、悲鳴に近かった。
穂波杏は、答えない。
包丁を振り上げ。
「……くけけけけ!」
奇声をあげ、走って来た。
大野先生は何もできない。頭をかばい、その場にしゃがみ込んだ。
次の瞬間。
「くけけけけ……」
穂波の狂気じみた笑い声が、遠ざかって行く。
顔を上げる大野先生。職員室には、誰もいなかった。
……穂波さん、今のは、何のつもり? ただ、怯えさせて、楽しんでいるの? いや……まさか!
机の上を見る。幸い、入学願書のファイルはそのままだ。しかし、中を確認すると、穂波杏の入学願書は見つからなかった。やられた。あの娘の目的は、これだったんだ。これでもう、穂波杏の個人情報を見ることはできない。
だが。
同時に、大野先生の疑惑は、ほぼ確信に変わった。
これほど徹底的に情報を処分するということは、もう、間違いないだろう。9年前の穂波先生は、四木高1年の穂波杏の身内。親子か姉妹かは分からないが、なんらかの関係があるとみて間違いない。穂波杏が私をつけ狙う理由はそれ以外考えられない。9年前のあの出来事。穂波先生は、私を恨んでいるはずだ。立花千夏のいじめから救ってくれるはずだったのに、私は、自分を護るために、穂波先生を裏切ったのだ。1年生の穂波杏は、母もしくは姉の無念を晴らすためにこの学校に入学したのだ。そして、PYC症候群という精神疾患を発症し、私を殺害しようとしている。どうにかしないと、本当に殺されてしまう。
だが、どうする?
最良なのは、穂波さんが発症しているPYC症候群を治療することだ。
しかし、私たちには知識も治療薬もない。まして穂波さんは、特定の人物のみを狙うという、通常ではあり得ない病状だ。素人の私たちに治療できるとは思えない。
……いや、待てよ?
通常ではありえない病状?
PYC症候群は、重症化すると、幻覚や幻聴、被害妄想などの症状が出てきて、最悪の場合、自分や他者を傷つけてしまうという。だが、その行動が、特定の人物のみを対象とすることはない。
もしかしたら、PYC症候群というのは私たちの勘違い、あるいは、穂波さんが、あえてそう演じているだけなのかもしれない。
私に精神疾患の知識は無い。本当に病気なのか、病気を装っているだけなのか、その判断はつかない。
だが、どちらにしても、分かっているのは。
あの娘は危険だ、ということ。
あの娘は私を殺そうとしている。それはもう、間違いない。それだけでも十分に危険だが、厄介なことに、あの娘はあの青山梨花のグループと仲良くしている。青山梨花――葉山未衣愛や山口万美たちを取り巻きにして、私を敵視している問題児。9年前の、あの忌々しい出来事の主犯・立花千夏と同じだ。と、いうことは、彼女たちも千夏と同じように、クラスの女子を脅して、集団で、私1人を攻撃するかもしれない。宮沢玲奈や市川美青がそんなことをするとは思えないが、梨花がもし、千夏のように恐怖でクラスを支配できるとしたら、玲奈や美青も、直接手は出さないまでも、傍観することは十分にあり得るだろう。9年前、私のクラスがそうだったのだから。私自身がそうだったのだから。ああ、生徒会長の岡崎リオが生きていてくれれば。あの娘ならば、クラスの暴走を許すはずがない。あの娘なら止められたはずだ。だが、岡崎リオはもういない。死んでしまった。もしかしたらそれさえも、穂波杏や青山梨花が仕組んだことなのかもしれない。
あの娘は危険だ。
あの娘は危険だ。
あの娘は危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ私を殺そうとしているだから危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だみんなが私を殺そうとしている危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ危険だ私は死にたくないだから殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺される前に殺せ!!
…………。
……殺せ?
耳元で、誰かにそうささやかれたような気がした。
顔を上げ、職員室を見回す。穂波が出て行ってからは、誰も入って来てはいないように思う。だが今、確かに、誰かが私の耳元で「殺せ」とささやいた。
……ああ、なんと恐ろしいことを言うのだろう。生徒を殺すなんて、そんなこと、教師として許されることではない。いや、教師としてではない。人として、許されることではない。
…………。
人として、許されることではない?
そうだ。人を殺すなんて、そんなことは、人として許されることではない。
だが、穂波さんは、そんな許されないことをやろうとしているのだ。私を殺そうとしているのだ。
私は死にたくない。私が死んだら、この学校の教師はいなくなる。死ぬわけにはいかない。生きなければならない。
胸に、『羅生門』の、老婆の言葉が浮かぶ。
悪いことをした人間は、悪いことをされても文句を言えない。生きるためなら、許される悪もある。
老婆の言葉を聞いた下人は、その言葉は自分にも当てはまると思い、盗人になる決意をする。そして、老婆の着物を奪い、闇に消えた。
穂波さんは、私を殺そうとしている悪い人だ。だから、私に殺されても、文句は言えない。
私は、生徒たちを残して死ぬわけにはいかない。生きなければならない。生きるためなら、許される悪もある。
……そうか……きっと……そうか……。
大野美津子は、1人、不気味な笑みを浮かべ。
そして、職員室を出て行った。