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第3話・教師 #06

 気が付くと、四木女子高校の保健室のベッドの上だった。少し考えて思い出す。私は確か、3時間目の体育の準備をしていて、倉庫の中の棚が倒れてきて、怪我をしたんだ。


 ――――。


 ――そう、穂波さん。それらはすべて、1年生の穂波杏さんが仕組んだことだ。


 首を傾けて室内を見た。宮沢玲奈と、ボクシング部の西沢茉優、そして、普段は専用の研究室にこもってゾンビなどの研究をしている2年生の北原愛がいた。保険の斉藤先生の姿は無い。


 玲奈と目が合った。「あ、先生、気が付いたんですね」


 3人が集まって来る。心配をさせないよう、身体を起こそうとしたが、玲奈に止められた。頭には包帯が巻かれてあった。治療は北原愛がやったそうだ。愛は医療や看護師の資格を持っているわけではないが、医学書などを読んで、治療の知識があるのだ。怪我は、そう大きなものではないらしい。


「先生、一体、何があったんですか?」玲奈が、心配そうな表情で訊く。


 一瞬、何と答えようか迷った。穂波さんのPYC症候群のことを話すべきだろうか? 今の所、彼女の異常行動は大野先生にしか向けられていない。しかし、保健の斉藤先生の話によれば、PYC症候群は本来特定の人物のみが異常行動の対象になることはないらしい。つまり、彼女の異常行動が他の生徒たちに向けられてもおかしくはないのだ。だが、精神疾患はデリケートな問題だ。安易に生徒に話すわけにはいかない。それに、3年生は受験や就職を控えている。ただでさえゾンビのことで頭を悩ませているのに、みんなに余計な心配をかけてしまうのは得策ではないだろう。


 大野先生は、笑って言った。「ごめんなさいね、心配かけて。先生、バレーの準備をしてたら、棚にネットを引っ掛けちゃって、倒しちゃったの。ホント、ドジなんだから」


 玲奈と茉優の2人は、安堵の表情になり、そして、「気を付けてくださいよ」と言って笑った。大野先生も一緒になって笑う。ただ1人、北原愛だけが笑っていなかった。じっと、何かを探るような目を向けている。何か、感づいたのだろうか? いや、そんなはずはないだろう。


 室内の壁掛け時計を見る。まだ、3時間目の途中だ。「先生は大丈夫ですから、教室に戻って、自習をしていてください。みんなにも、心配しないように伝えておいてね」


 3人は、大野の言うことに素直に従い、教室へ戻って行った。3人とも、いい生徒だ。宮沢玲奈は成績優秀で素直だし、西沢茉優は成績はあまり良くないが、部活動をがんばっている。北原愛は授業にほとんど出ないのが欠点だが、事情が事情なので仕方がないし、テストの成績は1人だけ抜群に良いから、特に問題は無い。他の生徒も同様だ。世間では、四木女子高校は落ちこぼれが集まる学校と言われているが、実際はそんなことはない、と、大野先生は断言できた。確かに勉強ができる娘は少ないが、それだけで落ちこぼれと決めつけるのは、大野先生にとって許しがたい事だった。どんなに勉強ができても、他人をいたわる気持ちが無い生徒を優秀だとは思わなかった。その点に関しては、自分のクラスは他の学校のどのクラスにも負けない自信があった。


 だがそれも、もしかしたら過去の話になりつつあるのかもしれない。最近、絶妙に保たれていたクラスのバランスが崩れつつあるように思う。原因ははっきりしている。青山梨花たちのグループだ。穂波杏の異常行動もそうだが、他にも問題はある。リーダーの青山梨花が、聖園高校から転校してきた宮沢玲奈を、異常なまでに敵視しているのだ。今はまだいじめとまでは行かないが、このまま放置しておくと、そうなってしまう可能性は高い。それに、今の生徒たちがアウトブレイク後も秩序を持って行動していたのは、実の所、担任である自分よりも、生徒会長の岡崎リオの存在が大きかった。クラスに何か問題が起こっても、ほとんどの場合、彼女が先頭に立って解決してくれていたのだ。あまり歓迎されていなかった宮沢玲奈の転入を認めさせたのも、岡崎リオの説得によるところが大きい。その岡崎リオが死んでしまったことは、クラスにとって非常に大きな損失だった。この先クラスで問題が発生しても――いや、問題はすでに発生しているが――生徒たちだけで解決できる見込みは少ないだろう。なんとか早めに手を打たないと、最悪の場合、クラスが崩壊してしまう。


 玲奈たちと入れ替わるように、保健の斉藤先生が戻って来た。すでに生徒たちから事情は聞いているようだ。もちろん、穂波杏のことは除いて、だが。


「――それで、本当は何があったんですか?」


 全てを見抜いているかのような視線を向ける斉藤先生。大野先生は、正直に全てを話した。バレーの準備をしていたら、体育館の倉庫に穂波杏が隠れていて、棚を倒したこと。助けを求めたら、扉を閉め、立ち去ったこと。その後、ゾンビを連れて戻ってくるはずだったのではないかということも。


「こんな世界じゃ、ゾンビに襲われて死んだら、それが殺人事件だなんて、誰も思わないでしょうね」斉藤先生は冗談っぽく言った。


「よしてください。笑い事じゃないんですよ?」真剣な表情で言い返す。


「そうですね、ゴメンなさい」斉藤先生も真面目な顔になった。「しかし、あたしたちが思っている以上に、穂波さんの病状は悪化しているようですね。こんなに早く、他者を傷つける行動をするなんて」


