第2話・ボクシング部員 #09
☆
「な、何でそんな娘が、うちのボクシング部なんかに入ることになったんですか!?」
4月。左手のケガの癒えぬまま新年度を迎え、2年生となった茉優は、ボクシング部の練習場所である体育館の隅で、顧問の藤重先生から新入部員の話を聞き、思わず声を上げてしまった。新入部員は、ボクシング歴は10年以上。ジュニア大会での優勝経験もあり、数年後に行われる東京オリンピック出場もささやかれている、女子ボクシング界注目の若手選手だ。
「うん? そりゃあ、うちの部に来るだろ?」藤重先生は、さも当然のように言う。「何と言ってもうちは、県内唯一の女子ボクシング部がある高校。しかも、所属選手はインターハイベスト8だぞ? 県内の全女子中学生ボクサーの憧れと言っても過言ではないんだ」
確かにそういう見方もできなくはないが、その実態は、創設1年、部員は戦績0勝1敗のベスト8選手が1人(左手骨折中)、学生時代にロクな成績を残せなかった顧問兼コーチが1人(熱苦しい)、優れた練習設備も何も無い、名ばかりのボクシング部だ。
「――お? 来たぞ」藤重先生が体育館の入口を見て手を挙げる。「おおい! 高樹! こっちだ!!」
体育館に入ってきたのは、まだ幼さの残るあどけない顔立ちの少女だった。カジュアルショートの黒髪、黒のスウェットスーツ、そして、首から下げた赤いボクシンググローブ。体格は茉優とよく似ていて、階級はかなり近いだろう。
高樹と呼ばれた新入部員は小走りでやって来た。そして、藤重先生と茉優に、順番に頭を下げた。
「なんか……ゴメンね、こんな感じの部で……」思わず謝る茉優。体育館の隅に用意されているのは、くたびれたグローブとミット、そして、これまたボロボロのスタンド式サンドバックだけだ。どれも、藤重先生が学生時代に使っていたものである。高校のボクシング部と聞いてこの新入生がどんなイメージを持っていたかは分からないが、間違いなく、その期待を大きく下回っているはずだ。こんな部に入るために、街の落ちこぼれの集まる四木女子高校に入学してきたと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。この先就職するにしても進学するにしても、四木女子高校という肩書が有利に働くことは絶対に無い。早々に転校を考えた方がいいのではないかと思う。
「いいえ、先輩。こんな感じの部、でも、全然大丈夫です!」少女は子供のように屈託のない笑顔を茉優に向ける。「新入部員の、高樹香奈です。どうぞ、よろしくお願いします!」
「よし! 高樹! さっそくミット打ちだ! ジュニアチャンピオンの実力、見せてもらうぞ! さあ、リングに上がれ!」いつもよりさらに高いテンションの藤重先生。
「リングなんて無いでしょ先生、あたしたちの自己紹介もまだだし」いつもよりさらに呆れ声でツッコミを入れた茉優は、また香奈に謝る。「ホント、ゴメンね、こんな感じの部で。先生にツッコミ入れるのはあたしがするから、高樹さんは、適当にスルーしておいて」
「あは。楽しそうな部で、安心しました」高樹香奈はもう1度、無邪気に笑った。
興奮する藤重先生を何とか抑え、茉優たちも自己紹介を終え、練習を開始した。香奈はシャドーやサンドバッグ打ちで体を温め、その後、藤重先生待望のミット打ちをすることになった。
ミット打ちとは、トレーナーの指示に従ってミットにパンチを打ちこんでいき、命中精度やコンビネーションを養う練習法である。
ミットを付けた藤重先生の前でリズミカルにステップを踏みながら構える香奈。藤重先生は、右のミットを顔の手前に構えた。
「よし、ジャブ!」
