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第3話・教師 #03

 9年前、大野美津子は16歳で、隣街の、とある県立高校に通っていた。


 教師を目指すのはもう少し後のことになる。だからというわけでもないが、勉強は、できない方ではなかったが特別できるということもなかった。成績は中の上から上の下辺り。運動は苦手。部活はやらなかったが、本を読むことが好きだったので図書委員をやっていた。容姿は、特別可愛くもなければ可愛くなくもない。要するに、地味な女生徒だったのだ。


 社交的な性格ではなかったが、友達はそれなりにいたはずだ。しかし、25歳の現在も交流がある人はいない。実際に会う人はもちろん、電話やメール、SNS、年賀状のやり取りすらしていない。1度だけ同窓会の案内が来たが、出欠の返信すらしなかった。高校があった隣街は、車で1時間ほどの距離である。大きな街なので、休みの日は買い物などでよく通っているし、恐らく、同級生とすれ違ったりもしているだろう。だが、大野から声をかけることも無ければ、大野が声をかけられることも無かった。そもそも大野は、高校時代の同級生の名前も顔も、ほとんど思い出せなかった。卒業アルバムを開けば何人かは思い出すかもしれないが、今、アルバムがどこにあるのかは分からない。捨ててはいないと思う。実家のどこかにあるはずだが、探す必要性を感じないので、ずっとそのままだ。薄情な人間だと言われればそれまでだが、それはあくまでも、高校の同級生に限った話である。大学時代の友人とは今でも交流があるし(もちろん、アウトブレイク以前の話である。アウトブレイク後は、友人どころか学校外と連絡を取る手段すらない状態だ)、中学以前の同級生は、実際の交流こそないが、年賀状のやり取りをしている人はいるし、名前も顔も思い出せる人が多い。大野にとって、高校の同級生だけが、関わりたくない、思い出したくない人ばかりなのだ。


 そんな中で。


 1人だけ、どうしても、名前も顔も忘れられない人がいる。良い意味ではない。むしろ、一番忘れたい、一番思い出したくない人だった。


 名を、立花(たちばな)千夏(ちなつ)という。


 一言で言えば、青山梨花のような生徒だった。




 ☆




「――ここで作者の芥川龍之介は、物語の書き出しの、“一人の下人(げにん)が、羅生門(らしょうもん)の下で雨やみを待っていた。”というところを、“『雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた』と云う方が、適当である。”と訂正します。この物語の舞台である京都が、かなり荒廃しているということは、昨日の授業でやりましたね。その影響で、下人は仕えていた主人から暇を出されてしった。要するに、クビになってしまったのです。下人というくらいですから住む家も財産もない。仕事が無くなれば、行く宛も無くなる。この場面では、そういった下人の置かれた状況を綴っています」


 大野美津子は国語教師の解説を簡潔にノートに記していった。芥川龍之介の『羅生門』は、高校の国語では定番中の定番である、と、インターネットの学習サイトに書かれてあった。ゆえに、テストで出題される可能性は極めて高いし、後々の受験勉強でも重要になって来ることが予想された。大野はテスト範囲をまんべんなく勉強するよりも、出題される可能性が高いところをある程度絞って集中的に勉強するタイプだった。だから、この『羅生門』の授業は、教師の言うことを一言も漏らさないくらいの覚悟で挑んでいた。担当の国語教師は25歳の若い女性教師である。淡々と授業を進める傾向にあり、生徒の興味を引こうと面白おかしく説明をしたり、無駄な雑談に走るようなことはしない。あまり生徒からは好かれていないが、要点が明確で分かりやすく、大野の性格には合っていた。


 大野の通う高校は、隣街にある聖園高校ほどではないが、県内ではそこそこの進学率を誇っていた。大野のように集中して授業に臨む生徒がほとんどであったが、どこの学校にも落ちこぼれはいるものだ。大野の隣の席の立花千夏は、机の上に教科書とノートを広げてはいるものの、視線はそれよりも手前、机の下の携帯電話に向けられている。メールのやり取りでもしているのだろうか、親指はせわしなくボタンの上を走り回っている。よくあんなスピードで文字が打てるな、と、大野は感心半分呆れ半分の気持ちで、時々横目で千夏を見ていた。


 国語教師はさらに授業を進める。「――続いての文、“雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した(いらか)の先に、重たくうす暗い雲を支えている。”。これは、情景を表すと同時に、下人の今の心情も表しています。では、この時の下人の心情とは、どういう物だったのか――立花さん、分かりますか?」


「――は、はい?」突然指名され、千夏は携帯を机の中にしまい、慌てた様子で立ち上がった。メール打ちに没頭していたから、質問すら聞いてないだろう。


「この時の下人の心情とは、どういう物だったのか? しっかりと本文を読んでいれば、分かるはずですが?」追い込むような口調の教師。


「あ、はい。えーっと」千夏は慌てて教科書のページをめくる。教師の言う通り、しっかりと読んでいれば特別難しい問題ではないが、逆に言えば、読んでなければ分かるはずもないのだ。案の定、千夏は助けを求める視線を隣の席の大野に向けた。大野は教師にバレないように、自分の教科書の33ページの一節をシャーペンでなぞり、千夏に示した。


「――はい。えーっと、“『盗人(ぬすびと)になるよりほかに仕方がない』と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。”?」


