第2話・ボクシング部員 #03
2年経った今でも、あれは本当に無謀な挑戦だった、と、茉優は思う。ボクシングを始めてわずか3ヶ月で、しかも、練習試合どころかスパーリングすら未経験という状態で、インターハイへ挑んだのである。主催者側も、よく止めなかったものだ。
でも、まあ。
あの無謀な挑戦があったからこそ、茉優はここまでボクシングを続けることができたとも言える。だから、藤重先生には感謝していた。今でも。
「先輩? そろそろ教室に向かわないと、遅刻しますよ?」
美青に言われ、時計を見る。始業20分前だ。少し、ボーっとしすぎたようだ。茉優はもう1度汗を拭き、タオルを美青に返すと、急いでセーラー服に着替えた。練習場内には更衣室もあるが、現在校内にいる男性は全員ゾンビなので、別にどこで着替えても構わなかった。
着替え終わり、窓から校庭を確認する。幸い、ゾンビの数はそれほど多くない。
「じゃあ美青、行くよ? 武器の準備はOK?」
美青は、はーい、と、かわいらしい声で言って、右手の武器をブンブン振り回した。ボートのパドルのような木製の棒だった。ただ、パドルにしては長さがかなり短く1メートル程、そのうち、平らなっている部分が全体の3分の2を占めている。ボートのパドルとはちょっと違うように思う。
「……美青、なに、その武器?」訊いてみる。
「クリケットバットです。知りませんか?」
「クリケットって、聞いたことはあるけど、よくは知らない」
「野球の原型と言われているスポーツですよ。日本ではかなりマイナーですけど、海外、特にイギリスやインドなどではメジャーなスポーツで、一説によると、競技人口は、サッカーに次いで世界第2位と言われています」
「クリケットのうんちくは置いといて、なんでそんなもの持ってるの? うちの学校、クリケット部なんてあったっけ?」
「無いですよ、もちろん」
「じゃあ、どこでそんなもん手に入れたの」
「この前街に行った時、ホームセンターで見つけたんです。美青ちゃん専用ゾンビ対策武器です」
「ゾンビ対策武器なら、もっとふさわしいものがあったんじゃないの? チェーンソーとか、バールとか」
「クリケットバットは、ゾンビ対策武器としてはかなり定番だと思うんですけど」
そうなのだろうか? この娘の言うことは、時々よく分からない。
……などと言っている間にも時間はどんどん過ぎていく。まあ、要は野球のバットを平たくしたようなものだから、ゾンビ用の武器としては十分だろう。茉優は美青を連れ、練習場の外に出た。練習場から一番近い校舎の入口は南校舎だが、現在南校舎の出入口は使えない。なので、その隣の西校舎に回り込まなくてはならなかった。2人はパンチとクリケットバットで適当にゾンビを倒しながら、西校舎の入口へ向かった。幸い襲ってくるゾンビの数は少なく、始業10分前には西校舎の入口に着いた。
「おはよー、架純」
入口に入ったところで、クラスメイトの百瀬架純を見つけ、声をかける。架純も笑顔で応える。他の生徒とも朝の挨拶をかわす。みんな学校で寝泊まりしていることを除けば、普通の学校と変わらぬ朝の風景だ。
「――あ、玲奈。おはよう」
茉優は、教室へ向かう玲奈の姿を見かけ、声をかけた。美青と架純も笑顔で声をかける。玲奈は、茉優たちを見ると。
「……おはよう……ございます」
曖昧に笑い、小さな声で言うと、そのまま教室へ向かった。他のクラスメイトとは、言葉を交わすことも無かった。