藤重先生の声の後、ぱしん! と、ミットに吸い込まれるような左のジャブ。もう1度ジャブ。さらにもう1度。藤重先生は、3発のジャブに満足げな表情を浮かべる。続いて、左ジャブから右ストレートに繋げるワンツーを打たせる。それも3度繰り返し、次は、ワンツーの後に追撃を入れるワンツーフック、続いてワンツーアッパーなど、ときおり藤重先生の反撃やアドバイスも交えながら、香奈は体育館に軽快な打撃音を響かせ、ミットに拳を打ち込んでいった。ミット打ちという練習法は、トレーナーと選手の呼吸を合わすのが意外と難しい。2人の息が合わないと、ミットを構えた場所とパンチを打ち込む場所がズレてしまい、うまく行かないのだ。茉優もボクシングを始めた頃は、ミットではなく藤重先生自身にパンチを打ち込んでしまうことが多々あり、グダグダなコントみたいになってしまっていた。しかし、藤重先生と香奈は、今日初めてミット打ちをしたにもかかわらず、呼吸がピッタリだ。香奈のコンビネーションは、ワンツーフックからスウェーで反撃をかわしてさらにアッパー、という、かなり難易度の高いものになっている。香奈の華麗なステップと共に、藤重先生の構えた場所と指示通りに、鋭いパンチが吸い込まれるように打ち込まれていく。その姿はまるで、2人で社交ダンスを踊っているかのようだった。左手をかばいながらシャドー・ボクシングをしていた茉優だったが、いつの間にか、2人のミット打ちに見入っていた。自分が理想としていたボクシング像が、そこにある気がした。茉優だけでなく、バレー部やバスケ部など、体育館で練習している他の部員も、手を止めてこちらを見ている。
「――よし! 1度休憩だ!!」
藤重先生の声で構えを解く香奈。「ありがとうございました!」と、元気な声で頭を下げた。
2人のミット打ちに見入っていた茉優は、我に返ってシャドー・ボクシングを再開する。何も無い空間にパンチを打ち込みながら、横目で2人を見た。タオルで汗をぬぐいながらスポーツドリンクを飲む香奈の隣で、パンチのコンビネーションについて大袈裟な動作を交えながら語る藤重先生。その熱苦しい姿にさぞかし迷惑しているだろう、と思いきや、香奈は子供のような無邪気な笑顔で藤重先生の話を聞いている。
「ようし! 高樹! 今言ったことを踏まえて、もう1ラウンド行くぞ! 今夜は寝かさないからな!!」
「ヤダ、先生。変な言い方しないでください」
藤重先生の下ネタにもまんざらではない様子で返す香奈。2人はまた、ミット打ちを再開した。
――なんだかなぁ。
シャドーを続けながら、茉優は胸の内にモヤモヤしたものを感じていた。藤重先生とボクシング部を作って1年。これまで部員は茉優1人だったから、藤重先生は、ずっとつきっきりで指導してくれた。それが今日は、練習が始まってからは声すらかけてくれない。もちろん、基礎体力作りのトレーニングや軽めのシャドー・ボクシングくらいしかできない怪我人の自分よりも、入部したばかりの元ジュニアチャンピオンの指導に時間を割いてしまうのも、しょうがないと思うのだが。
2人はまた軽快にミット打ちを続けている。なんだか、取り残された気分の茉優。
茉優はシャドーをやめ、藤重先生に声をかけた。「先生、あたしこれから、病院でリハビリがあるから、先に上がるね」
藤重先生はミット打ちを中断し、茉優を見た。「お? そうか。気を付けてな」
時間は5時30分。今から病院に行ってリハビリをするような時間ではない。しかし、藤重先生はそのことに気付かない。
「西沢先輩、お疲れ様でした」天使のような笑顔で礼をする香奈。礼儀正しくカワイイ後輩だが、それが余計に茉優の気持ちをモヤモヤさせる。
ミット打ちを再開した2人を横目に、荷物をまとめる茉優。体育館を出ようとして、振り返った。藤重先生は香奈に熱い言葉をかけながらパンチを受けている。
その背中に向かって。
「……ばーか」
小さく言って、茉優は小走りで学校を後にした。
茉優の左手の怪我は順調に回復していったが、医者からの練習再開の許可はなかなか出なかった。必然的に、ボクシング部の練習は新入部員の高樹香奈を中心になってしまう。茉優は、ボクシング部にどんどん自分の居場所がなくなっていくような錯覚に陥っていた。もちろん、藤重先生と香奈にそんな悪意があるはずもなかったが、それが頭で分かっていても、心はモヤモヤしたままだ。
7月になった。インターハイの予選が始まる。茉優の左手は完治こそしていたが、実戦的な練習は全く行っていないので、今回の大会は諦めるしかなかった。
