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第3話・教師 #04

 3時間目が始まるチャイムの音で、大野先生は我に返った。目の前に、体育の用具がたくさん置かれた大型のスチール製ラックがある。四木高校体育館の、倉庫の中だ。今日の体育授業はバレーボールだ。その準備をしていて、少し、考え事に没頭してしまったらしい。


 生徒たちはまだ集まっていなかった。校庭はゾンビだらけで使えないから、体育の授業は体育館で行うことは生徒たちも分かっているはずだ。まだ来ていないということは、着替えが終わっていないのだろう。通常、チャイムが鳴る前に体育館に集まっていなければ遅刻となる。それ以前に、授業の準備を教師自身がするものなのだろうか? 自分の高校時代は自分たちが事前に用意していたはずだ。少し、生徒を甘やかし過ぎだろうか? 大野の高校時代の体育教師はかなり厳しい人だった。チャイムが鳴るまでに集合できていないと、その時間の授業は、永遠とグラウンドを走らされたり、スクワットや腕立て伏せなどの筋力トレーニングをさせられたりした。私も、もう少し厳しくすべきだろうか? いや、それは賢明ではない。厳しい体育教師はほぼ例外なく生徒から嫌われる。自分で言うのも何だが、私はこれまで、生徒に理解のある優しい教師で通って来たはずだ。別に、生徒に嫌われたくないわけではない。教師になって分かったことだが、こういうのには、各々の教師の性格に合った役割分担があるのだ。自分のような若い女性教師が厳しくしたところで、生徒たちにナメられるだけだろう。とは言え、もうこの四木女子高校には私と保健の斉藤先生しかいない。生徒に厳しい保健の先生など聞いたことも無いから、やはり私が厳しくすべきだろうか? ああ、やはり、1人で全ての授業を行うなど、無理だっただろうか?


 ……と、また、考え事に没頭するところだった。それより早くバレーボールの準備をしないと。


 大野先生はボールの入ったかごを左手で引き、右手で、棚の3段目に畳んで置かれてあるネットを取ろうとした。


 ……ぐい。


 何かが引っかかったが、少し慌てていたため、そのまま引っ張ってしまった。

 ぐらり、と、棚が傾く。


 ――え?


 次の瞬間、スチール製の大型ラックが、大野先生に向かって倒れてきた。

 静かな体育館に大野先生の悲鳴が響き渡る。


 幸い、ボールのかごが支えになり、棚自体に押しつぶされることはなかったが、倒れた勢いで、頭を打ってしまった。一瞬、目の前が暗くなる。


 …………。


 なんとか意識を保つことができた。ああ、何してるんだろう、私。こんな所を生徒に見られたら、笑われてしまう。とりあえず、棚の下から出ようとした。しかし、できなかった。倒れた棚とボールのかごに足を挟まれ、抜けなかった。スチール製の棚は重く、非力な自分1人の力では持ち上げられそうにない。仕方がない。笑われるかもしれないけど、生徒たちが来るのを待とう。いくらなんでも、もうすぐ来るだろう。


 ポタリ、と。


 大野の額をつたった汗が、床に流れ落ちた。


 今はまだ5月とは言え、閉めきった体育倉庫はそれなりに暑い。しかし、大野先生はもともと汗をかきにくい体質だ。このくらいの気温で床に落ちる程の汗をかくはずはない。見ると、流れ落ちた汗は、真っ赤な色が付いている。


 ――え? これ、血?


 先ほど床にぶつけた頭を触る。ズキン、と、鋭い痛みに気を失いそうになる。手には、べっとりと真っ赤な血が付いていた。


 ――これ、結構ヤバい量だわ。


 自分でも驚くほど冷静にそんなことを思った。落ち着いている場合でもないが、パニックになっても仕方がない。出血量が増えるだけだ。このままおとなしく、生徒たちが来るのを待とう。


 ――――。


 いつから、そこにいたのか。


 倒れた棚の側に、穂波杏が立っていた。


 体操着は着ていない。セーラー服のままだ。じっと、大野先生を見つめている。


「……穂波さん。ちょうど良かった。先生、ちょっと動けなくて。誰か、呼んできてくれないかしら? ああ、でも、大したことはないから、あまり騒ぎにしないでね」


 思うように声が出なかったが、なんとかそう言った。

 だが、穂波は動こうとはしない。

 ただ立ち尽くし、冷たい目で、倒れた大野先生を見下ろしている。


「穂波……さん……?」


 口元に、人を不快にさせる笑みを浮かべる穂波。


「ゴメンなさい、穂波さん。本当のことを言うわ。先生、わりと本気で困ってるの。足を挟まれて動けないし、頭もケガしてるし。冗談とかじゃないのよ? だから、早くみんなを呼んできて」