「……玲奈先輩、完全にクラスで浮いちゃいましたね」美青が心配そうに見つめる。茉優は、うーんと唸った。
宮沢玲奈。1週間前、全国的にも有名なエリート高校・聖園高校から、この落ちこぼれの四木女子高校に転校してきた生徒だ。転入の挨拶の時は、大人気アイドルの歌を歌って踊り、クラスに溶け込めそうだったが、今では他の生徒と距離を置き、あまり話そうとしない。休み時間も、放課後も、いつも1人でいる。美青の言う通り、完全にクラスから浮いた存在になってしまった。
「あーあ。茉優が、玲奈ちゃんの目の前で岡崎さんを殴り殺したりするから」笑顔の架純の言葉が茉優の胸に突き刺さる。モデルのようなカワイイ顏をしているが、笑いながら人の急所を的確に射抜くことができるのがこの娘の能力だ。
1週間前の転校の挨拶の後、教室に、ゾンビ化した岡崎リオが現れた。四木高の生徒会長であり、玲奈の幼稚園からの幼馴染らしい。玲奈に襲い掛かろうとしたので、茉優は頭を潰して処理した。玲奈がクラスメイトと距離を置くようになったのは、その出来事の後からだ。
「……確かにちょっと軽率だったとは思うけどさ。でも、じゃあどうしたら良かったって言うの? あのまま玲奈が岡崎さんに食い殺されるのを、黙って見てればよかったの?」
「まあ、そうなんだけどね」架純はとぼけたように目を逸らした。
「あ、そう言えば先輩」教室に向かう途中、ツインテールの美青が、何か思い出したように言う。「あたし、この間、校舎内で岡崎先輩を見ました」
「はぁ? なに言ってんの? そんなわけないじゃん」茉優が呆れ声で答える。「岡崎さんはゾンビになって、あたしが確かに頭を潰したよ。美青も見てたでしょ? ゾンビは頭を潰したら、決して動かない。それとも何? ゾンビが進化して、頭を潰しても動くようになったっての?」
「いえ、そうじゃありません。頭はちゃんとありました。ただ、足が無かったです」
「……はい?」
「足が、無かったんです」
「……ゾンビに食べられたってこと?」
「うーん、どうでしょう? そうかもしれませんけど、岡崎先輩、その時、ちゃんと立ってました」
「足が無いのにどうやって立つの?」
「まあ、足なんてただの飾りですから立とうと思えば立てるでしょうが、でもその時の岡崎先輩は、なんか、そんな感じじゃなかったですね。顔色がすごく青白くて、よく見ると、微妙に透けてました」
「まさかあんた、岡崎さんの幽霊だとでも言いたいの? そんなバカな事、あるわけないでしょ?」
「あり得なくはないと思うんです。だって、外は死体がたくさん歩いてますから」
「まあ、そりゃそうだけどさ。でも、だからって、幽霊ってのは、ちょっと信じられないかな? 夢でも見たんじゃないの?」
「そうかもしれません。気が付いたら、布団の中にいましたから」
「美青、それは、夢って言うんだよ」
「うーん、それにしては、リアルな感じだったんですけどねぇ?」
「リアルな夢だったんでしょ。バカなこと言ってないで、行くよ」
納得いかない表情の美青を放っておいて、茉優と架純は、玲奈の後から中に入った。
そして、玲奈が窓際の席に着こうとした時。
バタン! 教室後ろの掃除用具入れが突然開き、中から、ゾンビが飛び出してきた! 玲奈に向かって、倒れるように襲い掛かる!
「玲奈! 危ない!」
助けようと、茉優がダッシュする。
しかし、その拳がゾンビを捉えるよりも早く。
すぱこーん!