茉優の代わりに同じライトフライ級に出場した香奈。県予選は去年と同じくエントリーが1人しかいなかったので自動的に通過。全国の出場選手は去年より1人増えたが、それでも8人。これまた去年と同じく、ベスト8が確定したことになる。
去年の茉優の一件があるせいか、全国大会出場を決めたにもかかわらず、学校の反応は冷たかった。校舎から吊るされる横断幕も無ければ壮行会も無く、交通費は自費。今年の会場が隣の県だったことは、不幸中の幸いだった。3人は、寂しく会場へ向かった。
だが、大会の結果を知って、学校は手のひらを返す。
香奈は1回戦を1ラウンド2分03秒KOで勝ち上がると、続く2回戦もKO勝ち、決勝戦こそ判定で敗れたものの、見事、全国大会準優勝を成し遂げたのである。スポーツの大会で全国2位など、当然、四木女子高校始まって以来のことである。香奈たちが学校へ戻って来ると、去年とは大違いの歓迎ぶり。街中に見えそうな大きな横断幕が校舎に吊り下げられ、全校生徒や教職員はもちろん、PTAや市の教育委員会の人も交えての報告会。さらには、校庭に専用のボクシング練習場を建設する約束までしてくれたのである。藤重先生と香奈は大喜び。茉優も、もちろん嬉しかったが、心のモヤモヤが晴れることはなかった。
8月。ようやく本格的な練習を再開した茉優。今の目標は、今年から女子ボクシング競技が新設された、秋の国体である。ボクシング部の練習場はまだ建設中で、今も体育で練習している。しかし、その扱いは大きく変わった。体育館の隅に追いやられるようにコソコソと練習をしていたのが、今は、体育館の半分を使うことが許されている。部員は相変わらず2人だけだったので申し訳ない気持ちもあったが、他の部から文句を言われることは特になかった。設備も充実してきている。グローブやミット、ヘッドギアは部費で新しく支給され、背中に大きく『四木女子高校ボクシング部』とプリントされた専用の練習着も支給された。藤重先生のお下がりだったスタンド式のサンドバッグも新しいものになっている。新設される練習場には、天井から吊るされた一般的なサンドバッグが設置される予定だ。さらには、体育館には、簡易的なものではあるが、マットの上に板を置いてロープで囲った仮設のリングまで設置されていた。これも、練習場にはもっと本格的なものが設置される予定である。
いつものようにストレッチとシャドー・ボクシングで身体を温めた後、ミット打ちなどの練習に移ろうとしたところで、茉優は、藤重先生に言った。
「先生。香奈と、スパーリングをやらせてください」
いきなりの申し出に、藤重先生は目を丸くして驚いた。
スパーリングとは、試合形式で行う練習である。怪我から回復したばかりの茉優には少々ハードな練習だった。まして、相手は全国大会準優勝の香奈である。当然藤重先生は止めたが、茉優は聞き入れなかった。真剣な顔で訴える。香奈は、いつもの無邪気な笑顔で、スパーリングを受け入れてくれた。だが、その笑顔の奥には、茉優と同じ真剣さが宿っていた。藤重先生は、仕方なしに、2人のスパーリングを認めた。
リングに上がる。香奈に背を向け、青色のコーナーをじっと見つめる茉優。
ようやく、香奈と拳を交えることができる。
もちろん、勝てるとは思っていない。相手は全国2位。ボクシングキャリアもずっと上だ。ボクシングを始めてわずか1年半で、しかもこの半年間本格的な練習から遠ざかっていた自分が、勝てるはずがない。しかし、スパーリングは格上の相手と行う方が効果が高い。少しでも早く上達したい茉優にとって、うってつけの練習法だ。それに、茉優はこの半年間ずっと、香奈の練習と試合を、全て間近で見てきた。強い者の練習や試合を見るのも、立派な練習である。さらには、藤重先生や医者に内緒で隣街のボクシングジムに通い、ミット打ちなどハードな練習も密かに行っていた。以前より、強くなっている自信はあった。怪我が治ったら、真っ先に、香奈とスパーリングをしたいと思っていた。それが、自分が強くなる一番の方法だと思った。そして、この半年間の胸のモヤモヤを晴らす、唯一の方法だと思った。
藤重先生がゴングを叩いた。リングの中央で拳を合わす。
――よし、行くぞ!
