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第3話・教師 #05

 ☆




 ――えーっと、“その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。”……ここで、下人には悪を憎む心が生まれる。でも、この時の下人は、老婆がなぜ死人の髪の毛を抜いているのか、その理由を知らない。芥川龍之介は、本文でこうつづっている。“下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。”つまり、周囲の状況や、老婆の行動の異常さで、悪と決めつけた、ということ。


 立花千夏たちとカラオケに行った翌日、大野は早めに登校し、国語の授業の予習をしていた。昨日の『羅生門』の続きである。


「おおのっちおはよー。きのうは、ちょーたのしかったねー」


 チャイムが鳴る10分ほど前に、千夏は登校してきた。昨日のカラオケですっかり打ち解け、おおのっちと呼ばれることにもすっかり慣れた大野は、笑顔で挨拶を返す。


「あ、それ、今日の予習?」


 千夏は、大野の机の上のノートを見ていった。今日の国語の授業でポイントとなりそうなところをまとめたものだ。


「うん。国語の先生って、ちょっと厳しいとこがあるから、何を訊かれても、間違わないように、ね」笑顔で応える大野。


「そっかー。おおのっち、マジメだねー。ねぇ、そのノート、ちょっと写させてもらってもいい? チナツも、昨日みたいに突然当てられると困るから」


「え……」言葉に詰まる大野。昨日は遅くまで千夏たちに付き合っていたので、あまり予習はできていない。だからこうして、早めに登校して、ノートにまとめていたのだ。本当は、もう少しまとめておきたいことがあるのだけれど。


「……だめぇ?」千夏の表情が暗くなる。


「あ……ううん、そんなことないよ。はい」大野は、ノートを千夏に渡した。


「やったー、ありがとう、おおのっちー」ノートを受け取った千夏は、自分のノートを取り出して書き写し始めた。


 ――まあ、いいか。国語の授業は3時間目だし。それまでは、数学の予習でもやろう。


 大野は数学の教科書とノートを取り出した。


「あれ? 千夏、勉強してるの? 大丈夫? 雪でも降るんじゃない?」千夏の友達が集まって来る。昨日カラオケに行ったグループだ。


「だって、昨日みたいに当てられたら困るじゃん」千夏が応える。


「ああ、そうだね」千夏の友達は大野を見る。「ねえ、おおのっち。あたしも、これ写してもいい?」


「え……? うん、いいけど、間違ってたら、ゴメンね」戸惑いながらも、笑顔で言う大野。


「やった、ありがとう、おおのっち」千夏の友達も、自分のノートを持ってきて写しはじめた。


 結局大野は、3時間目の国語の授業まで、ノートを返してもらえなかった。もっとも、それで何か困るということはなかった。予習は完全にはできなかったが、千夏の予想通り、その日の授業で国語教師が指名したのは、昨日と同じ千夏だった。事前に丸写ししておいたノートのおかげで何とか乗り切った千夏は、授業が終わると、「これからも頼りにしてるね」と、笑顔で言った。


 その日から、大野は千夏たちのグループから頼られるようになった。国語の予習のノートだけでなく、数学のノート、英語のノートなども。

 学校が終わると、千夏たちから遊びに誘われることも多かった。予定が無い日は大野も誘いに応じていたが、そう何度も塾をサボるわけにはいかないので、正直に言って断ることがほとんどだった。千夏たちも無理に誘うことはなかった。何度か塾を理由に断っていたら、その内誘われなくなった。


 千夏たちと遊ぶことはなくなったが、相変わらず、勉強に関することは頼られていた。予習のノートを写すだけでなく、宿題や、テストで出そうな問題と、その解答まで訊かれる。千夏たちが遊んでいる間に、寝る間も惜しんでまとめたノートや宿題を、休み時間の数十分で奪って行く千夏たちに不満が無いわけでもなかったが、自分が千夏たちに提供できるものは勉強くらいしかないと大野は思っていたので、文句は言わなかった。もっとも、千夏たちからお礼に何かされたということはなかったが。


 ある日、こんなことがあった。国語の授業中、教師から当てられた千夏は、いつものように事前に写していたノートを見て答えた。その答えが、間違っていた。まったく見当違いの解答だったので、教室は笑いに包まれた。