玲奈がバッグから取り出したフライパンが、ソンビの頭にクリティカルヒットしていた。
勢いで吹っ飛んだゾンビが、ちょうど前ダッシュした茉優にぶつかる。尻餅をついて倒れる茉優。
「――ゴメン! 茉優、大丈夫!?」口元を押さえて茉優を見る玲奈。
「あー、平気平気」茉優はゾンビをどかして上半身を起こした。それにしても玲奈、スゴい反応速度だったな。思わず感心する。
しかしこのゾンビ、一体どこから来たんだ? 校舎の防犯システムは完璧だ。全ての出入口、窓には鍵がかけてあるし、無理に開けるとたちまち防犯ベルが鳴り響くようになっている。夜中にゾンビが侵入してくる可能性はまず無い。仮に何らかの方法で侵入できたとして、このゾンビは、ずっと掃除用具入れの中に隠れて、玲奈を襲うチャンスを窺っていたのだろうか? ゾンビにそんな知恵があるとは思えないが。
と、その時。
「――はーい、OKでーす」
おっとりとした喋り方で、1人の女生徒が教室に入ってきた。「愛用の武器はフライパンですね。リーチが短いのは欠点ですがぁ、その分、振り回しやすく攻撃範囲が広い。総合的に、扱いやすい部類だと思います」
続いて女生徒は、右手のストップウォッチを見せた。「ゾンビを目視してから攻撃体勢に入るまで約0.75秒。まずまずの反応速度です」
そして、今度は茉優の横に倒れているゾンビの頭を掴み、髪をかき上げて耳の後ろを見た。何やらデジタル表示のカウンターのようなものが埋め込まれてある。「攻撃力は約300。通常ゾンビを倒すには、十分な強さです。ただしぃ、一撃で脳を潰すのは難しいでしょうから、倒れたゾンビにトドメを刺すのを忘れないでください」
女生徒は玲奈の顔を見てにっこりと笑う。玲奈は、何が何だか分からないようで、フライパンを握りしめたまま目をぱちぱちしている。
女生徒はゆっくりと立ち上がった。「これらのデータを総合的に判断しましてぇ、あなたの戦闘力は、8000です。おめでとうございまぁす」
ぱちぱちぱち、と、1人で手を叩く。玲奈だけでなく、誰1人、展開について行けない。
「あ~い~」茉優が、床に座った状態のまま女生徒を睨みつけた。
「はぁい?」調子の外れた返事で女生徒が振り返る。
「何やってんの?」
「ウワサの転校生さんのぉ、戦闘力測定です。皆さんの戦闘力を把握するのは、あたしの大事な仕事ですから」
「……これは何?」耳の後ろにカウンターが付いたゾンビを指さす。
「打撃力を測定するダミーゾンビです。本物のゾンビの質感を出すのに、苦労したんですよぉ?」
確かにそのダミーゾンビはとても作り物とは思えないほど精巧だった。こんなものが突然倒れて来たら、誰だって本気で撃退するだろう。たかが打撃力の測定のために精巧なゾンビを作る意味は理解不能だった。茉優は頭を抱え、ため息をついた。
「あの……この人は……?」玲奈が、恐る恐るという感じで訊く。
「あらあら。ご挨拶が遅れました。スミマセン」女生徒は、玲奈の方に向き直る。「2年の、北原愛です。よろしくお願いしますね、玲奈さん」
笑顔で右手を差し出す愛。玲奈は、戸惑いの表情で握り返した。
「あー、玲奈、えーっとね」茉優はおしりの埃をはたきながら立ち上がる。「前に言った、バケモノみたいに頭がいい2年生だよ。ケータイを繋がるようにしたり、水道局に行って水が出るようにした娘」
「いえいえ、頭がいいだなんて、めっそうもないです」おっとりとした口調で言う愛。
「愛ちゃんって、スゴいんですよ!」興奮気味で言うのはツインテールの2年生、美青だ。「教科書くらいの本なら、3分で全部読んで、丸暗記できちゃうんです! 入学して1ヶ月で、図書室の本、全部読んで覚えちゃったんですよ!!」
「普段は、研究室でゾンビの研究をしてるの」モデル顔の架純が言った。「1度研究室にこもったら、滅多な事じゃ出てこないから、訊きたいことがあるなら、今のうちに訊いておいた方がいいわよ」