最初から間合いを詰め、ジャブを繰り出す茉優。自分は強くなっているはずだ。半年前の自分よりも。そして、1年前の、全国大会の時の自分よりも。あの時は、応援に来てくれたみんなの前で、藤重先生の前で、みっともない負け方をした。今は違う。あたしは、強くなった。それを、藤重先生に見てもらいたかった。
しかし――。
左のジャブから、右のストレートを打ち込んだところで。
茉優の右ボディに、ズシリ、と、とてつもなく重い何かが、めり込み。
続いて、それが、顔面めがけて飛んで来る。
倒れながら。
茉優は、悟った。
――ああ。
あたしは確かに、強くなった。
強くなったんだ。
だから、分かる。
強くなったからこそ、分かる。
あたしは、この先もずっと、この娘には勝てない――。
香奈の左フックを顔面に受け。
茉優は、倒れた。
意識を失うことはなかった。意識を保つことはできた。
だから思う。
あたしは、強くなった。それは間違いない。
でも、あの時と変わらない。
あの、何もできずに負けた1年前と、何も変わっていない。
まあ、それも当然だろう。
あたしはこの1年間それなりに努力をしたつもりだが。
でもそれは、香奈だって同じだ。
同じだけ努力すれば、もともとの実力が高い人が勝つに決まってる。
もともとの実力――才能とも言える。
あたしに、ボクシングの才能なんか、あるわけがない。
ただダイエットのために始め、藤重先生に言われるままに試合をして、藤重先生との練習が楽しいから続けて来ただけのあたしに、才能なんて、あるわけがないんだ。
あたしは、香奈のようにはなれない。
それが今、はっきりと分かった。
――藤重先生。
今まで、つきっきりでボクシングを教えてくれて、本当に、ありがとう。
先生の夢は、教え子が全国大会で優勝すること、だったよね。
あたしはきっと、このままボクシングを続けても、先生の夢を叶えてあげることはできない。
でも、この娘なら、香奈ならきっと。
先生の夢を、叶えてくれるね。
そう――。
先生の夢を叶えるのは、あたしじゃ、ない。
この、高樹香奈だ。
そのことが、今、やっと、分かったよ。
――西沢!!