 千夏は、勉強はできないがプライドが高かった。クラスメイトから笑われたことで、そのプライドが傷ついたのだろう。授業が終わると、千夏の友達が、「どういうこと? あんたのせいで、千夏が笑われたんだけど?」と、大野に詰め寄った。千夏自身は「別に怒ってないよぉ?」と言っていたが、友達を止めようとはしなかった。


 大野は、自分がなぜこんなことを言われなければいけないのか分からなかった。大野が寝る間も惜しんでまとめたノートを、遊んでばかりの千夏たちが勝手に写しただけなのに。しかも、大野自身のノートには、間違いは無かった。千夏が答えを間違えたのは、自分がノートを写し間違えたからである。大野には何の責任もないしそもそも文句を言われる筋合いも無かったが、5人の女子に囲まれ、反論するほど大野は気が強い性格ではなかった。結局大野は謝り、千夏からは、「次は気を付けてよねぇ」と言われた。


 この件は一応これで終わったが、翌日、また事件が起こった。休み時間、千夏たちはいつものように大野のノートを写していた。そこへ、2年生の男子生徒が、千夏を訪ねてきた。バスケ部のエースで、千夏が常々猛アタックをしていた先輩である。何か話があるらしい。喜んで先輩の所へ行こうとした千夏だったが、ひとつ、問題があった。すぐ次の授業が、国語だったのである。つまり、ノートを写すチャンスは今しかない。しかし、先輩と話すチャンスも今しかないかもしれない。悩んだ末に、千夏はとんでもないことを言った。


「おおのっち、これ、チナツのノートに写しといて」


 ゴメン! とか、お願い! とかの言葉もなく、まるでそうするのが当然といわんばかりの表情で自分のノートを差し出す千夏。大野には、全く信じられないことだった。千夏には大野のノートを写させてもらっている、という気持ちが無いのだろうか? これではまるで、千夏が大野のノートを写してあげている、と言っているようなものだ。


 女子には絶対見せない男子向けの笑顔で先輩の所へ行こうとする千夏を、大野は呼び止めた。なに? 急いでるんだけど? という目を向ける千夏。いつもは気弱な大野だが、さすがにこの時は、はっきりと言った。


「ゴメン、千夏。それは、できないよ。写すのは、自分でやってくれる?」


 途端に、千夏の表情が不機嫌になる。千夏と一緒にノートを写していた取り巻きの5人からも笑顔が消えた。


 しかし、憧れの先輩の前である。千夏は平静を装い。「ゴメン、おおのっち。先輩が待ってるの。お願いだから、ね?」


 だが、今回ばかりは大野も譲らなかった。恋愛ごとに興味が無い大野には、その先輩が勉強よりも優先することとは思えなかった。まあ、勉強より恋愛を優先しようがそれは千夏の勝手だし、もしかしたら恋愛とは関係のない、もっと重要な用件なのかもしれない。だが、それでどうして私がノートを写してあげなければいけないのか。ここで安易に「いいよ」と言おうものなら、きっと次からは、それが当たり前になる。これ以上、千夏のために、自分の貴重な勉強時間を削るわけにはいかなかった。


 どんどん不機嫌な顔になる千夏を見かねたのか、取り巻きの1人が言った。「いいよ、千夏。あたしが写しとくから、行っといで」


 とたんに表情が明るくなる千夏。「ありがとー。今度、何かおごるから」


 そして、再び男子向けの笑顔になって、千夏は先輩とどこかへ行ってしまった。


 千夏たちを笑顔で見送った後、取り巻きの5人が、大野を睨んだ。「……ったく、友達が困ってんだから、気を利かせよ」


 大野にしてみれば、あんな自分勝手な理屈を押し付けようとする人を友達だなどと思いたくなかったが、とりあえず「ゴメン」と、謝っておいた。取り巻き達は、そのまま大野のノートを持って、自分たちの席に戻った。


 チャイムが鳴り、千夏が戻って来た。大野には声も掛けず、目も合わせず、席に座る。取り巻きの1人が千夏のノートを持ってきた。しかし、大野にはノートを渡さず、そのまま自分の席に戻った。


