第3話・教師 #07
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立花千夏のグループ6人分の宿題を1人でやった大野美津子。しかし、担当の国語教師・穂波杏は、全員同じ筆跡で同じ解答であることを不審に思った。穂波先生は有能な教師だった。全員同じ筆跡で同じ解答であることに気付いたのが有能なのではない。そこから、このクラスにはいじめがあるのではないかと敏感に感じ取り、それを、担任のクラスではないからと放置せず、真摯に向き合おうとしたことが有能だったのである。
宿題を提出した数日後。国語の授業が終わり、大野は穂波先生から、放課後、進路指導室まで来るように言われた。何の用だろう? 大野には心当たりが無かった。穂波先生は担任の教師でも進路指導の教師でもないから進路の話だとは思えないし、国語の成績は落としていないはずだ。ひとつだけ心当たりがあるとすれば、数日前の、千夏たちの宿題を自分1人でやったことだ。実を言うと大野は、宿題が全部同じ筆跡で同じ解答なら、私がやったと気付かれるのではないか、と思っていた。しかし、筆跡を変えるような器用さは無かったし、解答を変えるような時間も無かった。それに、いっそ気付いてくれればという期待もあった。だが、宿題を受け取った穂波先生は、特に何も言わなかった。だから、大野は軽く失望していたのだが。
進路指導室に行くと、席に着くなり、穂波先生は単刀直入に用件を切り出した。先日立花千夏たちが提出した宿題が、全員同じ解答であったこと。その筆跡は、すべて大野の物であったこと。それ以前から、大野と千夏たちの関係を不審に思っていたこと。そして、何か悩みがあるのなら、力になる、ということ。
大野の目から、自然と涙がこぼれ落ちた。力になる。それは、千夏たちのいじめが始まって、大野が最も言ってほしかった言葉だった。
大野は、穂波先生に全てを話した。きっかけは、授業前にノートや宿題を見せていたことだった。最初はお礼を言われていたが、だんだん要求がエスカレートしていき、理不尽なものになった。断ったら、無視され、嫌がらせをされ、それが、クラス中の女子に広まった。
起こったこと全てを話し、大野は泣いた。穂波先生は、普段の授業の時からは想像もつかないほど優しい声でなぐさめ、そして、抱きしめてくれた。大野は穂波先生の胸で、また泣いた。私は、この学校で1人ではなかった。助けてくれる人がいた。穂波先生が、きっと、私を救ってくれる。
この問題は、必ず解決する。先生を信じて欲しい――穂波先生は、そう約束してくれた。大野は、その言葉を信じ、進路指導室を後にした。
穂波先生は有能な教師だった。それは間違いない。
だが、運が悪かった。いじめ、という点に関しては、立花千夏は、もっと有能であったのだ。思い当たる用もないのに、大野が穂波先生に呼ばれたことを、千夏は不審に思ったようだった。教室に戻った大野は、千夏と5人の取り巻きに囲まれた。
「ちょっと付き合って」
そう言われ、無理矢理体育館裏に連れて行かれた。そこには、いわゆる不良と呼ばれる男子が10人ほど集まっていた。だらしなく着崩した改造学生服、茶髪、金髪、スキンヘッド、足元に散らばったタバコの吸い殻。真面目だけが取り柄の大野とは、全くかかわりのない人たちだ。
「よお、千夏、ここに来るの、久しぶりじゃん。誰、そのカワイイ娘」
不良の1人が、獲物を見つけた野獣のような視線を大野に向ける。それだけで、大野の足はカタカタと震えた。
「んー? チナツのクラスメイトだよ? ちょっと、この娘に訊きたいことがあってねー」不良たちの前でも、千夏はいつもの口調だった。どうやら、この不良たちとは面識があるらしい。
壁に押し付けられるように立たされる大野。その周りを、千夏の取り巻きが囲み、さらにその周りを、不良男子が囲む形になった。
「おおのっちさー、さっきは、穂波のヤツと、なにを話してたのー?」