藤重先生の叫ぶ声が、聞こえた。
――――。
――でもね、先生。
なんでだろうね。
あたしに、ボクシングの才能が無いと分かっても。
あたしは、香奈に勝つことができないと分かっても。
あたしには、先生の夢を叶えてあげることができないと分かっても。
それでもあたしは、ボクシングを辞めようなんて、思わない。
だから――。
茉優は。
しっかりと、リングに足を踏みしめて。
立ち上がった。
香奈と、先生が、まるで死んだ人がよみがえったかのような、驚きの表情をしている。
所詮はスパーリングだ。ダウンすれば、それで終了となるだろう。
しかし。
茉優は、腹の底から、心の底から、魂の底から、全てを吹っ切るような大声を上げ。
拳を、構えた。
香奈も、構え直す。
前に出る茉優。拳を繰り出す。
絶対に勝てない相手――それは、確かに存在するかもしれない。
的確なガード、鋭いパンチ、冷静な判断力――高樹香奈のボクシングは、全てが茉優を大きく上回っている。
あたしはきっと、香奈のようにはなれない。
それでもあたしは、香奈に挑み続けよう。
あたしはこの先もずっと、香奈には勝てないかもしれない。
それでもあたしは、ボクシングを続けよう。
香奈のようにはなれなくても。
あたしは、香奈とは違うスタイルで、ボクシングを続けよう。
香奈のようにはなれなくても、自分自身のボクシングを続けよう。
そう、胸に誓い。
拳を繰り出す。
その、茉優の決意の拳をかい潜り。
香奈の、右ストレートが飛んで来た。
茉優はそれを、首を左に傾けてかわし。
その勢いを利用して、自分の右拳を、香奈の顔面に打ち込んだ。
――クロスカウンター。
こんなマンガみたいなパンチは、藤重先生にも、隣街のジムのコーチにも、誰にも教わっていない。今、茉優の身体が自然に動いて出た技だ。
それでも構わない。邪道と言われるかもしれない。それでもあたしは、自分の思うままのボクシングをやる。
茉優のパンチを食らい、初めて、後退する香奈。
それを追い、さらに拳を打ち込む茉優。
自分のボクシングを、見てもらうために――。
そして――。
再びダウンした茉優を見て、藤重先生は、さすがにスパーリングを終了させた。
約2分のスパーリングだった。
ダウンした茉優は、リングに大の字に倒れ、天井を見つめる。
このスパーリングで。
自分は、香奈のようにはなれないと、分かった。
自分が理想としているボクシングは、自分には出来ないということが、分かった。
それでも。
この半年間ずっと続いていた胸のモヤモヤは、いつの間にか消え、さわやかに晴れていた――。
9月。国体の県予選が始まった。
階級を変えた方がいいのではないかという藤重先生の再三のアドバイスを断り、茉優は、香奈と同じライトフライ級に出場した。
同じ階級に決して勝てない強い選手がいた場合、階級を変えて出場することは、スポーツの大会では珍しいことではない。その選手が同じ学校や団体に所属しているならなおのことだろう。それが悪いことだとは茉優も思わない。思わないが、茉優は、香奈に挑みたかった。決して勝てないかもしれないが、それでもずっと、挑み続けるつもりだった。
国体は社会人も出場するとは言え、成年の部と少年の部に分けられているため、出場者はインターハイとほぼ変わらない。茉優たちの出場する少年女子ライトフライ級は、茉優と香奈の2人だけだった。結果は1ラウンド2分14秒KO、高樹香奈の、全国大会出場となった。
10月。全国大会の1回戦で、香奈は、インターハイの優勝選手と対戦することとなった。香奈が、接戦の末判定で敗れた相手である。この1回戦を観るために、四木高や対戦相手の学校関係者はもちろん、他の出場校の部員やコーチ、成年の部の出場選手やコーチ、さらには、全国紙の週刊誌・新聞紙の記者、全国ネットのテレビ局まで会場に来ていた。そんな、日本中のボクシング界が注目した試合で、香奈は、2ラウンド1分53秒で、堂々のKO勝ち。そのままの勢いで、準決勝、決勝戦もKO勝ちを収め、見事、全国制覇を成し遂げたのである。
