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第3話・教師 #02

 穂波(ほなみ)(あん)は、4月に入学したばかりの1年生だ。街の落ちこぼれが集まるこの四木女子高校の問題児グループである青山梨花たちギャルグループ、その中でも、最も問題のある生徒だった。先ほどのように授業中奇声をあげたり教室内を走り回ったり教室の外に出て行ったりで、授業の妨害行為を繰り返しているのだ。


「――本当に、穂波さんには困ったモノです。もし教頭先生や校長先生がいたら、なんと言われていたか」


 保健室のベッドに腰を掛け、花柄のティーカップで熱いコーヒーをすすりながら、ため息とともに愚痴を言う大野先生。教頭や校長、学年主任の先生は、すでにこの学校を去っている。そのため、穂波のことで大野先生を叱る人がいないのは幸いだったが、だからと言ってこのまま放置していい問題ではない。教師は大野先生しかいないため、授業は、ただでさえ大きく遅れている。今はまだ他の生徒たちも何も言わないが、こう何度も授業を中断されていては、宮沢玲奈をはじめとした真面目に授業を受けている生徒から苦情が出るのは時間の問題だろう。もちろん、たとえ苦情が出なくても、穂波を放っておくなど大野先生には出来なかった。どんなに問題がある生徒でも、今となっては数少ない教え子の1人なのだから。


「こんなゾンビだらけの世界になっても生徒のことを考える――大野先生は、教師の鑑ですね」斉藤先生は真面目に言っているのか茶化しているのか分からない口調で言い、大きなハートがデザインされたティーカップでコーヒーをすすった。


「当たり前です」大野先生は斉藤先生をまっすぐに見つめる。「アウトブレイクの後、ほとんどの教師が、生徒たちを見捨ててこの学校を去って行きました。私は今でも信じられません。教師が、家族や帰る場所を失った生徒たちを見捨てたんですよ? あの娘たちは何も言いませんけど、きっと、心に大人への不信感を抱いているはずです。穂波さんや梨花さんたちが反抗的な態度をとるのも、それが原因だと思っています。彼女たちを救ってあげられるのは、もう、私しかいないんです」


「うふふ。その通りですね」斉藤先生はコーヒーを机の上に置き、椅子に座って足を組んだ。


 斉藤先生は、大野先生と同じくアウトブレイク後も逃げずにこの学校に残った数少ない教師の1人だ。養護教諭、いわゆる保健の先生で、年齢は大野先生と同じ25歳。アウトブレイク以前から学校で起こる様々なことの相談にのってもらっている。仕事上の付き合いだけでなくプライベートで会うこともあり、大野先生とは親友と呼べる間柄だった。


「しかし、青山梨花さんに関しては、大人に対する不信感の表れ、と見て間違いないと思いますけど――」斉藤先生は、アゴに手を当てて考えるポーズをする。「穂波さんに関しては、ちょっと違うような気がするんですよねぇ」


「と、言いますと?」


「はい。あたしも、大野先生の話を聞いていろいろと調べてみたんですけど――」斉藤先生は席を立ち、本棚から1冊の本を取り出した。「大野先生は、『PYC症候群』というのをご存知ですか?」


「――『PYC症候群?』」聞き覚えのない言葉に、首を傾げる大野先生。


「精神疾患のひとつです」斉藤先生は本のページをめくる。「ドイツの精神科医・ペトラ・Y・クラッセン博士が提唱したので、この名がついています」


「精神疾患……ですか」


「はい。まあ、あたしも専門家ではないので確かなことは言えないんですけどね。穂波さんには、授業の妨害の他にも、様々な問題行動が見られますよね?」


「はい。授業中以外でも、休み時間や放課後に、私のことを付け回し、いつも私の行動を邪魔します。例えば、トイレに入ろうとすると、先回りして、掃除を始めてトイレを使えなくするんです。洗顔や歯磨きの時も同じです。やはり先回りして洗面台を使えなくします。また、夜、眠ろうとしたら、私の部屋の前にやって来て、変な笑い声をあげたり大きな音を立てたりして眠らせないようにしたり……私、もう頭がおかしくなりそうですよ」


 思い出し、頭を抱える大野先生。穂波がこのような行動を取り始めたのは1ヶ月ほど前からだ。最初は子供の悪ふざけ、無視しておけばそのうち飽きてやめるだろう、と、気に留めないようにしていたが、やめるどころか、何も言わないのをいいことにどんどんエスカレートしていった。今では、ずっとどこかで監視しているのではないかと思えるほどだ。もはやストーカー行為といってもよかった。