ドクン、と、心臓が大きく脈打った。何故、そんなことを訊くのか。理由はハッキリしていた。大野が、穂波先生にいじめのことを相談したと思っているのだ。宿題の件から日が経っていたから大丈夫だと思ったが、どうやらそんなに甘い相手ではなかったようだ。
「何……って……別に……何も……」震える声をようやく絞り出した。
とたんに、千夏の顔から笑顔が消える。「何も無いのに進路指導室に呼ばねーだろ普通!」
ガン! と、壁を蹴る千夏。「こえー」と、不良男子が笑った。千夏は普段のぶりっ子から豹変し、口調も変わっている。これが、立花千夏の本来の姿なのか。
大野は恐怖に震えた。何と答えるべきだろうか? 必死で考えた。本当のことを言ったら、どんな目に遭わされるか分からない。だが、頭の中は恐怖でいっぱいで、考えは空転するばかりである。だから、ありきたりなことを言ってしまう。「進路の……相談……」
それを聞いて、千夏の顔はさらに恐ろしくなる。「あんたひょっとして、あたしのこと、バカだと思ってる? なんで、担任でも進路指導員でもない穂波が、お前の進路相談を受けるんだよ!」
さらに壁を蹴る千夏。大野はもう、恐怖で立っていられないほどに震えていた。腰が抜けて座り込みそうになったが、両腕を千夏の取り巻きに捕まれ、無理矢理立たされた。
千夏が、右手で大野の顔を掴む。女子高生とは思えないほどの握力だ。「お前、まさか穂波にあたしらのこと密告ったんじゃねーだろうな?」
「ちがう! そんなことはしてない!」顔を掴まれたまま、首をぐるぐると振る。
「だったら、なにしてたんだ! 言ってみろ!」
そのまま後ろの壁に後頭部を打ちつける。痛かったが、それ以上に、千夏のことが怖かった。
「おい千夏、あんまりいじめんなよ」後ろの不良男子が、ニヤニヤしながら言った。その不良男子にしてみれば何気なく言ったことなのかもしれないが、大野には、それが救いの言葉のように聞こえた。
「あんたは黙ってなさい」千夏は言った。そして、大野を掴んでいる手を離し、いつもの笑顔と口調に戻った。「おおのっちさー、チナツは、別に怒ってるわけじゃないんだよー? おおのっちが本当のことを言ってくれれば、すぐに、帰してあげるから、ね?」
ウソだと思った。本当のことを言って、タダで帰してくれるはずはない。なんとか、本当のことを言わず、千夏を納得させるしかない。大野の頭は依然恐怖に支配されていたが、不良男子の思わぬ救いの言葉と、それによって千夏がいつもの口調に戻ったので、幾分冷静さは取り戻していた。考える。本当のことは言えない。なんと答えれば、千夏は納得する? 成績のことで呼ばれた? 図書委員のことで呼ばれた? ダメだ。最初からそう言っていれば、それでごまかせたかもしれないが、私は1度、進路の相談、と、言ってしまった。いまさら理由を変えたら、逆に怪しまれるだろう。進路相談で通すしかない。
「だから……進路の相談……です」消え入りそうな声で言った。
千夏が、再び鬼のような表情になった。大野の髪を掴み、引っ張る。「ふざけんな! 何で国語教師が、お前の進路相談に乗るんだよ!」
「だから! 私は将来、国語の先生になりたくて! それで、穂波先生に話を聞いてもらったんです!」
千夏の顔から、鬼の表情が消える。
それは、追い詰められて、思わず言ってしまったことだったが、妙に説得力があった。大野は、全科目の合計の成績こそそれほど上位では無かったが、国語に関しては、学年でもトップを争うほどだった。それは、千夏たちも知っている。予習も、国語は他よりも力を入れていたし、図書委員にも入っている。矛盾は無いはずだ。
千夏は、大野の言葉を吟味するような表情。「……ウソついてんじゃねーだろうな?」
「ついてません……ウソなんて……ついてません」すがりつくような表情の大野。
「千夏、もう、許してやれよ。カワイソーだろ」さっきの不良男子が言った。大野にはもう、後ろの不良男子たちよりも、目の前の千夏の方が怖かった。