 湧き上がる怒りを抑え、なんとか穏やかな口調で言った。


 穂波は、小走りで体育倉庫の外に出た。良かった。安堵する大野先生。しかし。


「――くけけ」


 扉の所で振り返り、薄気味悪い笑い声をあげる穂波。


「穂波……さん……?」


 ゆっくりと。

 扉が閉まり始める。


「ちょっと待って、穂波さん。そこは、閉めなくていいから。開けておいたままで、誰か呼んできて、ね?」


 だが、穂波は大野の声など聞こえていないかのように、不気味に笑いながら、扉を閉める。


「穂波さん!」


 バタン、と。

 扉は閉ざされ。


 穂波が、一層甲高い声で、あの薄気味悪い笑い声をあげる。

 そして、その笑い声が、少しずつ遠ざかっていく。


「穂波さん! 待ちなさい! 穂波さん!! ほな――!!」


 どんなに叫んでも、穂波には届かない。やがて、穂波の笑い声は完全に聞こえなくなった。


 あの娘、いったどういうつもりなの……? こっちは頭から出血するほどの怪我を負っている。それに気が付かなかったわけはない。それを放っておくなんて、悪ふざけにもほどがある。こんなことは、冗談では済まされない。


 ――――。


 息を飲む。

 もし、冗談じゃなかったとしたら?

 大野先生の背中を、冷たい汗が伝う。暑いからではない。恐ろしいからだ。


 穂波さんが、本気で、私を見捨てたのだとしたら?


 考えてみたら、あの娘は、いつから体育倉庫にいたのだろう。


 棚が倒れて私が下敷きになったのを見て、駆けつけてくれたのだろうか? 普通に考えるとそうだが、ならば、なぜ、助けを呼ぼうとしないのか? なぜ、扉を閉ざしたのか?


 それに、いくら私が考え事をしていたとはいえ、近づいて来たら気がつくだろう。体育館は静かで、よく音が響く。足音などは、特に。


 3時間目の授業が体育だということは、生徒はみんな知っている。私が事前に準備をすることは、生徒はみんな知っている。穂波さんも知っている。


 ――あの娘は、最初からこの倉庫にいたのではないのだろうか?


 私が倉庫を開けた時は誰もいなかった。しかし、特に注意して調べたわけではない。体育倉庫だ。隠れる所はいくらでもある。


 そして。


 この、倒れてきた棚。スチール製で、重く、どっしりとした安定感がある。バレーのネットが引っかかったくらいで、倒れるようなものだろうか? 私は、そんなに強く引っ張ってはいないはずだ。


 まさか、あの娘は……。


 ああ、こんなことを考えてはいけない。生徒を疑うなど、教師失格だ。

 しかし、疑わずにはいられない。すべてが、そうだと告げている。


 ――穂波さんは、あらかじめ倉庫で待ち伏せし、私に向かって棚を倒したのではないのだろうか?


 それしか考えられない。だが、何のためにそんなことを?


 PYC症候群。


 さっき、斉藤先生から聞いたことを思い出す。


 ――PYC症候群は、重症化すると、幻覚や幻聴、被害妄想などの症状が出てきて、やがては生活に障害が出てきます。最悪の場合、自分や他者を傷つけてしまうこともあるようですし……。


 穂波さんの症状は、もう、そんな段階まで進んでいたのだろうか?


 だが、斉藤先生の話では、PYC症候群は、異常行動の対象が特定の人物に対して向けられることはないらしい。なぜ、穂波さんは私ばかりを狙うのか。やはり、9年前の、あの出来事が関係しているのか――?


