第2話・ボクシング部員 #11
放課後。
ボクシング部の練習場で、練習着に着替えた茉優は、サンドバッグの前に立ち、ゆっくりと、構えた。タイマー・ゴングが鳴った。身体を上下にリズミカルに揺らし、軽くステップを踏みながら、サンドバッグに向かって拳を振るう。怪我をしている左手は寸止めし、右は力強く打ち込んだ。フットワークを使い、ゆっくりとサンドバッグの周りをまわりながら、拳を打ち込んでいく。だが、ゴングが鳴ってから30秒ほど、左の寸止めのジャブから右アッパー、右フックと続けた後、思わず左のフックを、思いっきり打ってしまう。
「――――ぁ!」
言葉にならない低いうめき声をあげ、茉優は左手を抱えてうずくまった。しばらく痛みのあまり動けない。
「……いったぁ。やっぱ、左腕ケガしてるのって、キツイわ。ボクシングって、どちらかというと、利き手じゃない方が使用頻度高いからなー」
独り言をつぶやいても痛みを紛らわすことはできなかった。治まるのを待つしかない。
カーン、と、ゴングが鳴る。1分間のインターバルの後、もう1度鳴るが、すっかり練習する気は無くなってしまった。リング側のイスに座り、天井を見上げた。
しばらくそのまま、練習場に、静寂が流れる。
ゴトリ……何かが崩れたような、低い音が聞こえた。
練習場内には茉優1人しかいない。
茉優は、物音を気にした風もなく、ただ、天井を見つめ続ける。
――と。
「失礼しまぁす」
間延びした声で練習場に入ってきたのは、2年生の北原愛だった。ゾンビの研究をしたり、校内で携帯が繋がるようにした、天才少女である。
「朝は校庭のゾンビは少なかったのに、夕方になってから、また増えましたねぇ。外から集まってきたようです。あいつらも、この学校にエサがたくさん集まってるって、分かってるのかもしれません」
右手の武器をブンブンと振った。愛が使っているのは、スタンガン付きの警棒だ。改造して、少しだけ出力をアップしているらしい。本当かどうかわからないが、象が0.48秒で昏倒するくらいのレベルだそうだ。おかげの愛の戦闘力は、テコンドー使いの里琴、ボクシング部の茉優に次ぐ、15000だそうである。
「茉優さん、左手の具合は、どうですか?」警棒を入口近くに置き、茉優の方へ近づく愛。
「さっきまでは悪くなかったけど、思わずサンドバッグ殴っちゃって、今、悪化したところ」茉優は冗談っぽく言った。
「あらあら、それはいけませんねぇ」愛は、肩に下げた四木高のスポーツバッグから、ボトルガムのようなものを、2つ取り出した。「これ、新しい鎮痛剤と、抗生物質です。使いすぎに注意してくださいね」
茉優はお礼を言って鎮痛剤を受け取った。今、生徒たちの怪我や病気の治療は、そのほとんどを愛が行っている。応急手当や症状に合った市販の薬を渡すだけでなく、簡単な手術や薬の調合なども行っている。もちろん、まだ17歳の愛は、医師免許や薬剤師の資格などは持っていない。すべて、本を読んで得た知識だそうだ。何とも頼りない話ではあるが、医学の知識がある人は、もうこの学校には愛1人だけなので、彼女の天才ぶりに頼るしかない。
「それにしても、今日の学活は、おもしろかったですねぇ」愛は、バッグの中を探りながら言う。「特に、最後の方の、茉優さんのセリフが、見どころでしたね。『ゾンビになったら、ためらいなく、やる。たとえそれが、どんなに大切な人でも、あたしはやるよ』でしたっけ? いやぁ、茉優さんの口から、あんな言葉が聞けるなんて、思いもしませんでした。あたしあの時、笑いをこらえるのに必死でしたよ。ホント、とんだ茶番劇でしたね」
ギロリ、と、茉優は愛を睨んだ。
「……やだなぁ。そんな怖い目で見ないでくださいよぉ。冗談ですよ、冗談」愛は、悪びれた様子も無く、右手をひらひら振ってそう言った。そして、少し真面目な顔になって。「……それで、どうします? 今日も、実験を続けますか?」
茉優は愛から目を逸らし、更衣室の方を見た。じっと、見つめ続ける。
ゴトリ。また、音がした。更衣室の中からだ。
「――やろう」
茉優は、ゆっくりと立ち上がり、更衣室へ向かった。
愛は小さくため息をつき、茉優の後ろからついて行った。
茉優は、ポケットから更衣室の鍵を取り出した。更衣室の鍵は、この1本だけだ。茉優にしか開けることはできない。扉を、開けた。
中は、10個ほどのロッカーが並ぶ、奥に細長く広がった部屋だ。
その、一番奥に。
人が、倒れている。
うつ伏せの状態。背中に『四木女子ボクシング部』とプリントされたパーカーを着ている。茉優たちの気配に気づいて、顔を上げた。深い緑色の肌、深紅の血を流す目。ゾンビだった。口に、鉄のマスクのようなものが付けられてある。咬みつかないようにするための口枷だ。手足にも拘束具が付けられ、さらに、壁に打ち込まれた鉄の杭に繋がれ、完全に自由を奪われていた。
茉優は、部屋の奥に転がるゾンビを、愛おしそうな表情で見つめる。「……ゴメンね、藤重先生……こんな所に、1人で閉じ込めて」
目に涙さえ浮かべている茉優の横を通り抜け、愛がゾンビに近づいて行った。「うーん、だいぶ弱ってますねぇ」