「ふーん、ま、いいや」千夏が大野の髪を放し、取り巻きが、両腕を放した。支えを失い、その場に座り込む大野。
「おおのっちだっけ? さ、もう帰っていいよ」不良男子が手をひらひらと振った。
大野は、「ありがとうございます……ありがとうございます……」と、必要のないお礼を何度も言って、這うように千夏から遠ざかろうとする。
しかし、そのまえに、千夏が立った。
「待てよ。あたしの許可なく帰るんじゃねーよ」まるで虫けらでも見るような視線を向ける。
大野は、助けを求めるようにさっきの不良男子を見た。しかし、男子は呆れたような表情で千夏を見ているだけで、それ以上何も言ってはくれなかった。
千夏の取り巻きが言う。「コイツどうする? もう、ヤッちゃう?」
ヤッちゃう? やるって、何を? 分からないが、大野の頭には、恐ろしい考えしか浮かばなかった。また、身体中が震えた。涙が止まらなかった。許しを請うように、千夏を見た。
千夏は、いつもの表情に戻っていた。「そんなに怖がらなくても大丈夫だよー? チナツが、おおのっちにそんなヒドイことするわけないじゃん? だって、チナツとおおのっちは、心友なんだから」
認めたくは無かったが、もう、その言葉にしがみつくしかなかった。大野は、何度も頷いた。
「心友だったら、あたしのお願いは、何でも聞いてくれるよね?」
何を言っているのか、もう分からなかった。なんでもいい。とにかく、一刻も早く、ここから逃げ出したかった。大野はまた、何度も頷いた。
「じゃあ、今度から穂波先生のことは、無視ね」
何を言っているのか分からない。大野は、ただ言われるままに頷く。千夏は、その姿を満足げに見ていた。
そして、取り巻きに向かって言う。「クラスのみんなにも言っといて。穂波は、無視だって」
「いいけど、それで、どうするつもり?」取り巻きの1人が訊いた。
千夏の顔が、今度は悪魔のようになった。「穂波のババァは前からムカついてたんだ。いい機会だから、学校から追い出してやるよ」
「それは名案だけど、無視なんかで大丈夫かな? 中学の時みたいに、ヤッちゃった方が早くない?」
中学の時? やる? この人たちは、何を言ってるんだろうか? 大野には理解できなかった。ただ、帰りたかった。
「いや、あれは勘弁してくれ。俺たちも、もうガキじゃないから。今やったら退学……いや、ヘタすりゃ少年院行きかも」後ろの不良男子が何か言った。
「分かってるよ。大丈夫。あたしに考えがあるから。とにかく、無視のことは全員にきつく言っといてね」
千夏が言ったが、もう、そんなことはどうでもよかった。とにかく、帰りたかった。帰らせて。懇願するような目を、千夏に向ける。
「あれぇ? おおのっちまだいたのー? もう、帰っていいよー?」
救いの言葉だった。大野は、震える足で逃げ出した。一刻も早くこの場から、千夏から離れたかった。
「あ、おおのっちー。穂波先生の件、よろしくねー」
後ろで千夏の声がした。大野は、ただ怖くて、走った。かばんは教室に置いたままだが、そのまま校門を飛び出し、まっすぐ家に逃げた。家に両親はいなかった。部屋に駆け込み、ベッドの上で布団をかぶり、震えた。泣いた。ただ、千夏が怖かった。今も千夏がすぐそばにいるような気がした。あの、鬼のような、悪魔のような顔で、こちらを見ている気がした。両親が帰って来ても、勉強しているから、と言って、部屋に閉じこもっていた。夜になったが、眠れなかった。目を閉じると、千夏の顔が浮かぶ。朝まで、ずっと起きていた。学校に行かなければいけないが。学校には、あの恐ろしい千夏がいる。風邪をひいたことにして休もうか? 真面目な大野にとって仮病など初めてのことだが、千夏の恐怖から逃れるには、それしかない。家にいても怖いが、それでも、学校に行くよりははるかにマシだと思えた。でも、できなかった。大野の考えを見透かしたかのように、携帯電話に千夏からのメールが届いた。『今日、学校休んだりしないよね?』大野はまるで、自分の携帯から恐ろしい幽霊でも出現したかのように怯え、遠くへ投げ捨てた。千夏が怖い。怖いが、学校に行かなければならなかった。いつもより遅く支度を始めた。昨日のお昼から何も食べてないが、とても、朝食を食べる気がしなかった。母親に、「行って来ます」とだけ言って、家を出た。学校にはいつも通りの時間に着いた。