全国制覇――それは、四木高ボクシング部の顧問・藤重先生の夢だった。それが、創部からわずか1年半で叶ったことになる。茉優にとっても、それは、感慨深いものだった。
もちろん、茉優はこれからもボクシングを続けるつもりだ。全国制覇は藤重先生の夢だったが、同時に、自分自身の夢だったから。
国体が終わると、次の大会は3月の選抜大会だ。残念ながら、今年良い成績を残せなかった茉優に、出場資格は無いだろう。香奈と戦うのは、来年の夏、インターハイの県予選ということになる。それまで、また厳しい練習の日々が始まる。
――だが。
夏のインターハイはもちろん、春の選抜大会さえ、2度と、開催されることはない。
3月5日、アウトブレイク発生。
世界中でよみがえり始めた死体が、生きている人を襲いはじめた。
何も知らず部の練習をしていた茉優と香奈は、学校の外をランニング中、ゾンビの群れに襲われた。
2人とも、ボクシングの経験者だ。ゾンビに襲われても、動揺こそすれ、そのままむざむざ食べられたりはしない。冷静さを取り戻せば、ゾンビなど、2人の敵ではない。
しかし、いきなり現れたゾンビに対して、茉優たちはまだ、何の知識も持っていなかった。
香奈が素手でゾンビの顔面を殴った時、ゾンビの歯で、拳を切った。
5センチにも満たない小さな切り傷だったが、それでも、致命的だった。
ゾンビの群れを倒し、学校に戻ったところで。
香奈は、ゾンビになっていた――。
アウトブレイクの発生から、2週間が経った。
発生当初は多くの教職員と生徒が学校に残った。近隣から避難して来た住人もいた。警察や自衛隊から、救出されるのを待っていた。しかし、携帯電話、インターネット、テレビ、ラジオ、全ての情報網が、1週間で停止した。救出の見込みがなく、学校を出て行く人が続出した。今は、5人の教師と104人の生徒、10人の避難住人で、学校内に立てこもっている。
茉優は学校に残った。1度家に帰りたいと思ったが、学校の外は危険だった。ゾンビはもちろんだが、暴徒と化した住人が、略奪や破壊行為を続けているのだ。家族は、ちゃんと避難できているだろうか? 確認する手段は無い。無事を祈るしかなかった。
藤重先生も学校に残った。多くの教師が生徒を見捨てて学校を去った中、残ってくれた5人の先生には、生徒みんな、感謝していた。
しかし、藤重先生が残ったのは、生徒たちを思ってのことでは、無かった。
小雨が降る中、茉優は傘も差さず、校庭を走って横切っていた。校庭内にゾンビはいない。アウトブレイク発生後、校内のゾンビを排除し、正門、裏門、その他、全ての門を封鎖した。ゾンビに門や壁を乗り越える知恵は無いので、誰かが門を開けない限り、学校内にゾンビが侵入してくることはない。
校庭の一角に、できたばかりのボクシング部の練習場がある。香奈が夏のインターハイで準優勝し、学校が建ててくれたものだ。
入口の軒下で雨粒を払う。空を見上げると、夏の夕立前のような深い黒雲が、西の空からこちらに向かって来ていた。これは、本格的に降ってくるかもしれない。
練習場の中から、藤重先生の声が聞こえてきた。アウトブレイク前と変わらない、テンションの高い、熱苦しい声。茉優はその声を聞いて、寂しげに、笑った。
ドアを開ける。「――先生、入るよ?」
「――ようし! 高樹! まずはジャブだ! そら、ジャブを打ってみろ!!」
練習場内に響き渡る、藤重先生の声。ミットを構え、檄を飛ばす藤重先生。相変わらずの、藤重先生。
しかし――。
藤重先生の前にいる高樹香奈は、ゾンビだった。