 ぐにゃり、と、視界が歪んだ。穂波さんの恐ろしさに気が遠くなったというのもあるが、どうやら、頭の怪我は思った以上に酷いようだ。このままでは、意識を失うのも時間の問題だろう。


 扉の向こうから、生徒たちの声が聞こえた。ああ、やっと来てくれた。みんな助けて! 叫ぼうとしたが、声が出なかった。世界が徐々に暗くなっていく。電気を消されたわけではない。意識が、遠のいているのだ。


「……あれ? 大野先生、いないですね?」


 この声は、ツインテールの2年生・市川美青だ。


 大丈夫。体育の授業がバレーボールということは伝えてある。私がいなくても、ボールやネットを準備するために、倉庫を開けるはずだ。だから、動けなくても、声が出なくても、見つけてくれるはずだ。


「……さっきの授業中、ワケの分からないことをわめいて出て行ったままだから、また自習なんじゃないの?」


 この声は、ギャルグループのリーダー・青山梨花だ。ワケの分からないことって……あなたたちが原因でしょうが! 怒りが、ますます世界を暗くする。ダメだ。このままでは、意識を失ってしまう。ここよ! 先生はここ! 体育倉庫の中!! だが、やはり声は出ない。


「……教室に戻ろうか? 先生いないなら、体育なんて、やらなくてもいいし」


 この声は、ギャルグループの1人・葉山未衣愛だ。


「……そうね。ただでさえ食料が少ないのに、ムダに動き回って体力消耗するなんて、バカげてるわ」


 この声は梨花だ。


 この娘たち、まさか、穂波さんに言われて、体育倉庫にみんなを近づけないようにしてるのでは? そうだ。そうに違いない。みんなダメ! 教室に戻らないで!


「……じゃあ、『食料が少ないのに体育の授業は必要か?』という議題で、ガッ活しましょうか?」


 この声は美青だ。


「……ま、体育をするよりはマシだわね。行きましょ」


 梨花の声で。

 生徒たちの声が、遠ざかっていく。


 ダメ! 待って! 行かないで! お願い! 声は出ない。


 体育館は、静寂に包まれた。


 意識は、さらに遠のいていく。まずい。このままここにずっと放置されたら、私はどうなるのだろう? 出血多量で死ぬのだろうか? いや、動脈とかを切ったのではない限り、血はいずれ止まるだろう。ならば、食べ物が無くて餓死するのだろうか? いや、その前に水だ。水が無ければ、人間は3日ほどで死んでしまう。フフ、こんなゾンビだらけの世界で、体育館の倉庫に閉じ込められて死ぬなんて、お笑いだわ。まあ、さすがにそれまでには、誰かが見つけてくれるだろうけど……。


 ――――。


 ゾンビ?


 イヤな考えが頭をよぎる。


 もし、穂波さんが、本当に私に危害を加えようとしているのならば。いや、危害はもう加えられている。これ以上のことを――考えたくもないが、私を、殺そうとしているのなら。


 餓死や脱水症状での死、なんて、時間のかかることをするだろうか?


 生徒たちは学校内で暮らしている。いくらなんでも夕方まで私が姿を見せなければ探してくれるはずだ。四木高はそう広くない。すぐに見つけてくれるだろう。


 そう。私を殺そうとしているのならば、このまま放置しておくはずがないのだ。

 扉を閉め、1度、体育館を去ったのは、クラスのみんなが体育館に来ることが分かっていたからではないのか。みんなが教室に戻った後、また、ここに来るに違いない。


 そう――ゾンビを連れて。


 ゾンビの動きは遅い。捕獲するのは、そう難しいことではない。

 そして、この状態で襲われたら、例え動きが遅くても、逃げることはできない。


 そうだ……穂波さんの狙いはそれだ。ゾンビに襲わせて、私を殺す気だ!


 その時。


 体育館に、再び人の気配が。

 声は聞こえない。足音だ。


 1人……いや、2人か。


 ゆっくりと、こちらへ近づいてくる。


 まさか、もう穂波さんが!?


 このままでは、本当にゾンビに襲われてしまう。逃げなければ。挟まった足を引く。動くことさえできれば、ゾンビの1匹くらい、なんとかなるだろう。だが、どんなに引いても、足は抜けない。動けない。足音は、近づいてくる。意識は、遠くなる。


 扉が、開いた。


「――――!!」


 息を飲む声。自分の声か、現れた人の声か、もう、分からない。


「――先生! 大丈夫ですか!?」


 ああ、この声は玲奈さんだ。優等生の、宮沢玲奈さんだ。良かった……私は……助かった……。




 大野先生は、意識を失った――。






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