「おおのっちおはよー」
千夏は、すでに大野の隣の席に座っていた。大野より早く登校するなど、普段ならあり得ないことだった。いつもの笑顔で手を振っている。いつもの笑顔が、大野の目には、昨日の悪魔の表情に見えた。昨日の恐怖がよみがえってきた。身体が震え始め、胃の奥から何かが込み上げてきた。大野は教室を飛び出し、女子トイレに駆け込んだ。洗面台に向かって、吐いた。胃の中は空っぽである。それでも、大野は吐いた。
「だいじょうぶー? おおのっちー?」後ろで、悪魔の声がした。
「ひぃっ!」と、短い悲鳴を上げ、振り向く。勢いで、大野は床に尻餅をついて倒れた。
千夏と、取り巻きの5人が女子トイレに入って来る。大野は逃れようと後ずさりをするが、当然、逃れられるはずもなかった。千夏が目の前にしゃがみ込んだ。「そんなにがたがた震えてて大丈夫? 国語の授業は1時間目だよー? もし、あんたのそのキモイ態度で穂波先生が何か気付いたら、どうなるか分かってるー?」
分からない。分からないが、とにかく首を縦に振った。だが、震えが止まるわけではない。
「……ダメだこりゃ。しょうがないなー。じゃあ、小心者のおおのっちのために、あたし、1時間目はエスケープしてあげる。それなら、大丈夫でしょ?」ぱちっとウィンクをする千夏。
「いいの? サボっちゃって?」後ろの取り巻きが言った。
「いいのいいの。これも、作戦の内だよ。ああ、あんたらは、おおのっちが約束破らないように、ちゃーんと、見張っててね。他のヤツらも、ね」
「りょーかーい」
千夏の取り巻きは嬉しそうに言って、大野を無理矢理立たせ、教室へ連れ戻し、席に座らせた。
隣の席に千夏がいないというのは、思いのほか、大野の気持ちを落ち着かせた。もっとも、震えは止まったが、恐怖が去ったわけではない。昨日の、体育館裏での千夏のお願い。あの時は恐怖で何を言っているのか理解できなかったが、言葉は、心の中に残っている。穂波先生を無視しろ。それも、クラスの女子全員で。この学校から、穂波先生を追い出すために。
教室内を見回した。まだ授業が始まる前だというのに、女子全員席に着き、うつむいている。すでに、全員に話が伝わっているようだ。
チャイムが鳴るとほぼ同時に、穂波先生が教室に入って来た。教室内の、微妙に張りつめた空気に、穂波先生が気付いたかどうかは分からない。授業はいつも通りに始まった。まず始めに、今日授業で行う範囲の朗読。幸いこれは、男子生徒が当てられた。本文を読んでいる間に、穂波先生は黒板にポイントを書いていく。大野はそれをノートに書き写そうとした。その途端、横から消しゴムが飛んで来て、大野の顔に命中した。結構な勢いだったので、大野は声をあげそうになった。もし目に入っていたら、ただでは済まなかったかもしれない。消しゴムが飛んで来た方を見ると、千夏の取り巻きの1人が睨んでいた。どうやらノートすらとってはいけないらしい。
朗読が終わると同時に、穂波先生も書き終え、こちらを振り返った。その後、ポイントを丁寧に解説していく。この解説がある程度進めば、穂波先生は生徒に問題を出すだろう。でも、それに答えてはいけない。反応してもいけない。すれば、千夏に、どんな目に遭わされるか分からない。今は、穂波先生がまた男子生徒を当ててくれることを祈るだけだ。だが、その祈りは届かなかった。
「――それでは、大野さん、答えてください」
心臓が止まるかのような衝撃だった。
顔を上げる。穂波先生の視線は、こちらに向けられている。
……なんで、よりによって、私なの?