「はい。何でも訊いてください」と、愛。「分かる範囲で、お答えします」
「あ……えーっと……」玲奈は、少し視線を下げて考える。「そうだ。ゾンビって、そもそも何なんですか?」
「それは、今のところよく分かりませんねぇ」あごに人差し指を当てる愛。「エメラルドゴキブリバチとか、ブードゥー・ワスプとかと、同じような感じかなー? とか思うんですけどぉ」
「あー、玲奈。あんまり、マジメに聞かない方がいいよ」茉優が言う。愛の言うことは、難しすぎてさっぱり理解できないことが多いのだ。
しかし、玲奈は。
「――エメラルドゴキブリバチって、ゴキブリに卵を産みつける蜂ですよね? ブードゥー・ワスプは、蛾の幼虫に卵を産み付ける蜂……どちらも、宿主をゾンビ化させることができる、昆虫寄生生物だわ」
おおっと。思わずのけぞる茉優。愛の話について行っている。さすがはエリート校・聖園高校からの転校生だ。
「そうでーす」嬉しそうな声の愛。「例えば、最近ゴキブリマンガで一躍有名になったエメゴキバチちゃんはぁ、卵を産み付ける前に、まず、麻酔のようなものをゴキブリに注入して、逃避反射神経を麻痺させるんですね。そしてぇ、ゴキブリを巣まで誘導してから、卵を産み付けるんです。卵からふ化したエメゴキバチちゃんの幼虫は、ゴキブリのお腹を食い破って体内に侵入して、ゴキブリの内蔵を食べるんです。でもこの時、ゴキブリは、内臓を食べられながらも生きてるんです。逃避神経が麻痺してるから、あんまり動きませんけどね。これが俗に、ゴキブリのゾンビ状態と言われています」
そして、ゴキブリの体内で成長したそのナントカバチは、やがて羽化し、ゴキブリの身体を食い破って外に出て来るのだろう。想像して、茉優は全身が粟立った。架純を見ると、目を閉じ、両耳をふさぎ、情報を遮断していた。賢明な判断だ。美青は、クリケットバットでダミーゾンビをバシバシ叩いて遊んでいる。最初から話を聞いてなかったようだ。
「つまり――」玲奈が、真剣な表情で言った。「ゾンビも、体内に寄生虫のようなモノがいて、それが、人体を操っている、ってこと?」
「そう思って調べてるんですが、ゾンビのどこを探しても、寄生虫のようなものは発見できません」
「え……?」玲奈の表情が曇った。「調べてるって、どうやって……?」
「もちろん、解剖です」愛はあっけらかんと答える。「あたし、1度人体解剖とか、やってみたかったんですよね。本とかで知識はあるんですけど、さすがに医師免許なしでやるのはちょっとマズイんで、今までガマンしてたんですけどぉ、ゾンビだったら、問題ないじゃないですか?」
玲奈の顔には明らかに嫌悪感が浮かんでいるが、愛は、それを気にした風もなく続ける。「脳や神経やその他、寄生虫がいそうなところは、全部切り刻んで見てみたんですが、今の所、発見できていません。まあ最近は、寄生虫よりもさらに小さい寄生菌で、宿主の行動を操るヤツも見つかってますし、そうなると、ちょっと見つけるのは困難ですね。後ぉ、どうしても分からないのが、ゾンビがなぜ動くのか、ということなんです。ゾンビって、医学的に見て、絶対確実完璧に、死んでるんですよね。これが、死んでるように見えるけど実は生きていて、なんらかの病気のような状態、だったら、動いて人を襲うのも分かるんですけど。死んでる人を動かすメカニズムが、全く想像もつきません」
玲奈の表情は暗いままだ。恐らく、ゾンビ相手に解剖をしている、というのが、受け入れられないのだろう。
だが愛は、それに気付いているのかいないのか、さらに話を続ける。「ゾンビのことで今分かっていることは、死んだ人間はゾンビになる。ゾンビに咬まれた人間もゾンビになる。ゾンビは人間を襲って食べる。ゾンビは人間以外は食べない。ゾンビは人間なら生死を問わず食べるが、ゾンビ同士は食べない。と、こんな所ですね。あ、それと、これは最近の研究で分かったことですが、ゾンビも、エサを食べないと死んでしまうようです」