愛は、バッグを地面に置き、中から取り出した道具で、ゾンビを調べ始めた。ペンライトで眼球の動きを調べ、注射器で血液を採取し、メスで肉片を切り取ってビニール袋の中に入れた。ほかにもさまざまな検査をし、その結果をノートに書き留めていく。
「……そろそろ、危ないですねぇ」一通りの検査を終えた愛が茉優に向かって言った。「もうエサを与えないと死んじゃうと思いますけど、どうします?」
愛の問いに、茉優は、無言で頷いた。
やれやれ、と、愛は小さくつぶやいて、ゾンビの口枷を外した。
茉優は、左腕に巻かれた包帯をほどいていく。流れるように足元に落ちる包帯は、最初の方こそ真っ白だったが、やがて、血がしみ込んで固まった赤黒い色に変わって行った。
包帯を、全てといた。
茉優の左腕は、肘から先の至る所の肉が削げ落ち、ピンク色の筋肉が、剥き出しになっていた。白いモノが見える傷もある。骨が、見えているのだ。
茉優は、その左手を、愛に差し出した。
愛は、バッグの中から新しいメスを取り出すと。
刃先を、茉優の左腕の、まだ肉が残っているところに、当てた。
ゆっくりと、刃が沈んでいく。
刃を拒絶するように、命の温かさを感じる深紅の液体が、溢れ出す。
茉優の表情が歪む。だが、愛は手を止めない。
一度沈んだ刃が、再び姿を現す。
同時に、刃が沈んだ部分の茉優の肉体は、生命を失い、1つの肉片と化した。
愛は、その肉片を金属のトレーに乗せ、ゾンビの顔の横に置いた。
ゾンビは、トレーの上に、ゆっくりと、顔を移動させ。
そして、与えられた食料を、美味しそうに、食べた。
「……ゴメンね、藤重先生」肩で大きく息をしながら、茉優は、ゾンビと化した藤重先生を見つめる。「もっといっぱい食べさせてあげたいけど、今は、それだけで、我慢して」
食料を食べ終えたゾンビは、さらに要求するような目で茉優を見て、口を開けた。しかし、その口に、愛は容赦なく口枷をはめる。「……これで、また1週間くらいは大丈夫だと思います。今日の検査結果は、またお知らせしますね」
そして愛は、茉優の腕に新たにできた傷に、簡単な治療を施した。
「茉優さぁん。この実験、もうやめませんか?」茉優の腕に包帯を巻きながら、愛は心配するような口調で言った。「データは十分取れてますしぃ、これ以上実験を続けても、意味は無いと思います。『ゾンビはエサを与えないと死ぬ』『1週間に1度、スライスした肉片10グラムくらいを食べさせれば、とりあえず生きていける』。これが結論で、いいと思いますよ?」
茉優は、無言で藤重先生を見つめている。
「これ以上続けたら、先に茉優さんの方がまいってしまうと思いますけど。鎮痛剤、そろそろ効かなくなってるんじゃないですか?」
愛の言う通りだった。痛みを抑ええるために飲んでいる鎮痛剤は、徐々に効果時間が短くなってきている。だから、日に日に飲む量が増えていた。
「どこかの居眠り探偵さんと違って、普通の人には、同じ鎮痛剤や麻酔薬は、そう何度も効かないんです。抗生物質も同じです。こんな世界ですから、新しい薬が入手できる可能性は、まず無いですよ?」
「……分かってる……分かってるから……」茉優は、藤重先生を見つめたまま、小さく言った。
愛はもう1度ため息をついた。そして、包帯を巻き終え、検査用具をバッグにしまった。「それじゃあ、あたしは校舎に戻ります。茉優さんも、皆さんに変な疑いをかけられないように、早く戻った方がいいですよ? ゾンビをかくまってることがみんなにバレたら、また、『ゾンビをかくまった人に対する校則を決めよう』なんて、学活が始まっちゃいますよ? もし『ゾンビ飼うの禁止』なんて校則ができたら、あたしも、ゾンビの研究をやり辛くなるので、困りますから」
そして、愛は練習場を出て行った。
茉優は、そのまま更衣室に残り、藤重先生を見つめ続ける。
茉優から与えられた肉片により、少し元気を取り戻した藤重先生は、身体をよじり、茉優の方へ近づこうとする。拘束されているため、決して近づくことはできない。咬みつくことはできない。
それでも藤重先生は、近づこうとする。茉優を、求めている。
1年前、香奈がボクシング部に入部してから、茉優にはほとんど見向きもしなかった藤重先生が、茉優を求めている。
茉優は、そっと。
藤重先生を抱きしめた。
大切な人を、抱きしめた。
北原愛の言うことは分かる。このままずっと、こんなことを続けていくことはできない。
それでも茉優は、続けていくつもりだった。
たとえ左腕を失っても、まだ、右腕がある。
たとえ右腕を失ったとしても、まだ、足がある。
すべての肉を差し出してでも、続けていくつもりだ。
自分以外の肉を差し出すつもりは、茉優には無かった。藤重先生が、自分以外を求める姿を、もう、見たくなかった。
茉優は、藤重先生の唇に、そっと、自分の唇を重ねた。
硬い鉄の口枷越しにも、先生の、柔らかく甘い唇を感じる。
しばらく恍惚の表情で唇を重ね続けた茉優は。
「――先生、また来るね」
耳元でささやいた。
そして、別れを惜しむ恋人同士のように、何度も振り返りながら更衣室を出て。
扉に、鍵をかけた。
(第2話・ボクシング部員 終わり)