「ねぇ、私のノート、知らない?」


 千夏に訊いてみたが、千夏は、まるで大野の声なんて聞こえていないかのように、授業の準備を進める。仕方なく、ノートを持っていった千夏の友達に訊こうとしたが、先生が教室に入ってきたので、それもできなかった。結局、ノート無しで授業を受けるしかなかった。まあ、大体のことは頭に入っていたので、特に困ることはなかった。授業が終わり、ノートを持っていった生徒に訊いたが、千夏同様、何も応えてはくれなかった。他の娘も同様だった。ノートは、別のクラスメイトが見つけてくれた。ごみ箱に捨てられていたそうだ。


 翌日も、千夏のグループは口を利いてくれなかった。それだけなら別に構わないのだが、どういうわけか、他の女子も、大野と口を利こうとしなかった。話しかけようと近づくと、気まずそうな表情で、逃げるように去っていく。昨日、ノートを見つけてくれた娘も同様だった。大野がクラスメイトに無視されるたびに、後ろで千夏たちがクスクス笑っていた。お昼休み、ノートを見つけてくれた娘に、思い切って声をかけた。逃げようとしている所を、ほとんど無理矢理呼び止めたのだ。その娘は、曖昧な笑顔を浮かべ、一緒にお弁当を食べてくれた。その様子を、千夏たちはおもしろくない様子で見ていた。5時間目が始まる前、一緒にお弁当を食べてくれた娘の左頬が、真っ赤に腫れていた。どうしたの? と訊こうとしたが、涙をいっぱいに溜めた目が、話しかけないで、と、訴えていた。千夏たちは、相変わらずクスクス笑いながらこちらを見ている。結局理由は訊けなかった。それから、大野はクラスメイトに話しかけるのをやめた。


 さらに、この日から大野の持ち物がよくなくなるようになった。教科書、ノート、筆箱、体操着、酷い時には、かばんや机ごと無くなっていることもあった。大体は、ごみ箱や廊下、窓の外などで見つかったが、見つからないものも多かった。「死ね」だの「学校に来るな」だの、酷い中傷を書かれ、使えなくなった物もあった。


 ――ああ。私は、いじめに遭っているんだ。


 大野は、そう思った。


 千夏たちのいじめ行為に対して、大野は、何もせずに耐えるだけだった。こういうのは、相手はただ面白半分にやっているだけなのだ。そのうち飽きるだろう。それに、大野と口を利かないと、千夏たちも、ノートや宿題を写せないから困るはずだ。そう思っていた。実際、その点に関しては千夏たちも困っていた。ある日の国語の授業中、宿題をやって来ない、ノートをとらない、質問にも答えられない千夏たちを、担当の国語教師は厳しく叱責した。そして、罰として、千夏たちだけに大量の宿題を出した。


「これ、明日までにやっといて。全部」


 授業が終わった後、千夏たちは、6人分の宿題を大野の机に置いて、そう言った。そんなことをするいわれはない。しかし、「やってくれたら、ハブをやめてあげてもいいよ?」と、笑顔で言われた。本当かどうかは疑問だが、断ると、何をされるか分からなかった。大野は、その日の塾を休み、ほとんど徹夜で、6人分の宿題を仕上げた。翌日、確かにハブは解除されたが、話しかけて来るのは千夏たちだけだった。それも、「今日の授業のノート、写しておいてね」などと、雑用を押し付けるだけだった。他の女生徒たちは、相変わらず大野を避けていた。


 こんなことが、ずっと続くのだろうか? 誰も助けてくれないのだろうか? こんなつらい思いをしてまで、学校に来る意味があるのだろうか? 学校って、何なんだ。クラスメイトって、何なんだ。私って、何なんだ。


 気が狂いそうだった。狂ってしまった方が、楽になれるのかもしれない。いや、いっそのこと、消えてしまいたい。何もかも、すべて、消えてしまえばいい。


 しかし、救いの手を差し伸べてくれる人は、いた。


 千夏たちに宿題を出した国語教師が、異変に気付いた。以前から、大野と千夏たちの関係を不審に思っていたのだ。6人の宿題全てが同じ解答で同じ筆跡であることで、確信したようだった。




 その国語教師は、名を、穂波杏といった――。




 ☆






出典『羅生門』芥川龍之介、1915

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