 斉藤先生の言う通りだった。穂波が発症していると思われるPYC症候群は、重症化すると、幻覚や幻聴、被害妄想などの症状が出てきて、最悪の場合、自分や他者を傷つけてしまうこともあるらしい。つまり、もうすでに最悪の場合になっているのだ。


「斉藤先生、私は、どうしたらいいのでしょうか……」


 大野先生の問いに、斉藤先生はすぐには答えなかった。机の上に右手を置き、トントンと指で机を叩きながら、じっと考えている。


 難しい問題だ。簡単に答えが出るとは思えない。というよりは、答えが出る見込みは無いだろう。大野先生も、斉藤先生も、精神疾患に関してはまるで知識が無い。そんな素人がどんなに考えたところで、良い答えが浮かぶはずがない。ならば、北原愛に頼ってみるというのはどうだろう? 彼女は、あらゆる本をあっという間に読んで、その内容を全て暗記してしまう頭脳を持っている。医師や看護師の資格を持っていないのに治療行為を行えるのはそのためだ。PYC症候群に関する本は学校にもあるから、自分たちよりは正しい対処ができるかもしれない。だが、それも得策とは言えなかった。本で治療の知識を得ることができたとしても、設備や薬は何も無いのだ。今、学校にある物だけでは、十分な治療が行えるとは思えない。それに、本に書かれてあることが正しいとは限らない。精神疾患は、人によって症状や有効な治療法は様々だと思われる。どんなに本で知識を得ようとも、やはり、素人が手を出していい領域ではない。


 机を叩く斉藤先生の指が止まった。何か、いい案を思いついたのだろうか?


 斉藤先生がこちらを見た。「大野先生、国語の授業は、どうですか?」


 全く関係のない話題が出たので、大野先生は思わず「は?」と、声を上げてしまった。


「国語の授業です。大野先生の担当教科ですよね? 今、どんな授業をしているんですか?」


 突然のことに少々驚いたが、まあ、考えに行き詰った時は、話題を変えてみるのもひとつの手だろう。「今は、芥川龍之介の、『羅生門』の授業をしています」


「『羅生門』ですか。懐かしいですね。ストーリーは確か……仕事をクビになった下人が、羅生門で雨宿りをしていた。一晩眠る場所を求め、羅生門の楼の上に上がると、そこで、死体の頭から髪の毛を抜く老婆を見つけた……こんな感じでしたよね?」


「そうです。よく覚えてましたね」


「まあ、高校時代は、あたしもそれなりに勉強しましたから」斉藤先生は得意そうな顔になる。「それで、老婆の行動を許せないと思った下人は、老婆を捕まえ、何をしていたのか問いただした。あたし、その時の老婆のセリフが大好きなんですよ。あれ、なんて言ったんでしたっけ? 大野先生なら、全部覚えてるんじゃないですか?」


 その通りだった。このシーンは、『羅生門』の最も重要なシーンである。高校時代は繰り返し勉強したし、明日の授業で行う予定だから、全て暗記していた。


 その、老婆のセリフを言おうとして。


 ――――。


 大野先生の背中を、冷たいものが走った。


 斉藤先生を見る。いつもの優しい笑顔でこちらを見ている。だが、その笑顔には、いつもと違う、何か恐ろしいものが宿っているように思えた。


 羅生門の楼の中で、老婆は、死体の髪の毛を抜き、それでかつらを作っていたのだ。そして、下人にこう言った。




“成程な、死人(しびと)の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸(しすん)ばかりずつに切って干したのを、干魚(ほしうお)だと云うて、太刀帯(たてわき)の陣へ売りに往いんだわ。疫病(えやみ)にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料(さいりよう)に買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。”




 大野先生が老婆のセリフを暗唱するのを、斉藤先生は、満足な様子で聞いていた。


「……斉藤先生、何を、言いたいのですか?」大野先生は、恐る恐る訊いた。


「何を、って、ただ、『羅生門』の話をしていただけですよ?」とぼけたような口調。「――さて、あたしはちょっと用事があるので、しばらく留守にします。大野先生は怪我をしているんですから、ゆっくり休んでいてくださいね」


 そう言い残し、斉藤先生は保健室を出て行った。


 閉ざされた扉をじっと見つめ、大野先生は、今暗唱した老婆のセリフのことを考えていた。


 老婆は、死体の髪の毛を抜く行為を悪いこととは思っていなかった。羅生門の楼に捨てられた死体は、皆、悪事を働いていた者ばかりなのだ。そうしなければ、餓死していた者ばかりなのだ。だから、老婆のしていることも大目に見てくれるだろう。老婆も、そうしなければ餓死してしまう身なのだから。


 つまり。


 悪いことをした人間は、悪いことをされても文句を言えない。生きるためなら、許される悪もある。


 これが、老婆の言い分だ。


 斉藤先生は、なぜ、こんな話をしたのだろう? 穂波杏に殺されかけた私に、なぜ、老婆のセリフを暗唱させたのだろう?

 穂波杏は、私を殺そうとした。だから、私に殺されても、文句を言えない、とでもいうのだろうか?

 大きく首を振り、恐ろしい考えを振り払う。私は、何ということを考えているのだろう。こんなことでは、教師失格だ。


 だが。


 私はもうすでに、1度、その領域に踏み込んでいる。


 9年前の出来事を思い出す。

 私はあの時、生きるために、悪となった。


 そして、その出来事が。


 穂波杏が、私をつけ狙う原因になっているのかもしれない――。






出典『羅生門』芥川龍之介、1915

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