先生が付けたのだろう、両手に赤いグローブをしている。しかし、その手は構えることはなく、前に突き出されているだけだ。
「そうじゃない! 構えはこうだ! 左の拳は目より少し高い位置! 右腕は、肘を脇腹にくっつけてボディをガード! 拳は顎の近くでガードだ! 何度言ったら分かるんだ!!」
ゆっくりとした動作で、まっすぐ、藤重先生に向かっていく。
「違う違う! リズムは膝を曲げてテンポよく! 左右のステップも忘れるな! 相手を翻弄しろ!!」
どんなに、檄を飛ばしても。
それに、香奈が応えることはない。
ただ、目の前の、生きている人間に対して、まっすぐに、進むのみ。
それでも藤重先生は、香奈をトレーニングしようとしている。
この2週間、ずっと。
どんなに茉優が声をかけても。
藤重先生は、香奈から離れようとはしなかった。
茉優は、思い出す。
1年前、ボクシング部に、香奈が入部してきたとき。
ミット打ちをする香奈と藤重先生を見て、2人に置いて行かれたような気持ちになった。
今も、胸にその気持ちを抱えている。
晴れ渡ったはずのモヤモヤが、また、胸の内を覆い隠している。
茉優は、香奈に檄を飛ばし続ける藤重先生の姿を見て、いつの間にか、涙を流していた。
――藤重先生。
香奈はもう、前の香奈じゃないんだよ。
もう、ボクシングはできないんだよ。
もう、全国大会で優勝することはできないんだよ。
でも――。
あたしは、前のままの西沢茉優だよ。
あたしはまだ、ボクシングができるんだよ。
あたしだって、全国大会で優勝できるかもしれないんだよ。
それでも先生は――あたしを見てくれないんだね。
「――さあ、高樹! ジャブだ! まずはジャブからだ! とにかく、ジャブを、いや、何でもいいから、パンチを打つんだ! 打ってみろ!!」
香奈はただ、ゆっくりと、歩くのみ。
その足が、何も無い平らな床に引っかかり。
香奈は、前のめりに転んだ。
「おい! 高樹! 大丈夫か!!」
香奈に駆け寄る。
「ダメだよ先生! 危ない!!」
茉優は叫んだ。ゾンビは動きが鈍く、力もそれほど強くない。1体だけなら、それほど危険な相手ではないのだ。しかし、どんなに弱くても、その歯で咬まれ人は、すぐにゾンビとなってしまう。自ら近づくのは、非常に危険だ。
だが香奈は、床に這いつくばったまま、もぞもぞと動くだけで、起き上がろうとしない。おかしい。ゾンビは動きは鈍いが、それにしても今の香奈は鈍すぎる。倒れて、起き上がることすらできない様子だ。明らかに、弱っていた。
「しっかりするんだ、高樹!」
香奈を仰向けに寝かし直す先生。
「ダメ! 先生!! やめて!!」
茉優の声は届かない。藤重先生は香奈の頭を抱え、覗き込むように顔を近づけた。その先生に向かって、両手を伸ばす香奈。何かを求めるような動き。それは、食べる物を求めてのことだ。それが、藤重先生にも分かったらしい。
「そうか。高樹、腹が減ってたのか。それで調子が悪かったんだな。ダメだぞ? 無理な減量は、身体に悪い。さあ、今は減量のことなんて忘れて、しっかり食べるんだ!」
ミットを外し、ポケットから携帯用のブロック型クッキーを取り出した。パッケージを開け、香奈の口に近づけるが、香奈は興味を示さない。
「食べられないのか? ダメだぞ、好き嫌いは。さあ、食べろ! 食べるんだ!!」
藤重先生は、香奈の口に無理矢理クッキーを押し込もうとする。いつ、香奈の歯で手を傷つけてもおかしくない。
「ダメ! 危ない! 香奈は食べない! 香奈はもう、そんなの食べないの!!」
茉優の声は届かない。先生は、香奈の口にクッキーを押し付ける。すでに粉々になっているが、それをかき集めて、口の中に入れようとする。
「香奈はもう食べないの! 香奈はもう、ゾンビになったの! だから――」