 大野がなぞった部分をたどたどしい口調で読み上げる千夏。大野にしてみれば、できれば自分なりにアレンジした言葉で答えてほしかったのだが、まあ、千夏にそこまで求めるのも、無理な話だった。


「……本文をそのまま読んだだけですが、まあ、いいでしょう」国語教師は、渋々という感じで千夏の答えを認めた。「つまり、仕事を失い途方に暮れていた下人は、飢え死にしないためには、盗みをするよりほかにないことは分かっていた。分かってはいたのですが、その勇気が無くて決断しかねている。この場面では、そういった下人の優柔不断な心理が描かれているのです」


 危機を切り抜け、千夏はほっとした表情で席に着く。そして、大野に笑顔を向け「ありがと」と、小さな声で言って片目を閉じだ。大野は、小さく微笑み返した。


 後から思えば、この授業中の小さな親切が、この後起こる出来事の全ての始まりだったのだが、当然大野はそんなことに気付くはずもなく、そのまま授業を受け続けた。







「――さっきはホントにありがとー、おおのっちー。まじでたすかったよー」


 授業が終わり、教師が教室を出たところで、隣の席の立花千夏が人懐っこい笑顔で声をかけてくる。いままでほとんど話したことが無いにもかかわらず、いきなり『おおのっち』という初めて聞くニックネームで呼ばれ、大野は戸惑いながらも微笑み返した。


「それにしてもアイツ、チョームカツクよねー。チナツが答えられないの分かってて、ワザと当てるんだもん、ホント、性格サイアクー。おおのっちも、そう思わない?」姑に嫌がらせをされた新妻のような視線を向ける千夏。


 大野は今の国語教師のことを厳しい人だとは思うが、特別性格が悪いとは思っていなかった。むしろ、大野の性格に合った授業をしてくれて、好意を抱いている。しかし、それを言うと千夏の機嫌が悪くなるかもしれないので、曖昧に笑って、「ホント、そうだね」と答えた。


「千夏? 何してんの? 早く行こうよ」


 廊下で千夏と仲の良いクラスメイトが呼んだ。今の国語で今日の授業は終了。部活や委員会に属していなければ、後は帰るだけである。


「待ってー、すぐ行くー」手を振って応える千夏。廊下には5人ほどの女子が集まっていた。全員、どちらかといえば勉強ができない生徒たちである。「――チナツたち、今からみんなでカラオケ行くんだけどー、おおのっちも、一緒に来ない?」


 誘われ、大野は少し困る(もちろん、顔には出さなかったが)。歌はあまり得意でないので、カラオケは好きではない。気心の知れた友達や家族ならまだしも、ほとんど話したことのない千夏たちの前で歌うのは避けたかった。まあ、仮にカラオケじゃなくても、できれば遠慮したいところではある。どう考えても、自分は千夏と噛み合いそうにない。


「あれぇ? なんか、都合悪い?」答えない大野に、千夏の表情が、少し曇った。


「え? あ、ううん、そんなことないよ」慌てて首を振る大野。


「そう? じゃあ、行こー!」


 笑顔が戻る千夏。大野は仕方なく、千夏に付き合うことにした。本当はこの後塾があるのだが、まあ、1、2時間くらいなら大丈夫だろう。帰り支度を整え、千夏と一緒に教室を出る。


「あれ? 大野さんも来るの?」千夏の友達が、珍しいものを見る目を大野に向ける。


「そーだよー。さっきの授業で助けてもらったから、チナツたち、もう心友なんだー」大野の腕に抱きついてくる千夏。


「ふーん、そうなんだ。まあ、いいけど」千夏の友達は、あまり歓迎していないような雰囲気で言った。千夏同様、これまで大野とはほとんど話したことのないメンバーだった。居心地が悪いことこの上ない。


「それじゃ、れっつごー!」


 そんな微妙な雰囲気に全く気付いていないように、千夏は嬉しそうに声を上げた。


 これまでほとんど接点が無かったが、地味で目立たない大野とは違い、立花千夏は、クラスの人気者と言って良かった。休み時間や放課後には、男女を問わず多くのクラスメイトが、彼女の周りに集まって来る。千夏は、勉強はもちろん、スポーツも得意ではないし、部活や委員会にも属していない。それでも人気があるのは、容姿がキレイだからと、話がおもしろいからだろう。その2つだけで、千夏は男子からの人気が高かった。同時に、男子から人気を得る方法を、他の女子に教えるのが上手だったのである。メイクの方法やファッションの流行などに詳しかったのだ。そんな訳で、立花千夏は、クラスの中心とも言えるポジションを築いていたのである。大野とは正反対の生徒といえた。


 結局その日、大野は塾を休んでしまった。カラオケ中、何度も「今日、私塾だから、もう、行くね」と言おうとしたのだが、楽しそうに歌う千夏たちを前に、結局言い出せなかった。それに、大野自身、意外と楽しんでもいた。最初の方こそ気乗りがしなかった千夏の友達と大野だったが、千夏が中心になって盛り上げてくれるので、いつの間にか打ち解けていた。こういうところがクラスメイトから慕われる理由なんだろうな、と、大野が感心するほどだった。それは、自分には無い魅力を持っている千夏への憧れとも言えた。




 ☆




 ――――。



 3時間目のチャイムが鳴る音で。



 大野先生は、我に返った。






出典『羅生門』芥川龍之介、1915

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