周りの女子を見る。誰も目を合わせてはくれない。千夏の取り巻きを除いては。
「……大野さん? あなたですよ? 聞こえてますか?」穂波先生の声のトーンが下がった。
どうする? どうする? どうする? どうする? 心臓が早鐘を打つ。千夏からの指示は穂波先生を無視すること。恐らく、「分かりません」と答えることも許さないだろう。だが、そんなことをしてもいいのか? 千夏は、大野先生をこの学校から追放すると言っていた。それと穂波先生を無視することがどうつながるのかは分からないが、ここで大野が何も言わないと、自分は千夏に協力したことになる。穂波先生を学校から追放することに、手を貸したことになる。穂波先生を裏切ることになる。私がイジメにあっていることを、この学校でただ1人気付いてくれた穂波先生を。必ず解決すると約束してくれた穂波先生を。私を優しく抱きしめてくれた穂波先生を。私は、裏切ることになる。そんなことが、人として許されるだろうか?
――約束破ったら、どうなるか分かってるでしょうね?
耳元で、千夏にささやかれた気がした。目の前に、千夏の悪魔の表情が浮かんだ気がした。昨日の恐怖が胸によみがえり、大野は、身勝手な自己防衛の思考を導き出した。そうだ。穂波先生は、私の周りで起こっている問題を、必ず解決すると約束してくれた。穂波先生は、私がいじめられていることを知っている。だから、ここで私が穂波先生を無視しても、きっと、何か事情があると気付いてくれる。問題を解決してくれる。私は信じている。穂波先生を、信じている。
「――大野さん? 大野美津子さん? 返事をしなさい」
厳しい口調になる穂波先生。大野はうつむき、ただ、じっと耐えた。お願い穂波先生! 気付いて! 私を助けて! 祈る。
大野の気持ちに、穂波先生が気付いたかは分からない。
「……仕方ありませんね。では、他の方」
穂波先生は、別の女生徒を指名した。だが、その女生徒も、大野と同じようにうつむいているだけで、返事をしなかった。
「……これは一体、なんのマネですか?」穂波先生は生徒たちを見回す。女子は全員、机に目を落とし、目を合わせないようにしている。事情を知らない男子生徒は、首をひねるだけだ。
「……分かりました。授業を受けたくないのなら、それで構いません」
穂波先生は授業を中止し、教室を出て行った。教室には、男子生徒のざわめきと、千夏の取り巻きたちの押し殺した笑い声が残った。
……私は悪くない。悪いのは千夏。ああしなきゃ、私は千夏にどんな目に遭わされたか分からない。私は、自分を護っただけ。自分を護るためならば、あれくらいのこと、穂波先生はきっと許してくれる。
大野は両手を強く握りしめて膝の上に置き、うつむいたまま、そう、自分に言い聞かせていた。
翌日からも、女子生徒の無視は続いた。
生徒に無視されているからといって、ずっと授業をやらないわけにもいかないのだろう。穂波先生は、生徒に質問しない形で授業を行った。女子は、教科書やノートを出すことも許されなかった。
こんなことが、穂波先生を学校から追放することにつながるのか? 大野には疑問だった。穂波先生が、大野のクラス担任や、より厳しい体育教師などに相談すれば、その教師も黙ってはいないだろう。
だが、千夏は次の手を考えていた。いや、正確には千夏がやったかどうかは分からない。学校の掲示板に、穂波先生が、数学の若い男性教師と食事をする写真が貼られていたのだ。その横には、『穂波杏・熱愛発覚!』だの『2人は食事の後ラブホテル街に消えた』だの、三流週刊誌のスキャンダル記事のような文面が並んでいた。
くだらないイタズラだ、と、大野は思った。写真に写っているのは確かに穂波先生と数学教師だったが、ただ食事をしているだけだ。仕事のことを相談しているだけかもしれないし、ラブホテル街に消えたという写真は無い。仮に、本当に記事通り2人が恋愛関係にあり、ラブホテル街に消えたのだとしても、教師はどこかのアイドルグループとは違って、恋愛を禁止されてはいない。文句を言われる筋合いはないだろう。大野以外の生徒も、半分以上は、そう思った。
