第2話・ボクシング部員 #01
■第2話登場人物■
西沢茉優……四木高3年。ボクシング部員。左手をケガしている。
宮沢玲奈……四木高3年。県内1のエリート校・聖園高校からの転校生。
藤重……四木高体育教師でボクシング部の顧問。
高樹香奈……四木高ボクシング部員で茉優の後輩。ボクシング歴は10年以上で、ジュニアチャンピオンの経験もある有望選手。
北原愛……四木高2年。学校一の天才で、ゾンビのことを研究している。
市川美青……四木高2年。ツインテールがトレードマーク。自称ボクシング部マネージャー。
百瀬架純……四木高3年。モデルのようにカワイイ顔をしているが、毒舌家。
青山梨花……四木高3年。ギャル系ファッション。宮沢玲奈のことを敵視し、学校から追い出そうとする。
牧野里琴……四木高3年。不良系ファッション。常に青山梨花のそばにいる、無口な少女。テコンドーの達人。
葉山未衣愛……ギャルグループの一員で、梨花の取り巻きの1人。
山口万美……ギャルグループの一員で、梨花の取り巻きの1人。
寺田美寿々……ギャルグループの一員で、梨花の取り巻きの1人。
大野美津子……四木高国語教師。生徒からは慕われているが、ちょっと頼りにならない所がある。
壁一面に張られた大型の鏡に向かって立ち、西沢茉優は、大きく息を吐き出した。グレーのスウェットパンツにピンクのタンクトップ、左腕は、手のひらから肘の下あたりまで包帯が巻きつけられてある。その左手を拳に握り、顔の前まで上げると、右足を引き、右拳は顎の下に構えた。それに合わせたかのように、室内にゴングの音が鳴り響く。茉優は身体を上下に揺らしながらステップを踏む。目の前にあるのは鏡に映った自分。しかしそれは、茉優の目には倒すべき相手に姿を変える。茉優だけに見える、仮想の敵。茉優はステップを踏みながら左のジャブで牽制し、スキを付いて右のストレートを打ち込む。敵の反撃を上半身の動きとフットワークでかわし、さらにパンチを打ち込む。しばらく仮想の敵との戦いを続けていたが、再び室内にゴングが鳴り響いた。茉優は腕をおろし、ゆっくりと歩きながら呼吸を整える。1分間のインターバルだ。
ここは、四木女子高校のグラウンドの一角にある、ボクシング部の練習場。広さ約30坪。中央には、試合にも使えそうな立派なリングがあり、そのそばには、天井から吊るされた大小のサンドバッグ、ウエイト・トレーニングを行うバーベルやダンベル、そして、あらかじめ設定された時間に合わせて鳴るタイマー・ゴングと大型の鏡。ちょっとしたボクシングジムにも匹敵する設備である。決してメジャーとは言えない高校の女子ボクシング部に、これだけの設備投資をしている所は、全国的にもあまりないだろう。
再びゴングが鳴り、茉優はシャドー・ボクシングを再開する。世界にゾンビが溢れるアウトブレイクが発生してから2ヶ月。春に予定されていた高校選抜大会は中止(と言うよりは、自然消滅と言った方が正しいが)となり、2ヶ月後の7月下旬に開催予定のインターハイも、開催の見込みは無い。それでも茉優は、トレーニングを欠かしたことはなかった。ゾンビ相手の護身術として十分役立つ、というのはもちろんだが、ボクシング部の顧問でありコーチでもある教師への恩返しの意味もあった。
ゴングが鳴り、再び1分のインターバルの後、もう1ラウンドシャドー・ボクシングで汗を流す。合せて3ラウンドのシャドーを終えた茉優はリング側のイスに座り、スポーツドリンクを飲んだ。失われた水分が補充され、身体中が潤って行く。茉優は大きく息を吐き出し、天井を見上げた。
ゴトリ……何かが崩れたような低い音が聞こえた。
練習場内には茉優1人しかいない。グラウンドの一角にあるこの練習場を訪れる生徒は、今はもう、ほとんどいなかった。
茉優は、物音を気にした風もなく、ただ、天井を見つめ続ける。
――と。
「――おはようございまーす!」
入口のドアが開き、室内に可愛らしい声が響く。現れたのは、ツインテールの小柄な女生徒。2年の市川美青である。
「茉優先輩、今日も朝練、お疲れ様です」美青は茉優に向かってにっこりと微笑んだ。
「美青、ここには来るなって、いつも言ってるだろ?」茉優は呆れ口調で言う。四木高のグラウンドの一角にあるこの練習場に来るには、多数のゾンビがうろついているグラウンドを通らなければならず、危険な行為なのである。
「先輩だって、1人で来てるじゃないですか」美青は悪びれる様子も無い。「それに、あたしが来なかったら、先輩、校則違反になる所だったんですよ? 『校舎の外に出るには担任教師の許可を取り、必ず2人以上で』。大野先生には、先輩とあたしの2人で練習場に行く、と言って来たんで、安心してください」
「そりゃ、わざわざどうも」
「まあ、朝練の様子を見るのも、マネージャーの務めですからね」
「マネージャーなんか、今さら必要ないっての」茉優は小さく笑いながら言った。美青がボクシング部のマネージャーになると言い出したのは、アウトブレイク後のことなのだ。
「まあ、そう言わないでください。はい、コレどうぞ」美青は笑顔のままタオルを差し出す。茉優は苦笑しながら受け取り、汗をぬぐった。
2年前、茉優と顧問の教師のたった2人だけで始まったボクシング部。その頃はまだこの練習場はなく、体育館やグラウンドの隅で、ひっそりと練習するだけだった。それが、今では小さなボクシングジムにも匹敵する豪華な設備を与えられている。アウトブレイクさえなければ、春には大勢の部員が入部するはずだった。それが今は、茉優と、自称マネージャーの美青の2人だけになってしまった。
しかし。
――先生。ボクシング部は、まだ続いてるよ。
茉優は、再び天井を見上げた。
ゾンビだらけの世界になっても、部員が1人になっても、茉優は、このボクシング部を続けていくつもりだ。自分がこの四木女子高校にいる限りは、ずっと。
それが。
茉優にボクシングを教えてくれた藤重先生への、唯一の恩返しなのだから。