 大野先生の話を聞き、斉藤先生は、本のページを開いて渡した。「それらの異常行動は、全て、PYC症候群の特徴に当てはまるんですよ」


 そこには、PYC症候群の症状が書かれてあった。ざっと目を通してみるが、確かに、穂波の行動と一致するようだ。


「では、斉藤先生は、穂波さんが精神疾患だと?」大野先生は本から斉藤先生へ目を戻した。


「可能性は高いと思います」斉藤先生は腕を組んだ。「そうだとすると、ちょっと、困ったことになりますね」


 大野先生もうなるしかなかった。生徒に精神疾患が疑われる場合、通常なら、専門家医に相談し、治療してもらうことが望ましい。しかし、アウトブレイク後のこの街には、病院や医師はもう存在しない。保健の斉藤先生が専門外なら、他に頼れる人はいないのだ。本などを調べれば治療方法は分かるかもしれないが、専門でない者が安易に精神疾患の治療行為を行うのは危険だし、こんなゾンビだらけの世界では、治療薬が手に入る可能性も少ないだろう。


「だからと言って、放っておくわけにもいきませんからね」斉藤先生は椅子に座り直した。「PYC症候群は、重症化すると、幻覚や幻聴、被害妄想などの症状が出てきて、やがては生活に障害が出てきます。最悪の場合、自分や他者を傷つけてしまうこともあるようですし……」


 大野先生は息を飲んだ。自分の教え子が他人を傷つける。考えただけでも恐ろしい。「――そうなる前に、なんとかしないといけませんね」


「そうですね――」斉藤先生はコーヒーをすすり、考え事をするように床の一点を見つめた。何か、気になることがあるような様子


「斉藤先生?」大野先生は斉藤先生の顔を覗き込んだ。


「ああ、すみません」斉藤先生は大野先生に向き直る。


「何か、他に気になることがあるのなら、何でも言ってください」訊いてみる。


「うーん、そうですねぇ」斉藤先生の視線が決断しかねるように宙をさまよっていたが、やがて、大野先生に戻って来た。「精神疾患が専門ではないあたしがこういうことを言うのは良くないとは思うんですが、穂波さんの行動で、ひとつ、腑に落ちない点があるんです」


「腑に落ちない点、ですか?」


「はい。あくまでも、素人が本に書かれてあることと照らし合わせただけなのであまり信用しないでほしいんですけど――」声を潜めるような斉藤先生。「穂波さんの異常行動は、大野先生だけに向けられているんですよね?」


「そう、だと思います。生徒から、穂波さんに関する苦情が出たことはありませんから」


「それが、腑に落ちないんですよねぇ。こういった精神疾患の場合、行動の対象が、特定の1人だけに向けられる例は、あまり無いんです。多くの場合、周囲の全ての人に対して行われます」


 そうなのだろうか? 大野先生は腕を組む。精神疾患に関しては斉藤先生以上に専門外だが、確かに、今読んだPYC症候群の本にも、そのように書かれていたように思う。


「穂波さんの異常行動が大野先生だけに向けられているのだとしたら、何か原因があると思うんですが……大野先生、何か、穂波さんから恨まれるようなことはありませんでしたか?」


 ドクン、と。

 心臓が大きく鼓動し、体内に血液を送り出した。


 ――穂波さんが、私を恨む?


 そんなことはあり得ない。あり得ないが……。

 忘れていた記憶が――いや、忘れたいと思っていた記憶が、よみがえる。

 ちがう……ちがう、ちがうちがうあり得ないあり得ないあり得ないそんなことはあり得ない!


「――大野先生?」


 我に返る。斉藤先生が、心配そうに顔を覗き込んでいた。


「何か、心当たりがありますか?」探るような目を向けてくる斉藤先生。


 大野先生は大きく息を吐き出した。「――いえ、穂波さんから、恨まれるような覚えはありません。ただ――」


「ただ?」


 大野先生は一瞬だけ迷った後、言葉を継いだ。「――最近の若い娘は、ちょっと叱っただけでも根に持つことがありますからね。それで傷害事件を起こす、なんてニュースも、アウトブレイク前はよくありましたし」


「……そう、ですか」斉藤先生は納得がいかないような表情だったが、幸いそれ以上追及しようとはしなかった。


 チャイムが鳴った。2時間目が終了した合図だ。


「……ああ、3時間目は体育だったわ。準備しないと」大野先生はすっかりぬるくなったコーヒーを飲み干すと、保健室内の洗面台で軽く洗った。「私、体育の授業の準備があるので、もう行きますね。斉藤先生、いつも話を聞いてくれて、ありがとうございます」


「いえ、いつでも相談してください」決して社交辞令ではないと思える笑顔で言う斉藤先生。「あたしは、もう少しPYC症候群について調べておきます」


「はい、よろしくお願いします」


 大野先生は深く頭を下げると、保健室を後にした。

 そして、大きく息を吐き出す。


 ――穂波さんが、私を恨む?


 斉藤先生が言ったことを考える。

 そんなことはあり得ない。あり得ないが。


 9年前の、思い出してはいけないことを、思い出したくないことを、思い出してしまう。


 もしも、あの時の出来事が関係しているのだとしたら……。


 大きく首を振り、考えを振り払う。そんなことは、あり得ない。

 3時間目は体育だ。大野先生が最も苦手とする授業だが、生徒たちのために、やらなければいけない。


 大野先生は、重い足取りで体育館へ向かった。






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