「え? そうなの?」
そう言ったのは、架純と美青だった。いつの間にか、また話の輪の中に戻っている。玲奈はすでに愛から目を逸らし、もう話したくないという様子。
だが、それでも愛は続ける。「あ、でも、ゾンビはもともと死んでるわけですから、『死ぬ』という表現が正しいかどうかは分かりません。とにかく、全くエサを与えないと、早ければ2週間ほどで活動を停止し、2度と動かなくなります。ただ、1週間に1度、スライスした肉片10グラムくらいを食べさせれば、とりあえず生きていけるということも分かりました。だから、外にいるゾンビを放っておけば勝手に死ぬのか、と言えば、そう簡単な話ではないんです。ゾンビは、すごく燃費がいいんですよね。計算上、人1人丸々食べたゾンビは、約6年から7年は活動することができ――」
「愛!!」
愛の言葉を遮るように叫んだのは、茉優だった。鋭い目で愛を睨む。何事か、と、クラス中の視線が集まった。
「……ああ、えーっと」愛はポリポリと頭を掻いた。「まあ、そんなところですね」
玲奈は何も言わず愛たちに背を向け、自分の席に座った。
「あらら? 玲奈さん、どうしたんですかね? あたし何か、マズイこと言いました?」
相変わらずおっとりとした口調の愛。茉優は腰に手を当て、大きくため息をついた。
「ちょっと、朝っぱらから、気持ち悪い話をしないでくれる?」そう言って、ギャル系ファッションの青山梨花がやって来た。腕組みし、愛を睨む。その後ろには、虎のスカジャンを着たテコンドー使い・牧野里琴もいる。
「梨花さん、里琴さん。おはようございます」愛はゆっくりとした動作で頭を下げた。
梨花は、フン、と、鼻を鳴らす。「……たまに出て来たと思ったら、ロクな話をしないんだから」
「スミマセン。梨花さんには、ちょっと難しい話でしたね」てへ、という感じで舌を出す愛。
「何ですって? あたしをバカにするつもり?」怒りをあらわにする梨花。
「まあまあ、そうカッカしない」茉優が梨花を止める。「それより、今日は2人? 未衣愛たちは、どうしたの?」
未衣愛たち、というのは、いつも梨花と一緒にいるギャルグループの3人組のことだ。梨花の取り巻きと言っていいだろう。
「あの娘たちは、今日は物資調達当番よ」梨花が答えた。
物資調達当番とは、その名の通り、物資を調達する当番のことである。週に2回程度、学校の外に出て、食料や電池など、使えそうなものを探してくる役目だ。1週間前は、茉優と架純と美青が当番で、少し離れたコンビニから玲奈を拾ってきた。
「当番って言っても、もうすぐ授業始まるよ? 大丈夫なの?」茉優は時計を見た。始業まで、もう1分もない。
「知らないわよ。どうせ、どこかでサボってるんでしょ?」梨花は特に気にした風もなく、そのまま席に着いた。里琴も無言で後ろの席に座る。
まあ、確かにその可能性が高いだろうな、と、茉優も思った。茉優たちも当番の時は、「ゾンビの数が多くて、倒しながら帰って来るのに時間が掛かっちゃったよ」とか言って、安全な場所でお昼寝をしていたこともある。
チャイムが鳴り、大野先生が教室に入ってきた。「はーい。みんな、席に着いてくださーい。出席をとりまーす」
みんな席に着く。大野先生は教卓からぐるっと教室内を見回した。「……あら? 愛さん。久しぶりね」
「ごぶさたしてまぁす」愛はぺこりと頭を下げた。
「ゾンビの研究もいいですけど、授業の方も忘れずに出席してくださいね」
大野先生は出席簿に出席状況を記入していく。空いている席は2つ。今日の物資調達当番でギャル系グループの3年生・葉山未衣愛と山口万美の席だ。もう1人、2年生の寺田美寿々の席は、すっかり美青のおもちゃになったダミーゾンビが座っていた。
「……未衣愛さんと万美さんと美寿々さんは、物資調達当番だったわね? どこまで行ってるのかしら? 梨花さん、里琴さん、何か、聞いてませんか?」大野先生はギャル系グループのリーダー・梨花に訊いた。
