第2話・ボクシング部員 #07
☆
気が付くと、見知らぬ部屋だった。
消毒液の臭いが鼻を突く。ベッドの上に身体を起こし、部屋を見回す。薬品棚に身長計や体重計などが置いてある部屋。学校の保健室のようだが、見覚えは無かった。
ガチャ、っとドアが開いて、ボクシング部の顧問、藤重先生が入ってきた。「お? 西沢、気が付いたか。起き上がって大丈夫か? 軽い脳震盪だそうだが、無理せず、横になってろ」
ゆっくりと横にされる茉優。「藤重先生、ここは……?」
「うん? インターハイ会場の、医務室だ」
そう言われ、徐々に記憶がよみがえってくる。そうだ。あたし、女子ボクシングのインターハイの全国大会に出場することになって、会場のリングに上がったら、観客席に学校のみんながいて、それで、試合が始まって……。
そこからの記憶はあいまいだ。でも、こうやって医務室で横になっているということは。
「……試合、負けちゃったんですね」小さな声で、茉優は言った。
「……ああ」藤重先生は、申し訳なさそうに言う。「1ラウンド、1分12秒、KO負けだ」
「……応援の、みんなは?」
「西沢のことを心配してたけどな。バスの時間があるから、先に帰った」いつもの熱苦しいくらいの覇気が、まるでない藤重先生。
「そっか……」茉優はベッドに横になったまま、じっと天井を見た。「ゴメンなさい、先生」
「どうして謝るんだ?」
「だって、せっかく先生がボクシングを教えてくれたのに、あたし、なんにもできなくて。みんなにも申し訳ないことしたな。こんな遠いところまで応援しに来てくれたのに、みっともない試合して」
「バカなこと言うな。西沢は、立派に戦ったじゃないか」少し語気が強くなる藤重先生。「普通はできないぞ? 初めての試合で、強烈なパンチをもらってダウンしたのに、もう1度立ち上がるなんて。大体は、戦意を失ってしまうからな……。先生の方こそ、すまなかったな」
「どうして、先生が謝るんですか?」
「先生な、中学高校大学とボクシングを続けて来たけど、いい成績が残せなくてな。教師になって、ボクシング部の顧問になって、全国大会で優勝する選手を育てるのが夢だったんだ。でも、なかなかボクシング部のある学校に赴任にならなくて、さらに、四木高に赴任することになって。女子高だから、ますますボクシング部なんて無理だと諦めかけてた時に、西沢がシャドー・ボクシングしているのを見て、チャンスだ、と思ったんだ。教師失格だな。自分の夢を無理矢理生徒に押し付けて、経験が少ないのにリングに立たせるなんて……ホント、最低の教師だ」
「そんなこと、無いですけど……」
「でも、もういいんだ」藤重先生は、晴れやかな顔で言う。「この3ヶ月、西沢にボクシングの指導ができて、先生、本当に楽しかった。全国大会に出ることもできたし、先生、もう満足だ。だから――」
「先生、何言ってるんですか?」藤重先生の言葉を遮る茉優。
「何って――」
戸惑いの表情の藤重先生に、茉優は。
「あたし、ボクシング、辞めませんよ?」
はっきりと、言った。
「西沢……お前……」
茉優は藤重先生をまっすぐに見つめ、そして、笑った。「だって、悔しいじゃないですか? たった3ヶ月だけど、あたし、結構本気で練習してたんです。それなのに、なにもできなくて。しかも、相手があたしより経験の長い選手っていうのならまだしも、あたしと同じ3ヶ月なんですよ? あたし、こんなに悔しいって思ったの、生まれて初めてかもしれません。絶対、リベンジしてやります。次の大会は……秋の大会は無いから、春の選抜大会ですよね? だいぶ時間があるし、死ぬほど練習して、今度は、相手をKO、ううん、優勝して、夢を叶える」
藤重先生は自虐気味に笑った。「西沢、もういいんだ。全国大会の優勝は、先生が勝手に描いた夢なんだから。もう、それはいいんだ」
「違いますよ、先生。全国大会優勝は、あたしの夢です」
「――――」
「先生は、あたしに夢を押し付けたんじゃありません。あたしに、夢を教えてくれたんです」
「西沢……いいのか?」