茉優の声は届かない。茉優の感情が高ぶって来る。そして、言ってしまう。
「香奈は、人間の肉しか、食べないんだよ!!」
言ってしまって、気づいて、口を塞いだ。でも、もう遅かった。
今までどんなに叫んでも届かなかった茉優の言葉が、こんな時だけ、先生に届いた。
「――そうか。そうだったのか高樹! 人間の肉が食べたかったんだな!!」
藤重先生は、左腕の袖をめくった。
「ダメ……ダメダメ! 先生、ダメぇ!!」
叫び、先生の腕にすがりつく茉優。
そんな茉優を、先生はわずらわしそうに振り払い。
そして、左腕を、香奈に差し出した。
「さあ! たくさん食べろ高樹! 食べて、もう1度、俺と、ボクシングをしよう!!」
香奈は、差し出された左腕に噛り付き。
おいしそうに、本当においしそうに味わって、食べた。
茉優が悲鳴を上げる。
しかしそれは、いつの間にか強く降りだした雨の音と、地の底へ響くような雷鳴に、かき消された。
やがて。
香奈は、ゆっくりと、立ち上がった。
藤重先生は意識を失っている。その左腕は、もう、肘から先が、消えていた。骨だけが、転がっていた。
藤重先生が失ったのは左腕だけだ。他の身体の部位は、まだ無事である。まだ、大半の肉が残っている。それでもゾンビが食べるのをやめたのは、藤重先生に、興味が無くなったからだ。ゾンビは、ゾンビの肉には、興味を示さないのだ。
だから、一番近くにいる人間に、ゆっくりと、向かっていく。
茉優も、ゆっくりと立ち上がった。
涙を拭う。
拳を構え、リズムを取り、ステップを踏む。
そして、向かって来た香奈に向かって、左のジャブを打ち込んだ。
香奈は、ジャブをかわすことも無く、ガードすることも無く。
正面から受け止め、だらしなく、尻餅をついて倒れた。
構えを解き、足元に転がったものを、蔑むような目で見つめる茉優。
――お前、誰だよ?
ゆっくりと起き上ろうとしているそれは、香奈の姿をしているが。
香奈は、あたしのジャブをまともに受けたりはしない。
香奈は、ジャブ1発でダウンしたりはしない。
香奈のパンチは、鋭くて。
香奈のステップは、優雅で。
香奈のボクシングは、あたしの理想で。
香奈は、断じて、こんな奴じゃない。
――――。
ああ、そうか。
やっと、分かった。
心の底から、分かった。
香奈は、もう、いないんだ。
あたしが憧れて、追い続けた香奈は、もういないんだ。
いま、目の前にいるのは、香奈の姿をした、何か。
元は香奈だったのかもしれない。でも、もう、香奈ではないんだ。
――ゴメンね、香奈。
目の前の、香奈の姿をした何かではない、消えてしまった本当の香奈――それはきっと、『魂』と呼ぶべきだろう――に、謝る。
茉優は。
ポケットから、ナックルダスターを取り出し、右手にはめた。
そして、起き上がろうとするゾンビの頭に向かって、振り下ろした。
雨は、降り続いている。
茉優は、足元に転がる頭のつぶれた残骸を、冷たく見下ろしていた。
どれくらい、そうしていたのか。
低い、うめき声と共に、もうひとつ、立ち上がる影。
茉優は、足元の残骸に向ける冷たい目を、そのまま、立ち上がった影に向けた。
血の気の全くない、黒に近い緑の肌。両目から流れる深紅の血。右腕と、肘から先を失った左腕を前に突き出し、藤重先生は、いや、さっきまで藤重先生だった何かは、茉優の方へ向かって、歩き出す。
茉優を、求めている。
だがそれは、ボクサーとしての茉優ではなく、空腹を満たすものとして。
――ああ、先生。
もう、前みたいに、熱苦しいことを言ってくれないんだね。
もう、ボクシングを教えてくれないんだね。
もう、一緒に、ボクシングはできないんだね。
ゾンビは、近づいてくる。
――さよなら、先生。
茉優は、ゾンビに向かって、拳を突き出した。
☆