半分以上――つまり、半分近くは、そうは思わなかった。
相手の数学教師は、モデルのようなに整った容姿をしており、常々ホストのような甘い言葉で女生徒に接していた。それのどこがいいのか大野にはさっぱり分からなかったのだが、女生徒からは人気があったようである。そして、授業が単調で、指導が厳しい穂波先生は、主に女生徒から嫌われていたのだ。
すでに、大野のクラスの女子が穂波先生を無視したり、授業をボイコットしているという話は、他のクラス、学年に伝わっていた。この、三流週刊誌のスキャンダル記事のような事件をきっかけに、穂波先生へ無視やボイコットは、学校中に広まった。
すると、このままでは受験に影響が出る、と、PTAの役員が学校に乗り込んできて、どうなっているのかと、校長たちに詰め寄った。そのPTAの役員は、千夏の取り巻きの両親だった。
その後、職員たちの間でどのような話し合いがされたのか、大野には分からない。穂波先生と数学教師は単なる仕事仲間で、あの日はたまたま仕事の相談をしていただけだろう。もちろん、ラブホテルになど行っていない。大野は、そう信じていた。そうだとしか思えなかった。しかし、それから2ヶ月ほど経った頃、穂波先生は他校へ異動になった。理由は、一身上の都合とされた。
結局、千夏が言った通り、穂波先生は、学校を追い出されたのだ。
目的を達成して満足げに笑う千夏たちを見て、大野はまた、恐怖に震えた。いや、千夏に対する恐怖だけではない。自分が、とんでもないことをしてしまったことに、今さらながら気が付いたのだ。
大野先生が学校から追い出されたのは、自分のせいではない。悪いのは、まぎれもなく千夏である。しかし、全ての出来事は、自分から始まっている。
自分が、千夏にノートを貸したことが。
自分が、穂波先生にいじめを相談したことが。
自分が、穂波先生を無視したことが。
それが、穂波先生を追い詰めたのだ。
穂波先生は、私を救うと約束してくれたのに。
私を救おうとしてくれた人を、私は先頭に立って、この学校から追い出したのだ。
罪悪感に押し潰されそうになった。悔やんでも、悔やみきれなかった。そんな時大野は、心の中で呟く。私は悪くない。悪いのは千夏。ああしなければ、私は千夏にどんな目に遭わされたか分からない。私は、自分を護っただけ。自分を護るためならば、あれくらいのこと、穂波先生はきっと許してくれる。
幸い、と言うべきだろうか。ターゲットが穂波先生に切り替わってから、大野へのいじめ行為は無くなっていた。穂波先生が異動になった後、すぐに2年に進級し、クラス替えがあったのも幸いした。千夏たちとは別のクラスになり、その後大野は、平和な学園生活を送った。だがそれは、あくまでも、表面上だけは、である。
大野は、クラスメイトを信用することができなかった。誰も、私を助けてくれなかった。みんな、黙って見ていただけだ。もちろん、悪いのは千夏たちだ。他の女子は、千夏を恐れて、仕方なく従っていただけだ。それが分かっていても、大野はもう、クラスメイトを信用する気にはなれなかった。また、いつあの時のように、無視されるか分からない。
その後大野は、国語教師になるために、教職課程のある大学の受験を目指した。自分のせいで異動になった穂波先生へのせめてもの罪滅ぼし、などと言うつもりはない。ただ、千夏が怖かったのだ。あの、体育館裏で、悪魔のような千夏に詰め寄られた日、大野は、将来国語教師になりたい、と言ってしまった。助かりたい一心のでまかせだったが、あれを、千夏はまだ覚えているかもしれない。自分が国語教師を目指さないと、「やっぱりあなた、あの時ウソをついていたのね」と、あの悪魔の笑みを浮かべるかもしれない。そういう恐怖が、大野の胸にあったのだ。その恐怖心は、高校を卒業し、千夏と会うことはなくなっても、消えることはなかった。結局大野は、本当に国語教師になった。
そして、その恐怖心は、今もまだ消えていない。
同様に、穂波先生への罪悪感もまた、消えていなかった。
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