「はい、もちろんです。今、ボクシングを辞めたら、あたし、リバウンドして、前のぽっちゃり体型に戻ってしまいそうですし」
冗談ぽく言って、2人で笑った。
「だから――」茉優はベッドの上に身体を起こし、藤重先生に向かって、深く頭を下げた。「これからも、ご指導、よろしくお願いします」
藤重先生はしばらく無言で茉優を見ていたが、やがて。「よし! 分かった!! 西沢の意気込み、先生、ちゃんと受け取ったぞ!! これからは遠慮なく、本気で指導するからな!! 目指すは春の選抜大会優勝だ! いや、こうなったら、目指すは高校3年間で4階級制覇だ!! 大丈夫だ! 西沢なら、きっとできる!!」
「あ、でも」茉優はベッドに横になった。「あたし、ケガ人なんで、しばらくゆっくり休ませてください」
「何を言ってるんだ西沢! 目標は多く、時間は少ないぞ! 1秒たりとも無駄にはできん! さあ、今すぐ帰って練習だ!!」
熱苦しさが復活した藤重先生の言葉を、布団を頭からかぶって防御する茉優。「先生うるさいです。医務室では静かにしてくださーい」
そんなことはお構いなしとばかりに熱苦しいことを言い続ける藤重先生。やがてスタッフがやって来て注意され、しょんぼりと肩を落とす。その姿を見て、茉優は笑い、先生も笑い、そしてまた注意された。
翌日、茉優と藤重先生は新幹線で四木高に戻った。
出発前、校舎入口の上に大々的に吊り下げられていた垂れ幕はすでに外されており、報告会や慰労会なども無く、教師も生徒も、まるでインターハイなんて無かったかのような振る舞いだった。出発前はあれだけ持ち上げていたのに、冷たいものだ、と、茉優は思ったが、まあ、持ち上げられていたときは茉優も悪い気はしなかったので、特にみんなを恨んだりはしなかった。
茉優はボクシングの練習を続けた。本気を出した藤重先生の指導はさらに厳しいものとなったが、それにも耐えた。学校の練習だけでなく、休みの日は、隣街のボクシングジムまで足を運び、スパーリングなど、1人ではできないトレーニングも行った。茉優は、自分がどんどん上達していくのが分かった。それが楽しくて、さらに厳しいトレーニングに励んだ。
だが、それがいけなかった。
12月の中頃だった。茉優は、左手の甲、薬指と小指の下部分に鈍い痛みを感じるようになった。練習で少し負担をかけすぎたのかもしれない。そのうち治るだろう。そう思い、茉優は特別気にすることなく、トレーニングを続けた。しかし、その後も痛みは治まることはなく、逆に酷くなっていった。春の選抜大会を翌月に控えた2月。痛みは耐え難いものとなり、ここに来て藤重先生もようやく茉優の左手の異変に気づき、病院で診てもらった。茉優は、手の甲の骨、第4第5中手骨頸部の骨折と診断された。俗に言う、ボクサー骨折である。幸いそれほど重度のものではなく、手術の必要は無かったが、しばらくの間左腕を使ったトレーニングはしないようにと言われた。1ヶ月後の選抜大会に間に合うか? という茉優の問いに、医者は、とんでもない、と答えた。骨折箇所の固定に1ヶ月から2ヶ月、その後リハビリに入り経過を見る。以前のように強い衝撃が加わるパンチを打てるようになるには、少なくとも半年は必要になるだろう、と言われた。そんなに待てない、と言ったが、認められるはずもなく、選抜大会は、諦めるしかなかった。
4月。2年生となった茉優。ボクシングのトレーニングはほとんどできなかったが、ランニングなどの基礎練習は続け、左手が直ればすぐにトレーニングを再開できるようにしていた。夏の大会には間に合わないかもしれないが、今年は、秋の国体にも女子ボクシングが新設された。夢へのチャンスが広がった。今度こそ全国大会1回戦突破。そして、優勝を目指す。そう、心に誓っていた。
しかし――。
その後、茉優が全国大会のリングに立つことはなかった。
この年、ボクシング部に、1人の1年生が入部した。
高樹香奈。3歳の頃からボクシングを始め、ジュニア選手の大会での優勝経験もあるという、輝かしい経歴を持った選手だった。
――――。
――ぱい。
「――茉優先輩?」
☆
美青の呼ぶ声で。
茉優は、目を覚ました。