梨花は、折りたたみのコンパクトミラーを見ながら前髪の手入れをしている。大野先生の言葉にも、「知りませーん」と、興味なさ気に応えた。後ろの席の里琴も、我関せずという感じで窓の外を見ていた。
「そ……そうですか……」急に目が泳ぎだす大野先生。明らかに動揺していた。「な……何か連絡があったら……す……すぐに……教えてくださいね……それじゃあ……じゅ……授業を……始めます……」
教科書を開く大野先生。動揺が治まらない、その手が小さく震えていた。そこまで怯えなくてもいのに、と、茉優は小さくため息をついた。
「……ねぇ」隣の席の、宮沢玲奈が茉優に声をかける。「いいの? 未衣愛さんたち、放っておいて。探しに行った方がいいんじゃない? ゾンビに襲われてるのかも?」
「うーん、どうだろうね?」茉優は首を傾げる。「物資調達当番は、サボりの絶好の口実だからね。『何も見つからないから遠くまで行ってました』とか言いながら、近くでお昼寝してたりとか、あたしもよくやってるし。目的が目的だから、遅刻してもそんなに怒られないし。まあ、もうちょっと様子見ていいと思うよ」
茉優の言葉に納得のいかない様子の玲奈だったが、それ以上は何も言わなかった。
「せんせーい」と、梨花が手を挙げる。「連絡って言っても、外はケータイ繋がらないんですけど、どうしたらいいんですかー?」
質問をしながらも梨花は相変わらず前髪のチェックに余念がなく、鏡から目を放そうとしない。
梨花の言う通り、携帯電話が繋がるのは学校とその近辺だけで、少し離れると圏外だ。
「そ……そうですね……いやだわ……先生……何を言ってるのかしら……」ますます動揺してくる大野先生。視線は教室中をさまよい、教科書をめくる手は行ったり戻ったりを繰り返している。「……あ……そうだ! 先生、忘れ物しちゃった。ちょっと取って来るから、1時間目は、自習にします」
そう言い残し、大野先生は教科書と出席簿を胸に抱え、逃げるように教室を出て行った。
茉優は、やれやれ、と、ため息をついた。「なあ、梨花。あんまり大野先生をいじめるなよ」
「え? あたしが、いつ大野先生をいじめたの?」前髪の手入れをやめ、目を丸くする梨花。
「いじめてるでしょ。先生、怖がって、どっか行っちゃったじゃないの」
「別にそんなつもりはないけど?」梨花は鏡に目を戻し、今度はつけまのチェックを始めた。「まあ、あのオドオドした態度を見てると、イライラしてくるのは確かね」
まあ、それはあるかな、と、茉優も思う。
大野先生は、1年前の春に赴任して来たばかりの新米教師だ。アウトブレイク後も、生徒を見捨てず学校に残った数少ない教師の1人で、概ね生徒からの評判は良かったが、とにかく気が弱いのが欠点だ。特に、梨花たちギャルグループを極端に怖がっている。これに関しては、正直茉優も、ちょっと過剰に怖がりすぎではないかと思う。梨花は、口は悪いが性格はそこまで悪くはない、と、茉優は思っている。さっきの梨花たちの言動は教師への態度としては少し問題がありそうだが、注意すれば梨花も改めるだろうし、スルーすればそれはそれで大人の対応とも言える。アウトブレイク後も生徒を見捨てず残ってくれたことには感謝しているが、もう少ししっかりしてくれればな、というのは、クラスメイト誰もが思っていることだった。
――もし今、藤重先生がいたら、このクラスは、どうなっていただろうか?
ときどき、茉優はそんなことを考える。
窓の外を見る。校庭の一角、ボクシング部の練習場が、ここからも見える。
藤重先生。ボクシング部の元顧問で、2年間、茉優がボクシングを教わったコーチだ。今、先生がこの学校にいたら、きっと――。
――――。
きっと、今も変わらず、クラスメイトみんなから、ウザがられてたろうな。
そう思い、茉優は1人、小さく笑った。